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鴉の雛鳥.2

次回の更新は明日になります!

 私は梯子を下りて、暗闇に身を落とした。


 下についてからは、頼りない蝋燭の炎で辺りを照らした。


 狭い、石壁でできた通路だ。かなり古くから存在する隠し通路なのだろう。バックライト家自体が歴史ある大貴族の一角を担っているのだから、有事のときの脱出経路ぐらいあって当然だ。


 すでに道を引き返せないことは十分理解していた。


 鎖を失い、私はただ幽霊みたいにとぼとぼと歩いた。


 千切るつもりもなかった鎖だ。なくなったところで、嬉しいとはまるで思えない。


 道なりに通路を進む。カサカサと虫が蠢くのが視界の隅に映るが、私は慣れっこだったから気にしなかった。


 そうして、何十回と角を曲がったときだった。不意に、視界の先にぼんやりとしたランタンの光が見えた。


(誰かいる)


 私は反射的に身構え、足を止めたが、向こうもこちらの炎の明かりが見えたのだろう、「そこに誰かいるな」と声をかけてきた。


 隠れてもろくなことにならないと判断し、「はい」と返事をする。


「バックライト家が用意したものか」

「…はい」

「そうか。こっちに来い」


 年老いた男の声。厳格で、聡明な印象を受ける。そして、ここで逆らったら許してくれそうにはないくらい、高圧的であった。


 近づくにつれ、私は相手が一人ではないことに気づいた。


 二人、いや、三人、四人か。


 先頭に初老の男性が一人、そして、その後ろにフードを深く被った人影が三つ。


 背の高さ的に、一人は間違いなく男だ。しかも、屈強に見える。


 残り二人のうち、一人は確実に女だろう。背丈は私と同じくらいだったし、公爵夫人のそれと負けず劣らずの美しい金のショートヘアがフードの隙間から見えていた。


 もう一人も…おそらく、女だ。骨格が男のそれには見えないし、フードの陰から出ている銀の髪には艶がある。また、他にも特筆すべき点があった。両手に手錠をかけられていたのだ。


(罪人か、奴隷…。奥様、一体、何が始まるというのですか?私に何をさせようというのです…?)


 私は不安に駆られながらも、足を止めることだけはしなかった。夫人の命令を果たせないことのほうが恐ろしかったからだ。


「そこで止まれ」初老の男性が命じる。ぴたり、と私は立ち止まった。「顔が見えない。蝋燭の火を自分の顔に近づけ、見せてみろ」


 ゆったりとした動作で言われたとおりにすれば、奥の男性が独り言みたいに、「オリエント人…」と呟くのが聞こえた。


 東国オリエント――ここエルトランド王国が戦争をしている小さな島国だ。私は…その国の人間らしい。特徴的な黒髪黒目がその証拠だと言われたことがある。


「バックライトの女狐め、東国の血が混じっている奴隷を遣わすと言っていたが…混じり物ではない。正真正銘のオリエント人であろう」


 初老の男性は忌々しそうに口を動かすと、そのままの恐ろしい声で私に質問をぶつける。


「お主、名前は」

「…カラス、と申します」


 フードの男が私の声を聞いて、「女か?」と不思議そうに尋ねたから、一応、頷いて肯定を示す。


「バックライト公爵夫人は、その道の人間として有名です。おそらく、どこからか仕入れたオリエント人を奴隷として飼い、慰み者として扱っていたのでしょう」

「奴隷を慰み者だと?不道徳で、汚らわしい奴だ」

「おっしゃるとおりでございます。あの者の悪事もいつかは暴かねばなりませんな」


 私はそれを聞いていると、むしゃくしゃした気持ちになった。無論、相手が腰に下げている剣が見えないわけでもないので、そんな気持ちはおくびにも出さなかったが、命の恩人でもある夫人を一方的に揶揄されるのは不愉快であった。


 口をつぐむことを余儀なくされていた私は、ランタンの光を直視しないよう顔を背けていた。だが、直後に響いた白銀の音色に誘われ、再び視線を彼らのほう――正確には、その後ろに立っている女性のほうへと向けた。


「それを容認する社会を作り出しておられるのは、支配階級である貴族と王族――つまりは、貴方たちではなくて?」


 どこまでも透明で、澄んだ響きだった。


 それが言葉ではなく、ただの音であったら、高級楽器が織りなす音色にしか聞こえなかったであろう。


 私は、夫人が気まぐれで連れて行ってくれた弦楽器コンサートのことを思い出していた。


「…はぁ、発言は許可しておりませんぞ」


 初老の男性が呆れたようにため息混じりで振り返る。


「あら、ごめんなさい。でも、犬でさえ許可がなくとも吠えるのだから、しょうがなくはありませんか?そもそも、それが嫌だったのであれば轡も噛ませるべきでしたわね」


 罪人らしき女が挑発的に言う。堂々とした発声、口調、それらから抱くイメージと手錠があまりにもミスマッチだった。


 老人は暗闇の中でもハッキリと分かるくらい、いきり立っていた。罪人の言葉がよほど癪に障ったのだろう。


 冷たい刃を灯す剣の柄に、そっと老人が触れる。


「――勘違いなされるな。私が今、ここでお前の首を刎ねないのは、ひとえに勅命があるからだ。そうでなければ、お前のような売国奴は、私がこの手で――」

「よして下さい、オブライエン様」


 険悪な空気を止めたのは、さらにまた別の女の声だった。


「貴方様がお怒りになられるのも十分に理解できます。ですが、今は…」


 静かながらも堅牢な意志を感じさせる声。実際、その声になだめられるようにしてオブライエンと呼ばれた初老の男性は頭を下げ、再び私のほうへと向き直った。


「カラス、と言ったな」

「はい」

「バックライト家の奴隷であったとあの女狐から聞いている」


 奴隷『であった』、というもはや過去の事実に、私はやるせない沈黙と、ぞっとするほどに濃い諦観を覚える。


 どんな暗黒の中でも私は滑らかに、それでいて、壊れた機械人形みたいに、「はい」と答えた。夫人にそう躾けられたからだ。


 心と体がリンクしていない動きにも、私は何の疑問も持たなかった。きっと、こんなことに疑問を持っていたら、続けられない暮らしでもあったのだろう。


「であれば、奴隷としての身の振り方は弁えておろうな」

「はい」

「よし」


 オブライエンは冷たい瞳のままで深く頷いた。


「これから、お前にやってほしいことを説明する。もちろん、質問や拒絶は許されない。復唱確認のみを許す」

「はい」

「まず、この道をそのまま真っ直ぐ、そこの者と共に進め」


 そこの者、と言ってオブライエンが示したのは手錠のかけられた女だ。彼の発言からして、やはり罪人のようだが…そんな人間を奴隷と二人だけにしていいものなのだろうか。


 いや、考えても仕方がない。どうせ何を考えても、私には選ぶ権利もないのだから。


「進めば、やがて壁に行き当たるが、一つだけ変色している煉瓦を内側から軽く押せば、外へと出られる仕組みになっている。外に出たら、坂になっている道を下れ。海が見える。そうしたら、桟橋も見える。そこへと向かえ。そうすると、船があるから、それに乗れ。行き先はナビゲーションの魔導が組んである」


 説明は後半になればなるほど雑になっていった。面倒になっていったのではなく、あえて情報量を削っていったような気がした。質問するな、という命令からも、こちらに情報を渡したくないという意図が見える。


 そう考えれば、『使い捨てていい奴隷』をわざわざ起用していることも頷ける。奴隷なら、何を知ったとしても発言権など無いに等しいし、最悪、消してしまうことも容易い。


「人がいるとは思えんが、絶対に誰にも見られるな。いいか、絶対にだ。誰にも見られるなよ」


 私は老人の説明が終わったことを悟ると、手短に指示を復唱した。淡白ながらも確実な復唱だったからか、少しオブライエンは驚いた顔をしてみせた。それから、「女狐の教育の賜物か」と吐き捨てた。


 オブライエンは後ろに控えた二人を見て、アイコンタクトだけで意思の確認を取るような真似をした。男のほうは返事か唸りかも分からない声を出しただけだったが、女のほうは、相変わらず澄んだ声で、「始めましょう」と唱えた。


 フードを被った女が、罪人の手錠に触れる。そのときに、何か呟きを残しているようだったが、ここからは聞き取れなかった。


 カーン、と地面に落下した鉄の錠が音を響かせる。


 こんな無造作に罪人の拘束を解いてもいいものだろうかと疑問に思ったが、解放された当の本人はまるで動き出す気配がなかった。


 ただ、じっと眼前の女を睨んでいた。


「後悔するわよ」


 解き放たれた女が言った。


「大丈夫です。そんな未来は見えていませんから」


 今度は、金髪の女が言った。


 罪人の女が、ぎりっ、と歯ぎしりをする音がここまで聞こえてきた。


 彼女は、くるりと背中を向けると、ツカツカと私の隣を通り過ぎた。途中、フードを被った男の隣に来ると、「夕焼けは、一人で見ることにします」とよく分からないことを言った。


 目鼻立ちの整った、美しい女だった。


 ふと、バックライト夫人のことを思い出す。


 どうしてだろう、酷く虚しくなった。


 あの人には、もう二度と会えない。


 そんなことが、今更になってきちんと理解できてしまった。




 オブライエンの言ったことに、嘘偽りはなかった。


 行き止まりだと思ったところは、変色した煉瓦を押し込めば隠し扉になったし、坂道を下り終える前から、海も桟橋も、なんなら船も見えた。


 郊外の森に出ていたらしく、外の空気はとても綺麗だった。どうやら、かなりの間、隠し通路を歩いていたようだ。


 魔物でも出たらどうしようか、と私は外に出るや否や不安に駆られたのだが、罪人はそうではないらしく、つかつかと月明かりが照らす坂道を下り始めていた。


 私も慌ててその後を追う。


 正直、罪人が私と二人だけになった後、老人たちが出した指示に従うのか不安だったが、どうやら杞憂だったようである。


 彼女は恐れを知らぬのか、それとも、よほど暗闇に目が慣れているのか、迷いのない足取りで進んでいく。


 私は何も言わず彼女の後ろをついていった。罪人も、ついて来い、などとは一言も口にはしなかった。


 天を仰げば、眩しくも儚い星が瞬いている。永劫にも近い距離があってもなお、その輝きは地を這うしか能のない者に優しく降り注いでいる。


 五分も歩けば、私たちは桟橋にまでたどり着いた。潮の臭いがむせ返るように立ち込めており、それを嗅いでいると、私は酷く陰鬱な気分にさせられる。今はもう忘れたに等しい事故の記憶を思い出すからだろうか。


 ドン、とこれまた躊躇なく罪人は船に飛び込んだ。船は大きく揺れていたが、いつしかまた、静かに波の上に佇んでいた。


 揺らぐ水面を見ていると、やはり、ムカムカしたものが込み上げてくる。それが恐怖だと気づいたのは、ずっと後のことだ。


「何をしているの、乗りなさい」


 ふと、罪人が厳しい声で言った。我に返るよりも先に、反射的にそれに従う。船は酷く揺れたが、それだけだ。


 ぼうっと、私はまた指示を待っていた。


 船を動かすために、罪人は船のオールに付いた魔導石に触れる。しかし、数秒しても何も起きない。やがて彼女は、「ちっ」ととても大きな舌打ちをしてから、背中越しに私に命じた。


「魔導石に触れなさい」

「え」ここで初めて、私は返事以外の言葉を発した。


「聞こえなかったかしら。オールに付いた魔導石に触れろと言ったのよ」

「申し訳ございません。はい」


 命令に従えない奴隷に価値はない。


 私は速やかに魔導石に触れた。


(…だけど、この人が触れても起動しないなら、壊れているんじゃ…)


 組み込まれた術式を発現させるために存在するのが『魔導石』。そして、その起動には、命あるものなら誰でも持っている『魔力』が使用される。


 つまり、『私』である必要はない。誰でもいいのだから、当然のことである。


 しかし…。


 私が魔導石に触れて数秒後、パッ、と石に輝きが灯った。


 弱々しい光だが、間違いない。きちんと起動したのである。


 ぎこ、ぎこ、とオールが独りでに動き出し、暗い海を進み始める。


(どういうことだろう…確かに、あの人は魔導石に触れたはず…)


 理屈は分からないが、聞くこともできなかった。


 ただ、無言の時間が過ぎていく。時間が流れれば流れただけ、船は、私たちは、陸地から遠のいていった。


 私はそれを見て、言いようのない不安に駆られた。


 もはや、どこにも行くことはできない。ここは孤独な海の上だ。


 投げ出されれば、暗い海の底に沈むか、海に住まう魔物の餌になって、それでお終いである。


 罪人は何も語らず、微動だにしない。何を考えているのか、そのやたらと真っ直ぐ伸びた背中からは想像もできない。


 やがて、船の周りには水以外は何も見えなくなった。水にしても水であるか覚束ない、月明かりを浴びて光る黒い液体になっていた。


 そこからまた数時間が経った。


 私は、その間もずっとうねる水面を見つめていたのだが、ふと、水平線がオレンジ色に染まり始めていることに気がついて、顔を上げた。


 夜明けが来たのだ。一体、どれくらいの間、船に揺られていたのだろう。


 水平線に近いところから、水がキラキラと光を帯び始める。


『今日』が死に『昨日』となり、同時に『明日』という何の保証もなかった存在が『今日』へと生まれ変わった。


 その光景に、私は魅入っていた。


 死んだものが別の形となって生まれ変わる。


 夫人が私に見せた物語の中に、こうした事象を示す言葉があった。たしか…そう、『輪廻転生』だか、『永劫回帰』だか、『リーンカーネーション』だ。


 錆びていた心が何かを感じて、黎明に耽溺していた。


 そのときだった。


 バサリ、と目の前で背を向けて座っていた罪人がフードを取った。


 朝日すらも跳ね返す、美しい銀細工のような髪。それから、陶磁器のように白いうなじ。


 その時点ですでに、彼女が『ただの罪人』でないことは容易に理解できた。さらに次の瞬間、彼女がこちらを振り向いたときには、それは確信に変わった。


 陽光を蹴散らすのは、銀のロングヘアだけじゃなかった。


 夕暮れを想起する、赤い瞳。


 私は唖然として、夢遊病者みたいに無意識のうちに口だけを動かした。


「――アカーシャ・オルトリンデ…」


 彼女はその名前を聞いて、美しく、そして皮肉っぽく頬を歪めた。

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