流刑地にて.4
次回の投稿は木曜日となります!
よろしくお願いします。
本当に、奴隷とは思えないくらいにきめ細やかな肌だ。
私は手当を受け、ベッドに寝かされたレイブンの静かな寝顔を見つめてそんなことを考えていた。
「…よほど大事にされてきたのよね…」
ぼそり、と呟きが漏れる。
レイブンは、形式上、バックライト家の所有財産だった。
公爵夫人が少女趣味だとは聞き及んでいたが、実際にこの子が奴隷として目の前に現れたときは驚かされた。自分が想像していた奴隷とは、まるで違ったからである。
ガリガリに痩せ細っているわけでも、傷をつけられているわけでもない。全うな人間として扱われていたみたいな感じだ。
そもそも、夫人の話をするときのレイブンの執拗さを思えば、彼女が夫人に憎しみを抱いているわけでもなさそうだった。
奴隷問題は魔物被害や戦争被害ほど大きくはなかったから、私自身、先送りにしていたことだが、いざ実物と関わってみると分からないことばかりだ。
私は何を思ったか、レイブンの頭に手を伸ばす。さらりとした髪は指の間で透き通るようだったが、一気に色々と起こったせいか、見た目よりかは荒れていた。
「私に関わらなければ、この子も…」
寝不足で重くなった頭が余計なことを考えたせいで、表情が曇る。
不意に、コンコン、とノックの音が響いた。
「儂じゃ、入るぞ」
声の主はこちらの許可を待たずして扉を開けた。
「どうじゃ、具合は」
現れたのは、例の村で私を助けた女だった。
「今のところ、大丈夫よ。うなされている様子もないし、眠っているみたい」
「まあ、相手も死に損ないだったようじゃからの。深く斬り込む力も残ってなかったのじゃろう」
彼女は私が座っている後ろを通ると、一度、レイブンの顔を覗き込んだ。そして、言葉もなく頷いた後、窓を開けて月の光を取り込んだ。
「助けてもらってありがとう、と言えばいいのかしら」
「おや、妙なことを言うのぅ。村人の命を救ってもらったのはこちらのほう。ありがとう、は儂が先に言うべき言葉じゃ」
そう言うと、彼女は深く頭を下げた。芝居がかった様子ではあるが、その言葉に偽りはないとは思う。
私はレイブンの髪を撫でる手を止め、女へと向き直った。
彼女が着ているものは自分が着ているものとはまるで種類が違った。いわゆる民族衣装というやつなのだろう。
「まだ、名前も聞いておらんかったな。のう、名はなんという」
なかなか新鮮な経験ね、と心の中で一人ごちる。
王国では、オルトリンデ家といえば知らない人のいない指折りの公爵家の一つだったからだ。
「私は、リリー。リリー・ブラックよ」
「ほう、黒百合か」と女はなぜか嬉しそうに笑った。「本名ではあるまい。まあ、深くは聞きはせぬ。名前がないと不便だから聞いたまでじゃ」
本名じゃないことをどうやって見抜いたのか…油断ならない相手だ。今は敵ではないとはいえ、状況が変われば戦わざるを得なくなる可能性はある。心を許しすぎるのは危険だ。
そう、状況が変われば、敵か味方かは変わる。
私にも仲間はいた。魔物討伐の任を与えられるときは、いつも同じメンバーでパーティーを組んで戦ったものだ。
近衛騎士のマルグリット。
魔導教会シスター、サリア。
同じ公爵令嬢で、幼馴染だったルピナス。
マルグリットは融通の効かない頑固者で、サリアは気が弱く、ルピナスは楽天家。
大変なメンバーだった。喧嘩したことも一度や二度ではない。
脳裏に、みんなの顔が浮かんだ。一枚の写真みたいに切り取られた思い出はキラキラしていて、孤独にしみた。
(…みんな、私を信じてくれなかった。ストレリチアの甘言に従って、私から離れていった。そんな薄情者たちのことなんて、忘れてしまわなければ生きていけないわよ…。私はもう、リリー・ブラックなのだから…)
私は過去を振り払うように強く瞳を閉じる。
信じられるのは、自分だけだ。
「…それで、貴方のことは何と呼べばいいのかしら」
「儂か?儂はワダツミ。一応、この自警団の長をやっておる」
女――ワダツミは着物の裾をひらり、ひらりとはためかせて体を回転させてみせる。この動作に何の意味があるかは分からない。
「自警団…ここも、その拠点なのね」
「左様」
村でワダツミらに助けられた私は、レイブンの傷を癒やすべく、彼女らに従って森の中に入っていた。
高い針葉樹の森を少し進むと、社があった。エルトランドで見ていた教会とは違う属性を感じたが、同じ神を祀る建物だと直感で分かった。
階段を上り、鳥居をくぐる。すると、木造の建築物がいくつも固まって建てられていた。
その一棟の中で、レイブンの治療は始まった。もちろん、手配は全てワダツミが行ってくれていた。
「さて…」
ワダツミは窓枠にトン、と腰掛けると、足を組んだ。年齢不詳の見た目だが、艶やかな振る舞いに違いはない。
「お主、何者じゃ?」
「深くは聞かないんじゃなかったのかしら」
「それは名前についてだけじゃ」
ワダツミは片手を上げて肩を竦める。
「名前には、人の運命が刻まれておる。与えられた名もそうじゃが、己でつけた名など、もっと深く刻まれておるものじゃ。だから、そこにおいそれと踏み入るつもりは毛頭ない。しかし、お主自身は別じゃ。――それで?黒百合。お主は一体何者で、何が目的でオリエント人の奴隷なぞを連れて敵国を彷徨っておる」
はっ、と私は息を飲んだ。
レイブンの素性は誰にも言っていない。服装だって奴隷のものではない。バックライト夫人が用意したものは、一般的か、それ以上の質の旅衣装だ。
ワダツミはこちらの沈黙に、少し小馬鹿にしたような笑みを返した。
「どうしてそれを、とでも言いたげな顔よのぅ」
瞬時一転、彼女の顔は険しい、不快さを露わにしたものへと変わる。
「馬鹿にするでない。あのような背中の傷、普通に生きていてつくものか。短刀か何かでつけたのじゃろう。…おぞましい、エルトランド人の考えることはよぅ分からん」
「背中に傷…」
そんなところに傷があったのか。なるほど、私が知らないその傷を、ワダツミたちは治療の際に目の当たりにしたということだ。
同胞が酷い扱いを受けている、その証拠を。
突如、のったりとしていたワダツミの空気感が殺伐としたものに変化した。
「私がつけたものではない、と言っても、信じてもらえないのでしょうね」
「儂がそこまで間抜けに見えるか?」
すっ、とワダツミが着物の隙間に手を入れた。暗器か何かを取り出すのだと考えた私は、とっさに、壁に立てかけていた刀を手に取った。
「動くでないぞ」
切っ先を構えるより先に、ぴりりとする声で彼女が警告する。
「残念ながらお主では、逆立ちしたって儂には勝てん」
屈辱的な言葉に青筋が立つも、次の瞬間、ワダツミが胸元から抜き取った紙の束を見て、動きが止まってしまった。
私が仕留め損なった男を葬った、紙の蛇。
あれは、魔導の類だったのか。
今の私に、あれを対処できるだろうか。
積み重ねた魔導を失った、無力な私に。
「さあ、正直に申せ。お主は何者で、何の目的でここにおる」
ゆっくりと、ゆっくりと、紙の束が形を成していく。
それはやはり、蛇のような姿をしていた。
おぞましさと神聖さを同時に孕む姿に、白蛇を彷彿としていると、それは私を中心として緩慢な動きでとぐろを巻いてきた。
「返答次第では、容赦はせぬ。そこにおる同胞の痛みの何千倍をも上回るものを与えてから、我が式神の餌にしてくれるぞ」
氷のように冷たい視線の刃に、私はらしくもなくたじろぎ、返答に窮した。
白蛇が、私を脅すように白い舌を私の首筋にチロチロ這わせる。
冷たい汗が背筋をつたっても良い案が浮かばずにいた、そのときである。
「背中の傷は、お嬢様がつけたものではありません」
「それは、真のことじゃな」
何度か同じ確認をしたうえで、まだ疑るような眼差しを向けてくるワダツミにレイブンは静かに頷いた。
「はい。背中の傷は、以前にお仕えしていた奥様につけられたものでございます。お嬢様とはなんら関係ございません」
上体を起こしたレイブンは、少しだけ片目を閉じて痛みをこらえているようだったが、幸い、そんなに大きな傷ではなさそうだった。
とはいえ、怪我をしたことに変わりはない。私は、刀から手を離さないまま言った。
「レイブン、まだ寝ていなさい」
「お嬢様、私は大丈夫です。それより…」
ちらり、と彼女は無感情な眼差しで紙の蛇を見やると、次にワダツミのほうを見て、目を細くしながら告げた。
「あの、誤解ですので、それをしまってください」
ワダツミはしばし、レイブンの意図を探るように彼女の瞳を見つめた。しかし、その深い黒からは何も覗けなかったのだろう、短いため息と共に、ぱちん、と指を弾いた。
瞬間、紙は形を変え、あるべき長方形の白い紙片へと戻った。
「…事情が、あるのじゃろうが…」
ワダツミは煮え切らない口調でぼやくと、ぴょんと窓枠から飛び降り、レイブンのそばへと歩み寄った。
「のう、お主。エルトランド人など庇っても、一文の得もないぞ?」
「事実を述べているだけです」
「ふむ…」
がしがし、とワダツミは自らの頭をかいた。さらさらの黒髪が波のようにうねった。
「まあよい。よいが、だったらこやつは何者じゃ。レイブン、と申したな。お主の、同胞の口から儂はそれが聞きたい」
「ちょっと待ちなさい。その子は――」
「お主は黙っておれ」
ワダツミは有無を言わさず私の言葉を遮った。
レイブンから説明などさせられるわけがない。なぜなら、彼女は何も知らない、不幸にも巻き込まれてしまっただけの奴隷に過ぎないからだ。
余計なことは言わないでよ、と念を込めてレイブンを見つめるも、彼女の顔には何の反応もない。
このまま口を閉ざしているほうがこちらとしてはありがたい、と考えた矢先、願い虚しく、レイブンは口を開いた。
「お嬢様は、エルトランド王国の在り方に嫌気が差して家を出られたのです」
私はそれを耳にしてぎょっとした。半分本当だが、半分は虚実でできた巧妙な嘘だったからだ。
国の在り方に嫌気が差していたのは本当だ。ただ、私はそれで家を出るのではなく、暗殺という強引な手段に出たのである。
レイブンが息を吐くように嘘を吐いたことにも驚かされたが、やはり、上手な嘘を吐いたことのほうが驚いた。
これなら、ワダツミも鵜呑みにはせずとも、一蹴はしづらいだろう。それに、こちらも上手く合わせられる。
「ほう、嫌気がのぅ」肩眉をひそめ、ワダツミが私を見てくる。「育ちは良いようじゃから、何不自由なく育ったと思うが、本当かぁ?」
「確かに、生きていくうえでは不自由なかったわ。けれど、それとこれとは別の問題だったのよ」
「別の問題とな」
「ええ。貴方、エルトランドの巫女のことは知っているかしら」
すると、ワダツミは苦い顔をして、「あぁ」と声を洩らした。
「神託の巫女――すとれり、なんとかじゃろ。未来を予知するとかいう、ペテン師じゃ」
「ペテン師じゃないわ」
思わずムッとして反論する。その後になって、どうして私が怒っているのだろう、と奇妙に思った。
あんなやつが批判されようとも、私が気にすることはない。それにも関わらず、なぜだろう、黙っていられなかった。
「ストレリチアが告げる予言は百発百中よ。天災から、日常の出来事、魔物の動きまで、あいつの予言の内容が外れたことは、今まで一度もない。人為的には操作しようのないことまで言い当てるから、あいつは本物の預言者なのよ」
ふふっ。
頭の奥で、彼女が笑う声が聞こえた気がして、私はさらにムカムカした。そうして、眉間に深く皺を刻みこんでいると、それを面白がるみたいにワダツミがコロコロ笑った。
「なんじゃそいつ。お主が言うことが真実ならば、そいつは人ではなく、魑魅魍魎の類ではないか」
「ち、ちみ…?」
聴き慣れぬ言葉に首を傾げれば、ワダツミはそれが『人ならざるもの』だと説明してくれた。
「あぁ、なるほどね。そうよ、私からしたらストレリチアは人じゃないわ」
ふと、指輪に視線を落とす。
――だが、だとしたら彼女はなんだ。
憎しみから人を傷つけるのはよく聞く話だ。しかし、私の薬指に指輪をはめたストレリチアが浮かべていた表情…あれは憎しみではない。憎しみではない何かを、私に与えようとしていた。
それがなんなのかは考えたくないし、知りたくもない。
私は、あいつを憎むことができればそれでいい。
「あいつは、悪魔よ」
嫌悪感をみなぎらせてそう言えば、ワダツミは興味深げに瞳を光らせた。
「じゃが、魍魎だろうが悪魔だろうが、使えるものはなんでも使うのが人間じゃろうて。百発百中の預言者――為政者にとってはまさに垂涎もの。喉から手が出るほど欲しいその悪魔を、なぜ、お主は毛嫌いする?酒池肉林を極めておるのか?」
「いいえ、その逆よ」
「逆?」
「生活は質素だし、王子からの求婚も断っているわ」
「ほほぅ」
「立場を利用して利益を得ようとすることはまずないし、敵対的な相手であっても下手に出て、常に平等、優しく、慈悲深い――そのうえ、まぁ、容姿も淡麗よ」
「ふぅむ、絵に描いたような聖人じゃな。それで?何が気に入らん」
「あの子の、ストレリチアの選択は、いつだってハイリスクすぎる」
そこで私は、ストレリチアがどんな予言をして、どんな行動を推し進めてきたかをワダツミに説明した。すると、彼女は大層満足げな様相で、レイブンの横たわっているベッドに腰かけた。
「百発百中の予言じゃろぉ?よいではないか、別に」
「いいわけがないでしょう、そんなもの結果論よ」
「はっ、大衆は結果しか見らん」
冷めた言い回しと共に、ワダツミは鼻を鳴らす。
私はその後も、いかにストレリチアが王国の未来にとって危険な人間なのかを説明した。だが、ワダツミは聞いているのか聞いていないのか分からない相槌を返すと、「お主がどれだけそやつのやり方が嫌いなのかは分かった」と言って立ち上がった。
結局、どこに行ってもこうだ。
ストレリチアは結果を出す。
もしも、予言が外れたら…という言葉の『もしも』を削り殺すみたいに、彼女はひたすら正確に未来を見通す。それを繰り返しているうちに、そんな『もしも』は無駄だと誰もが思うようになっていった。
私はあの頃の悔しさを思い出すように俯いた。
「儂は同胞たちにお主の正体を報告してくる。気になってしょうがないようじゃったからのぅ」
それからワダツミはレイブンに、「病み上がりにすまんかったの」と気遣いを残して扉を開けた。
外からは虫の音が聞こえてきていた。静かで、厳かな時間かもしれなかったが、私はやはり納得できなかった。
「しかしなぁ…」
不意に、部屋から出て行こうとしていたワダツミがこちらに背を向けたまま言葉を発した。
「金もいらん、権力もいらん、男もいらん…そやつは一体、何が欲しいのじゃろうな?」
肩越しに、ワダツミが振り返る。
「…そんなの、こっちが知りたいわ」
私が依然、顔をしかめてそう返せば、ワダツミは肩を竦めて言った。
「やはり、そやつは魍魎じゃの。黒百合」
ふふっ、とワダツミは笑う。
「人間を象徴するものは、欲望じゃ。それがない――いいや、見えないというのは、魑魅魍魎としか考えられん」
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