業ある帰還.7
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次に目覚めたときには、すでに日が暮れていた。
窓の向こうに、薄紫に染まるエルトランドの山々が確認できる。酷く懐かしいものほど、息苦しさを覚えるのはどうしてだろう。
隣では、未だレイブンがすやすやと寝息を立てていた。お互いにとても疲れていたのだろう。一応、敵地とも呼べるこの地で揃って意識を手放すほどなのだから。
身を起こし、ベッドから離れる。そうして、備え付けのワインとグラスを手に取った私は窓枠に近づき、グラスの中に真っ赤な液体を注いだ。
ブラッディリリー。エルトランドの銘酒であり、あまりお酒を飲めない私でも気に入っている一杯である。
口に含み、舌の上で少し鉄っぽい酸味を転がし、味わう。
昔と同じことをしてみせれば、あのときみたいな気持ちになれるかと感傷的な期待を抱いたが、現実は非常で、これからのことばかりが頭に浮かぶ。
両国の関係、旧友や両親との気まずさ、そして、私を待つだろうストレリチアの思惑…。
「…神様は残酷ね。酔わせてもくれないなんて」
やがて、そうして自嘲する私の耳に扉がノックされる音が聞こえた。
ドクン、と心臓が跳ねる。あまり合わせたくない顔を合わせることになると直感したからだ。
「あの、アカーシャ…?」
あぁ、やっぱりそうだ。これはルピナスの声である。
私はどんよりとした気持ちのまま無言で扉を見つめていた。そのうち、ルピナスが踵を返してくれないだろうかと期待したが、扉は再びノックされ、「アカーシャ、話があるの。扉を開けて」と訴えられる。
大きなため息を吐いて、額に手を当てる。
もはや、避けられないことのようだ。
「鍵は開いているわ。勝手に入りなさい」
突き放すような物言いの後に数秒置いて、おそるおそる扉が開かれる。完全に開放された扉の先には、翠のネグリジェに身を包んだルピナスが立っており、その端正な顔立ちは確かな不安と安堵で彩られていた。
「アカーシャ――」
「先に言っておくけれど」
私は言葉を遮り、指の隙間からルピナスを睨む。
「私はアカーシャ・オルトリンデではないわ。今や彼女は虚無の向こうに消え、ここには流浪のエルトランド人であるリリー・ブラックだけが残されているの」
「あ…っ…」
「分かったら、私をアカーシャと呼ぶのをやめなさい。…そうすれば少しは話も聞くわ」
最後の一言は、傷つき顔のルピナスに負けてのことだ。今さら彼女を気遣うなんて、本来であればどの面下げてできるのか、と罵られることだろう。
私は彼女の父を、母を殺した。彼女も目にした言い訳不可能な事実である。
それなのにルピナスは安堵の面持ちを見せる。
「ありがとうございます…リリー」
「何のお礼よ。私は、貴方の…」
ルピナスが正しく私を憎めるように言葉を紡ぐつもりだったのに、情けないことにそれ以上は言えなかった。すると、そんな私の内心を察したようにルピナスが瞳を細めて俯いた。
「それでも、言わせて下さいな。刃を交えた者同士なのに、今こうして、私の話に耳を傾けて下さることへの感謝を」
「ふん…」
私は嫌味っぽく鼻を鳴らすと、先ほどと同じようにしてグラスにワインを注ぎ、依然として部屋の入口で佇むルピナスへとそれを掲げてみせた。
「一杯いかがですか?ルピナス・フォンテーニュ様」
「え?いえ、今は…」
「あら、ごめんなさい。そうですわよね。敵から手渡しされるグラスなんて、口をつけられませんわよね?毒が入っていたら大変ですもの」
嫌味に嫌味を重ねる。それで少しルピナスが怯んだり、苛立ったりしてくれれば私の中の何かが救われたかもしれないが、彼女はそんな私の思惑を知り尽くしているような微笑みを浮かべ、「そこまでおっしゃるのであれば、頂きます」と言ってグラスを手に取った。
そのまま躊躇なく喉に流し込まれる血のように赤い液体。疑いのひとかけらもないことを示す行動に、私はどこか悔しくなって苦い顔をする。
「ご馳走様ですわ、リリー」
「…お人好しね。その優しさ、いつか誰かに利用されるわよ?例えば、私とか」
「ええ、そうかもしれませんわ。ですが…利用されると知っても、私はこの美徳を手放せません。それが私という人間の生き方ですから」
「ちっ…」
舌を打てば、ルピナスがグラスを私に向けて掲げてきた。乾杯したいらしいが、絶対にごめんだという意思を込めて彼女を睨む。そうすれば、ルピナスは物悲しそうに目尻を下げる。
そんな目で私を見てくること自体、何かの嫌がらせのような気がする。狸寝入りしている罪悪感を起こしたいのではないかと。
そのうち、ルピナスはベッドに横たわるレイブンに気がついた。
「あの子は…浜辺にいた…」
「レイブンよ」
さっさと本題に入りたい私は早口で説明する。
「かつてはバックライト夫人の奴隷だったけれど、今は私の従者――いえ、相棒、かしら」
絶対にレイブンは受け入れないだろう表現で彼女を説明する。あぁ、なかなかにしっくりくる感じがした。
「相棒…?」
ふと、ルピナスが怪訝そうな、どこか私を責めるような声を出した。
「貴方の相棒は…!」
と、そこまで言いかけてルピナスは弱々しく俯いていく。明らかに辛そうな彼女を見ているのも億劫になった私は、ぷいと瞳を逸らし、「本題に入りなさい。私も暇ではないのよ」と嘯いた。
やがて気を取り直したルピナスは、今のエルトランドの状況を詳細に語ったのだが、その多くは、すでに私が予見していたとおりのものだった。
ルピナスやマルグリットは抑圧され、後回しにされる地方出身の貴族を代表して立ち上がったこと。
中央で巨益を貪っていた貴族、公爵連中以外はすでにオリエントの降伏条件を飲み、対等な交易のために動き出していること。
そして最後に、“ストレリチア”という錦の御旗が失踪したことの国内への影響の大きさである。
「…王も相当の人員を割いてストレリチア様の行方を捜索したようですが…未だに足跡一つ見つかっておりません」
「…空間転移魔導を使うような人間相手に、無駄な努力でしょうね」
私はストレリチアの居所が聖殿にあるのでは、という情報はあえて伝えずに皮肉った。
なんでもかんでも私に対してだけ、裏の顔を見せる彼女のことだ。他の人間が訪れたら、場所を変えるなりするかもしれない。そんな無駄なことになるくらいなら、私一人で行ったほうがマシだ。
一通り話を終えた後、ルピナスはまだマルグリットが私を赦していないということを説明した。
分かり切っていることなのに、何のために説明するのか私には理解し難かったので適当な相槌を打って、聞く気がないことを言外に示す。そうすれば、彼女はとうとう話す話題を失ってその場に立ち尽くしてしまった。
埃が詰まったような静寂の中、レイブンの穏やかな寝息が聞こえる。
ふと、ルピナスがグラスを見つめながら私に問いかけた。
「貴方は…これからどうするのですか?」
憂うルピナスは随分と大人びた顔立ちに見えた。この一年足らずで私の知らないことをたくさん知ったのだろうか。
やがて、彼女とは違う方向に大きく変わった私は告げた。
「…貴方に関係ないわ」
何をするにも一緒だった幼馴染は、酷く傷ついた顔で私を見つめた後、無言のまま部屋から出て行くことを余儀なくされるのだった。
次回の更新は明日、正午頃となります。




