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鴉の雛鳥.4

次回の更新は土曜日となっております!

 大きい、というのが最初の感想だった。


 屋根裏で寝起きしていると、嫌でもこの手の獣とは親しくなる。


 だから、最初に見た瞬間、見覚えのあるフォルムに対して、縮尺が狂ってしまっているこのサイズに私は驚いた。


 ただ、それも最初の数秒だけ。


 そのうち、その魔物が私たちのほうを向いて牙を剥き出しにし、毛を逆立て、威嚇音を発したときには、本能的な恐怖を覚えた。


「あ…」


 動くこともできず、かといって、悲鳴を上げることもできない。段々と立っているという感覚が変になってきて、腰を抜かしかけたそのときだ。


「奴隷っ!」


 ハッ、として足に力が戻る。夫人が極稀に怒ったときの声と、それは似ていた。


「死にたくないのなら、こっちに来なさい!」


 そこから先はほぼ反射的な行動だった。


 刷り込まれた、命令への絶対服従の意志が私にそうさせる。


 私が彼女に駆け寄ると、彼女はまるで私の身を守ろうとするみたいに、自分の陰に私を押しやった。


「あの」


 これではいけない。これでは、あべこべだ。


 奴隷とは、主人のために全てを捧げるべきものだ。それこそ、命だって当然、その一つである。


「じっとしていなさい。この魔物に、私たちが下がっても襲ってくる意志があるか、確認する必要があるわ」


 低い、緊張感に満ちた声。それを聞いてもなお、私は震えていた。魔物が怖いのではない。夫人の命令に反し、私が守られてしまっていることが怖かったのだ。


 じわり、じわりと私は彼女に促されて後退する。


 イタチ型の魔物は、絶えず威嚇音を発しながらこちらを観察していたのだが、今すぐに襲ってくる気配はない。もしかすると、縄張りから出ていきさえすれば、それでいいのかもしれない。


 しかし、私が足元に転がっていた松の枝を踏み折ったとき、事態は急変する。


 バキッ、と乾いた音が緊迫した状況を刺激した。


 ふしゅう!


 枝折れの音に警戒心を刺激されたイタチは、その細長くしなやかな体躯をうねらせて、私たちに飛びかかってきた。


 命を排除しようという明確な敵意を前に、私の身は硬直する。それこそ、彼女がとっさに私を連れて横に動いてくれていなかったら、あの攻撃的な造形の鎌はこの体を引き裂いていたことだろう。


「ぼさっとしないで!」

「あ、申し訳――」

「謝罪は後よ、奴隷!今は…」


 私はまた自然な形で彼女の後ろに隠れてしまう。そして、その華奢ながら頼もしい背中越しに、決然とした声を聞いていた。


「こいつを、なんとかしなくては…!」


 再び、イタチが躍りかかってくる。それを彼女の導きでかわし、また背後に隠れる。


「あの」


 私を囮にして下さい…という言葉が喉まで出かかる。しかし、彼女はそれよりも早く、颯爽と落ちていた棒切を拾い上げると、くるり、と着地と同時に反転したイタチの鼻っ面にその切っ先を真っ直ぐ突き立てた。


「やあっ!」


 ゴッ、と鈍い音がする。それでイタチは驚いたのだろう、ぶるりと体を震わせた。


 さらに警戒心が増したらしいイタチは、目の前で棒切を構える敵を睨みつけると、恐ろしい唸り声と共に右腕を振り払い、その鋭い爪で引き裂こうとした。


 彼女は、それを後退してかわすと、空振ったイタチの鼻っ面にもう一度、棒切を突き立てる。


 やはり、ちょっとは痛いのだろう。きゅう、と可愛らしい声と共に今度はイタチのほうが一歩下がった。


 見事な動き。美しい刺突だった。


 魔導の腕前で有名なアカーシャ・オルトリンデは魔物退治だってすすんでやる人間だと聞いていたから、さぞ強いのだろうと思っていたが、まさか棒切を持たせても強いとは思わなかった。


 しかし、ぞっとする光景だった。華奢な女が、ただの棒切を手に自分の身の丈以上の魔物と交戦しているなんて…。


 私は、我も忘れて戦いに魅入っていた。いや、違う。彼女の恐れ知らずの行動と、優雅な身のこなしに魅入っていたのだ。


 鼻っ面を何度も打たれたイタチは、怒りに身を任せて彼女を噛み殺そうとした。彼女はそれを反射的に屈んでかわしたふうだったが、不運なことに、フードにイタチの牙が引っかかり、そのまま引きずり倒されてしまった。


「ぐっ…!」


 立ち上がろうという彼女に、イタチが鎌のついた上腕を振り上げる。


 駄目だ、これでは死んでしまう。


 飛び出すべきか。しかし、間に合う距離ではない。


 どうしてだ。


 どうして、彼女はアカーシャ・オルトリンデなのに…!


 私はとっさに叫ぶ。


「アカーシャ様っ!」


 ぴくっ、とアカーシャと呼ばれた女の肩が跳ねる。同時に、彼女はなんとか横に転がって攻撃を避けると立ち上がった。


「どうして魔導をお使いにならないのですか!?」


 そうだ、アカーシャは魔導の才で有名な人だ。だからこそ、魔物退治にだってすすんで行くし、その功績も目覚ましいのだ。


 それがどうだ。今の彼女は、棒切なんぞで戦っている。触れるもの全てを断ち切るような剣を鞘に納めたまま、棒切で戦っている。


 彼女は、私の問いを受けて忌々しそうに顔を歪めた。何だろう、何かに苛ついている。何かに屈辱を覚えている、そんな感じだ。


 イタチはなおも敵対の意思を示している。このまま棒切で戦っていては、大怪我するかもしれない。


「アカーシャ様っ!」


 呼ぶなと言われた名前を連呼する。


 命令に背くなど、奴隷失格だ。だが、最重要事項は彼女の命を守ること――付き人としての仕事。つまり、私がバックライト夫人に与えられた最後の仕事だ。


 彼女は美しい顔を再び歪めると、苦い顔のまま左手を天高く掲げた。


「『逆巻く紅蓮よ、我が手に集え!』」


 通る声で短い詠唱がなされる。


 その瞬間、彼女が左手の薬指にはめていた指輪が、きらり、と赤く光った。


 何かのマジックアイテムかと思ったが、光を帯びた指輪は何度か明滅すると、虚しくその光を鱗粉みたいに散らしてしまった。


「くっ…」


 何が起きているのかは分からない。ただ、魔導は発生しなかった。それは間違いなかった。彼女の悔しそうな顔が、それを証明している気がした。


「あぁ、忌々しい、ストレリチアめ…っ!」


 彼女が憎しみに満ちた声で何か言った。


「たとえ、天地がひっくり返っても、あいつだけは、あいつだけはこの手で…!臓腑を引きずり出して、なぶり殺しにしないと気が済まないわっ…!」


 呪詛だ。誰かへの、呪いのことごとくをかき集めたかのような呪詛だ。


 じろり、と彼女はイタチのほうを睨んだ。血涙が出そうな憎悪に満ちた瞳だ。


「その邪魔をするのなら、誰であろうと容赦しない。魔物だろうが、人間だろうが、子どもだろうが女だろうがオリエント人だろうがエルトランド人だろうが、踏み潰す!」


 美しい彼女の顔から、あふれんばかりの殺気が放たれた。それは、イタチにもおどろおどろしいものとして伝わったのだろう。イタチは逆だっていた毛をしゅんとしぼませると、とぼとぼと背中を向けて松の森に消えていった。




 危機は去った。だというのに、私はまた別の危機を感じている。


 目に映らない誰かがまだそこにいるみたいに、彼女は肩で息をしながら、虚空を睨んでいる。かと思うと、指輪に視線を落とし、目をこぼれんばかりに見開いて、また呪詛を放つ。


「あぁ…もうっ!くそっ!」


 気が違っている。どうしても、この美しい人を見て、そう思わずにはいられなかった。


「アカーシャ様――」


 私がその先の言葉を発する前に彼女は私の頬を思い切り平手打ちした。


 あまりの勢いに、私は松脂臭い森の地面に横倒しになった。


「その名前で呼ぶなと、何度言わせれば気が済むの!?」


 私は、急いでその場に両膝をつき、土下座の姿勢を取る。


「申し訳ございません。申し訳ございません…」


 足蹴にでもされるだろう、と私はじっと身を固くした。そして、それに何の疑問も持たなかった。


『奴隷』は、消耗品でしかない。


 使い潰す、という表現がこれほどまでに相応しい存在を、私は知らなかった。


『お前は見た目がいいから、夫人に気に入られて良かったな』


 同じように奴隷として働かされている者から、何度も聞かされた。


 そうだ、私は奴隷の中でも幸運な人間だ。


 乱暴されることもある、行為に関する拒否権もない。


 でも、遊び半分で指を切られたり、瞳を奪われたりすることもない。突如として、明日を絶たれることも。


 普通、奴隷は主人を見ると怯えで固まるものだという。


 だから、あの方の胸の中で安らかに眠れていた私は、幸せ者なのだ。


 だが、夫人はもういない。


 あの人は、私を…。


 ごうっ、と胸の奥で何かが揺らめいた。赤と黒の、熱を発する何かだ。


 それを心の目でじっと見つめていると、頭上から、かすれた声が聞こえてきた。


「…ごめんなさい」


 他に誰か来たのだろうか、と慌てて顔を上げる。すると、彼女は私を見ていた。私を見て、謝罪していた。


「ごめんなさい、急に叩いたりして。ほら、立って」

「え、いや、ですが…」

「そもそも、貴方が何を謝ることがあるのかしら…。ごめんなさいね、気が動転してしまっていて…」


 私は彼女の潮らしい態度に面食らった。ぶっ叩く前に優しくなる、あれだろうかと勘ぐるも、その沈鬱な面持ちに嘘はないようだった。


「叫んで、怒鳴って、醜態をさらしたわ。できることなら、忘れて頂戴。いいかしら?」


 いいかしら?

 私は首を傾げた。


「それは、命令ですか?」

「え?」

「え…?」


 きょとんとした顔で彼女が私を見つめ返してくる。よくよく見ると、顔立ちは夫人にあまり似ていない。雰囲気だけだ。


「命令であれば、そうおっしゃって頂けると…」

「命令…?え、いえ、違うわ。これは…お願い、かしら」

「お願い…?お願いと命令は、どう違うのですか」


 まずい、気になって質問してしまった。


 気分を害するかと思ったが、彼女は平気そうに思案顔をした。


「…それは単純に、断る権利があるかないかでしょうね」

「であれば、命令で構わないのではないでしょうか?」

「貴方、思っていた以上に舌も頭も回るようね」


 褒めているようで、褒めていない。この顔は呆れている顔だ。


「貴方がそれをハッキリさせないと困るというのなら、しょうがないわね。命令と受け取ってもらって構わないわ」

「承知しました」


 ヒリヒリする頬のことなど忘れ、私は綺麗な角度で頭を下げる。そうすれば、彼女は不思議そうな顔をしながらも、ほっと安心したふうに吐息を漏らした。


 何度も同じ命令に背くなんて、優秀な奴隷とは言えない。バックライト夫人が今の私を見たら、愛想を尽かすのではないだろうか。


 そんなことを考えると、急に不安が込み上げてきた。


 同じ失態を繰り返してはいけない。しかし、そのためにはある重要な情報が一つ足りていないのだ。

 聞くか、聞くまいか、数秒のうちに何度も悩んだ挙げ句、私は彼女の前にもう一度両膝をついた。


「ご質問させて頂いてもよろしいでしょうか」

「…ええ、いいわ。でも、その前にまずは立ちなさい」

「…はい」


 こっちのほうが安心する、と思ったが、言わずにおく。それも反論だと思ったからだ。


 彼女は私が立ち上がったのを見ると、感情の読めない顔で片手を出した。続きをどうぞ、と促しているのだ。


「私は、その、貴方様をどのようにお呼びすればよろしいでしょうか」


 その問いに、彼女はきょとんとしていた。


 そうだ。いつまでも呼び名が分からないから同じ失態を繰り返す。初めにきちんと聞いておくべきだった。回らない脳みそを情けなく思う。


「名前…そう、そうね…名前がいるわ…」


 ぶつぶつと独り言みたいに声を発する彼女は、空を見上げていたかと思うと、唸り声と共に俯いてしまった。


 困らせただろうか、と私がそわそわしているうちに、彼女は左手の薬指にはまっている指輪へと視線を落とし、不愉快そうな顔をしてから口を開いた。


「ブラックリリー」

「え?」

「今日からの私の名前よ。リリー・ブラックのほうが自然かしら」

「そんなふうに、適当に名前を考えられるものなのですか」


 驚愕からそう尋ねれば、彼女は――リリー・ブラックは不愉快そうに顔を歪める。


「適当ではないわ。ちゃんと考えたもの」


「…失礼しました」謝りながらも、やはり、気になって私は問いを重ねる。「あの、どうして黒百合なのでしょう」


 リリーはその質問を受けて、ふっと真顔に戻った。


 口をつぐみ、どこを見ているのかも分からない無感情な面持ち。意図して感情を殺している、となんとなく分かった。


「私はこれから、復讐のために生きるもの」


 真っ赤な瞳は、怒りとか、悲しみとか、そんな言葉がチープに思えるほど深く、どす黒く濁った感情を宿していた。


 そうか、夫人に聞いたことがある。


 リリー・ブラック――黒百合の花言葉は、『復讐』だ。


 それからややあって、リリーは神妙な面持ちを浮かべると、「貴方にも、新しい名前がいるわね」と言った。


 私はそれを聞いてぞっとした。


「私は、大丈夫です。お構いなく」


「大丈夫って…そういうわけにもいかないでしょう。名前がないと不便なのよ」

「…」


 砂を噛んだみたいな無言の時間。居心地は最高に悪かった。


「そう。命より大事なものだと言っていたものね。辛いのは分かるわ」


 分かるものか。あっさりと自分の名前を放り出せる人間に。


 反射的に覚えた反感が、まさか顔に出ていたのだろうか。リリーは鋭い目つきで私を見下ろした。


「でも、割り切りなさい。これは『命令』よ」

「命令…」と私は救いを絶たれたシスターのように、悲しい声を上げた。

「ええ、そう。命令。貴方が付き人として私と一緒に来るのなら、絶対に従ってもらわないといけない命令よ」


 私の心は、奴隷として、命令を受け入れなければならないという事実に愕然としていた。理屈は通っていると感じても、珍しく従順になりきれないでいたのだ。


 ふと、リリーが低く無感情な声で言った。


「…そんなに嫌なのね」


 ハッとして私は顔を上げる。当然ながら怒らせたと思った。


 だが…。


 リリーは腕を組むと、深く考え込むように目を閉じ、首を傾けた。そして、三十秒ほどそうしていたかと思うと、ゆっくりと目蓋を上げた。


 血のように、あるいは夏の夕暮れのように赤い瞳だ。


「――レイブン」


 バックライト夫人の瞳の色は、何色だっただろう。


「言い回しが違うだけで、『カラス』と全く同じ意味よ」


 覚束ない、記憶の底をさらう。


 どんよりとした海底は、色んなガラクタでいっぱいだった。


「それなら構わないのではなくて?レイブン」


 あぁ、あの人の瞳の色が思い出せない。


 私が悪い奴隷だからじゃない。


 目の前の真紅眼が、あまりにも鮮烈すぎたせいだ。

ブックマーク等、してくださっている方、本当にありがとうございます!

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