鎖からの解放.4
三部も折り返しに入っております!
今後もゆっくりとお付き合い頂けると嬉しいです。
紫の月光は、私の心に落ちた澱を吸い込むように妖しく、穏やかにこの赤黒いドレスを包んでいた。
砦のあちこちからは宴の喧騒が聞こえてくるが、中庭に人の気配はない。まるでここだけ、真っ白い用紙に落ちた黒いシミのように異質な静けさがあった。
あの中に混じることもできる。そうすれば、私もシミではなくなるかもしれない。
(でも…私はそれを選ばない)
そんなよく分からないセンチメンタルを抱えたまま、私は木のベンチに腰を下ろす。
不気味な月に、瞬く星。それから高貴な静謐がいつの間にか尖っていたらしい私の神経を解きほぐしていくのが分かって、長い吐息を漏らす。
「…今回ばかりは、死ぬかと思ったわ」
ぼそり、とこぼれた独り言にハッとする。
(死ぬことなんて、怖くないと言ったのに…やっぱり、安堵しているのね…)
無意識のうちに、ゴルドウィンとの戦いで風穴が空いた腹部をさすっていた。おそらく、フウカがすぐそばにいて、治療してくれていなかったのであれば致命傷になっていたことだろう。
(綱渡りの作戦だったわ。オリエント側の練度の高さ、私とワダツミの粘り、それから、レイブンの爆発力。そのどれか一つでも欠けていたら、どうなっていたのかしら…)
我ながらリスクのある選択をした…と自省ともつかない思考を巡らせながらも、改めて背筋を伸ばして広げた手のひらを見つめる。
奴隷公爵ゴルドウィン。エルトランドにおける奴隷制の第一人者。
人が人を支配することに何の疑問も抱かない、この国の在り方を支える屋台船。それを、元奴隷とオリエント王女という最高の手札で、最高の形で叩き折った。この事実がもたらすものは、きっと字面以上の価値があるだろう。
「…素人でも分かる。戦争の流れは、オリエント側に傾いている…」
実際に、地方公爵やそもそも身分が低い貴族たちの間では、アマツ女王の出した降伏要請に応じ始めているものも多いと聞く。これはおそらく、私たち最前線の兵士たちが虐殺や拷問といったインモラルな行動を起こしていないことも関わってくるだろう。
つまり、そう遠くないうちに戦争は最終局面に入る。
そうなると問題なのは…。
ふっ、と脳裏に、アラヒコ王子が水晶越しに示した私の未来が――ストレリチアが涙ながらに私を斬り殺す情景が浮かび上がる。
その残像を固く目を閉じて消し去った私は、ゆっくりと目蓋を持ち上げ、彼女が予言した紫色の月を見つめて口を開いた。
「…ストレリチア…貴方はどうするつもりなの…」
最強の予言者であり、最強の魔導士であるストレリチアが最後の砦としてエルトランド城に現れるのか。それとも、ウォルカローン砦で私に告げたように、聖殿で私を待つのか…。
分からない、がただ一つだけ言えることはある。
彼女は、この戦争になんか興味はない。
もっと違うものを見ている。
国家間の争いよりも、もっと先の…そう、未来を。
砦で剣を、言葉を交えた彼女の顔を思い出す。真剣そのものでありつつも、酷く悲哀に満ちた面持ちをしていた。
「貴方は…ただ、気に入らない人間を貶め、苦しめたいだけの異常者ではなかったの…?でも、だとしたら…」
だとしたら…アカーシャ・オルトリンデや、彼ら、彼女らの死は何のためにあったのか。
それに値する答えを、ストレリチアは持っているというのか?
…私には、到底そんなふうには思えない。
これだけの犠牲を、悲しみを、痛みを生むに相応しい何かなど、そうそう存在しない。あえて挙げるとすれば、例えばそれは“戦争の終結”や“人の尊厳を殺す制度の根絶”だ。
「はぁ…」と私はため息を吐く。
自分を正当化しようとしているような気がしてならなかった。
中庭に横たわる静謐と、孤独。
孤独がもたらすものは時に優しいが、やはり往々にして冷たい。
私が鬱々とした感傷を引きずり、頭を抱え込みそうになっていたそのとき、石畳でできた廊下のほうから声が聞こえてきた。
「あ!リリー!こんなところにいた!」
明るい声。サザンカだ。そのそばにはフウカやワダツミ、それにレイブンといった慣れ親しんだ顔ぶれが並んでいた。
あんな大立ち回りを演じたにも関わらず、今回のレイブンは昏倒していない。特訓の甲斐もあって力が馴染んできているのだろうが…未だに顔色は悪い。
「お主、宴にも参加せずになぁにをこんなところで一人、黄昏とるのじゃ?」
二人ともアルコールが効いているのだろう。赤い顔でこちらに寄って来る。まさかレイブンにまで飲ませていないだろうな、と心配になったが、彼女はいつもの無表情。どうやら問題はないらしい。
すると、フウカがこちらに歩いて来ながら、隣に並ぶレイブンに何やら耳打ちしてみせた。どうせろくでもないことだ、と考えているうちに、レイブンが怪訝な顔のまま私のほうにひらひらと手を振った。
それは、初めてのことだった。
そうしているレイブンは、年相応に見える。あどけなさを残した少女。蝶になる前の蛹、あるいは、羽ばたくときが間近に迫った雛鳥か。
(あの子は変わっていくわ…人間としても、私の翼としても…)
何とも言えない胸の疼きを抱きながら、私が振り返すまでレイブンは手を振り続けるのだろうという予測から、片手を上げて振り返した。
そのとき、またいつぞやみたいに過去の思い出が現実にまで浸食してきた。
怪我から復帰した私をエルトランド城下町で手を振って迎えてくれた、ルピナス、マルグリット、サリア…。
振り返した手が、ぴたり、と時を刻む宿命を忘れた時計の針みたいに制止する。
(――どうして、私はこうも甘いの…あんな目に遭ったのに、他人に縋って生きていくことをやめられない…)
温もりを覚えてしまった心が、“仲間”を求めて放浪する。言葉でどれだけ否定しても、そういう自分がいることは認めざるを得なかった。
紫の夜闇も、青ざめ、苦悶に満ちた表情で俯く私を隠してはくれなかったのだろう。レイブンたちは怪訝な、でも心配そうな顔で互いに顔を見合わせ、それから私の元へと足早に寄ってきた。
「リリー、大丈夫?顔色が悪いよ」
癒し手でもあるフウカが私にそう問いかけるのに対し、なんとか首を左右に振って応えてみるが、それでは納得しなかったフウカに肩を触られた。
「傷が痛むの?ごめんね、もう一回――」
「触らないで」
反射的にフウカの手を払う。
フウカが少しショックを受けたような顔をするから、さすがの私もまずいことをやったと思い、みんなに背を向けながら、「…ごめんなさい。私のセンチメンタルよ。そっとしておいて」と説明する。
「…リリー…うん。大丈夫だよ」
フウカは優しい。レイブンにも命のなんたるかを教えてくれていると聞いた。そんな偉そうなことを口にできなくなった私の代わりに、彼女がレイブンを正しく育ててくれれば、どれだけよかっただろう。
「…そっとしておいてやりたいがのぅ、黒百合」とワダツミが間を置いて語り出す。
私も初めはこちらのお願いを聞き入れないワダツミに苛立ちを覚えたのだが、続く言葉にそんな一時の感情も忘れることとなった。
「ストレリチアのことで、お主に伝えねばならんことがあるのじゃ」
「ストレリチア、ですって?」
「うむ。サザンカ」
ワダツミは小さく頷くと、ちらりとサザンカのほうを一瞥した。どうやら、詳しい情報を持っているのは彼女らしい。
サザンカは、エルトランド首都フルールズで情報屋をやっている古い友人から流れてきた情報であることを前置すると、私が目を丸くしなければならないようなことを語った。
「ストレリチアって人、少し前から行方が分からなくなってるんだって」
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