鴉の雛鳥.1
それでは、一章のスタートです!
一章は、令嬢視点ではなく、奴隷視点で進んでいきます!
続きはまた明日に更新しますので、よろしくお願いします!
ベッドに放り出された四肢が、やたらと重く感じられた。
部屋に立ち込める高級な香水の匂いは私の頭をくらくらとさせるし、淫靡な薄闇は私からまともな思考力を奪っていく。
隣で床を共にしていた人がキセルをふかしている音が聞こえてきて、私はあの白い煙を想像した。その瞬間、むせ返りそうになって思わず息を止める。
ギシッ、とベッドのスプリングが音を立てる。羽毛のように柔らかく、軽いマットレスは沈み込んでいた私の体を少しだけ浮かせた。
立ち上がった人影が、わずかにビロードのカーテンを開く。
差し込む光に目が眩む。外の世界はあまりに眩しくて、吐き気がしそうだ。世界が私という異物を見つけて、排除するべく攻撃を仕掛けてきているみたいだ。
「あら、起こしたかしら」
昼間の光に横顔を照らされた美しい女性が、私にそう尋ねる。いつ見ても魅惑的で、そして、邪悪だった。人を堕落させる悪魔に似た女性だった。
「…いえ、申し訳ございません。奥様」
「謝らなくていいのよ」
私が身を起こしながら謝罪すれば、女性が――バックライト公爵夫人は艶やかに笑った。
テレサ・バックライト侯爵夫人。
私は、この美しい人が眠っている姿を見たことがない。私が疲弊して意識を手放しているときも、どうやら彼女はキセル片手に物思いに耽っているらしかった。
月光を吸い込んでいるかの如き金糸が、光の中に埋もれることなく輝いているのを見て、私は喉を鳴らす。自分の暗黒の如き黒髪とは全くもって、質が違う。どちらが美しいかなんて、考える必要もなかった。
バックライト夫人は三十路も過ぎているというのに、若々しく、そして瑞々しかった。私が仮に彼女と同じ年齢に達したとしても、このような若さを保つことはないだろう。
夫人は私が眠っている間に着たらしいドレスの裾を翻すと、窓を開け、風を室内に取り込んだ。
はためくカーテンの向こう側では、鳥が何羽か飛んでいた。風を受けて、左右に揺れる渡り鳥らしき鳥たちを、私は鳥籠から見つめる。
「カラス」
バックライト夫人がカナリアの如き声を震わせて私の名前を呼ぶ。夫人がこうして一際澄んだ音色を響かせるときは、何か大事なことを口にするときだ。
「はい」
私はベッドから下りて、侍女が着る麻衣のローブを身にまとった。
ざらざらする肌触りだが、自分からすれば上等な衣類だ。所詮はただの『奴隷』で、『消耗品』に過ぎない私には、身に余るものであった。
「貴方をかってから、もうどれくらい経つのかしら」
一瞬、私は夫人の言葉の意味を図りかねた。
奴隷として私を『買って』なのか、それとも『飼って』なのか。でもすぐに気づいた。どっちだって同じことだということに。
「もう、十年ほどは経つかと思われます」
「そう、十年…」
私はこの時点で夫人が何を言いたいのか察してしまい、深く虚脱するような心地になって瞳を閉じた。
「随分と時間が過ぎるのは早いわね。私があの人に嫁いですぐだから…そう、十年。十年は経つわね」
「はい」
今思えば、バックライト夫人もよっぽどの色狂いだ。彼女には十分立派な相手がいるのに、常に奴隷やら使用人やらを床に呼ぶ。
まあ、夫人と侯爵の間に愛情というものがないことは誰もが知っていたし、そもそも、テレサ・バックライト侯爵夫人は極度の『ロリータ趣味』だ。あのような屈強な男性は眼中にないはずだ。
「カラス。貴方はもういくつになるのかしら」
きた、と私は心の中で唱える。
呪いの問いだ。これを尋ねられた奴隷や使用人を私はたくさん見てきたが、彼女らは誰一人として今は屋敷に残っていない。
「はい。もう、十八になります」
「十八…」
本気で驚いているようだったが、それもそうだろう。夫人は往々にして十五を超えたあたりから少女たちを放逐する。彼女にとって嗜好対象になる年齢が、きっとそれくらいまでなのだ。
放逐されることが前提となって愛玩される私たち。その運命こそが、私が私自身を『消耗品』と表現する理由の一つだ。
夫人はたっぷり一分ほど考えてから、ゆっくりと私の前にやって来た。
夫人のいくつになってもすべすべとした指先が、私の髪をなぞる。その心地よさに、猫のように私は目を細める。
私も馬鹿ではない。侯爵夫人のこの行いに、夫人が侯爵に持たなかったような『愛』があるとは微塵も思っていない。
夫人が与えてくれる小説世界の中では、愛を表現するために、ミミズ腫れができたり、血が出たりするほど叩いたりしないし、刃物で傷をつけたりもしない。
それでも、やはり夫人の指先はたおやかで、優しかった。
私にはもう、これしかない。
「…カラス」
「はい、奥様」
「貴方も、雛ではなくなってしまうのね」
心底残念そうな声に、私は目を伏せる。痛みと歪んだ寵愛ばかりを与えられた私だが、それなりに夫人に対する愛着や感謝はあった。
野垂れ死ぬだけの子どもを助けてくれたのは、紛いなりにも夫人なのだ。
それが善意でなくとも、私には関係なかった。そもそも、この世に無償の愛など存在しない。神による愛もまた同じだ。
ふと、私が遥か昔に擲たれた蒼海を思い出す。真っ黒な渦を腹の底に飼っている母なる海は、私の人生と両親を含む多くの人間の命を容易く藻屑へと還した。
そんなことを思い出したせいか、私は珍しくセンチメンタルになっていた。だからだろう、私らしくもなく、夫人の言葉に問いを返していた。
「雛鳥でなければお嫌いですか」
一瞬、夫人が目を丸くする。ややあって、彼女は感傷的に微笑むと、もう一度私の頭を撫でた。
「そういう言葉を返せるところを、私は気に入っていたのでしょうね」
「…言葉は、奥様が与えて下さったものです。感謝しております」
嘘偽りのない言葉だった。異人の奴隷に本を与えるばかりか、読み聞かせ、文字を施す酔狂な主人が一体、どれほどいるだろうか。
バックライト夫人は、しばらく愛おしそうに私の頭を撫でた後、淡々とした、機械的な口調で告げた。
「ええ、嫌いよ」
「なぜでしょう」
ふっ、と夫人は微笑む。今までと違い、邪悪さが感じられる歪んだ微笑だった。
「若さも、命も、ピークがきたら、後は腐るだけでしょう。私は純で、不完全で、美しいものだけを見ていたいのよ」
テレサ・バックライト侯爵夫人とああいう会話をしてから一週間後、私はとうとう、侯爵夫人から、
「深夜零時。荷物をまとめた状態で私の部屋に来なさい」と仰せつかった。
最後の夜伽が始まる。そして、それは同時に、別れの日でもあった。
私は言われたとおりに用意をした。
荷物をまとめる、と言っても私にはもちろんまともな部屋なんてない。屋根裏で虫や獣とルームシェアだ。そんな私だから、もちろんまとめるほどの荷物なんてなかった。屋根裏から下りてきたとき、私の手には水筒が一本入るかどうかといった革袋が握られているだけだった。
服は、簡素な侍女の服のままだ。これ以外もたくさん着替えさせられたが、夫人がプレゼントしてくれたのはこれだけだ。後は、彼女の趣味にすぎない。
月光が屋敷の廊下の窓から燦燦と降り注ぐ。何かを浄化しようとしているみたいに、月明は厳かで澄んでいた。ここには浄化するものが多すぎるから、いつか、この光も穢れたものに染まるだろう。
私は無意識のうちに、屋敷での思い出を振り返ろうとしていた。しかし、十年ほど住んでいたはずのこの屋敷に、思い出すほどの価値がある記憶はなかった。あるとすれば、それはすべて夫人の私室の中だけだ。
朝は奴隷としてあらゆる作業のために動き回り、夜は侯爵夫人の相手。相手といっても、常に蜜月の時間を過ごしたわけではない。雑談から、言葉の指導、本の解説まで幅広い。
思い出を漁っているうちに、夫人の私室の前にたどり着いた。
ノックをするべく、左手が持ち上がる。それがきらびやかな装飾の施された扉を叩こうという、その瞬間だった。
ガチャリ、と扉が勝手に開いた――いや、違う。内側から侯爵夫人が開けたのだ。しかも、どうしたことだろう、夫人は夜伽のときいつも着ているイブニングドレスではなく、かなり格式高いフォーマルなドレスを身にまとっていた。
初めてのことに私は戸惑いを覚え、言葉を出せずに呆然と立ち尽くしていた。すると、バックライト夫人が部屋の中から顔を出して、辺りに誰もいないのを確認してから小声で口を開いた。
「誰ともすれ違っていないわね」
「はい」
「間違いないわね」
「はい。間違いございません」
夫人は私の明瞭な答えを聞いて、神妙な面持ちで頷いた。それから、私を部屋の中に招き入れる。
侯爵夫人は二人して部屋に入るなり、私に服を着替えるよう命じた。同時に手渡された服だが、普段の趣とはかなり違った。リボンもフリルもないし、露出する肌面積も少ない。少女趣味、というよりかは、むしろ実用性の高い、旅人の服といった感じだった。
「奥様、終わりました」
命令通りに着替えを終えた私を見て、夫人は少し苦い顔をした。
「本当、こういう服はどうしても素材の良さを殺すわね」
「はぁ」と分かったような、分からないような返事をすれば、夫人は私を手招きして呼んだ。
主人に従い、バックライト夫人の目の前に移動する。すると、夫人は目を細め、まるで郷愁に浸っているみたいに目を閉じると、やおら私を抱きしめた。
床を共にする前の、煽情的な抱きしめ方とは違った。名残惜しんでいるかのようだった。
だから私は、やっぱりバックライト夫人は私を解雇するつもりなのだと思った。だけど、体を離した夫人はそんな冷酷な宣告をする人間の顔とは思えない、真剣な表情を浮かべていた。
「カラス」
「はい、奥様」
「貴方、自由は欲しい?」
私は思いも寄らない問いに目を丸くした。そして、すぐに『自由』とはなんだったかを考えたのだが…それは深い霧の向こうにあって、輪郭を掴めなかった。
だから私は、素直にその気持ちを口にする。
「奥様、私にはそれがなんだったのか、もう思い出せません」
「…そう」
奪ったのは夫人だ。でも、それを責めるつもりはない。夫人も悪びれる様子はなかった。むしろ、私の返答に何かしらの愉悦を感じているようだった。
「貴方はもう、青い空の広さすら思い出せない、籠に依存した鳥ということね。ふふ、悪くはないわ」
バックライト夫人は背を向けると、火の点いていない暖炉の奥に手を突っ込んだ。すると、驚いたことに、暖炉の床部分が中央から割れた。
パラパラと灰や薪が落ちていく音。
反射的に覗き込めば、薪があったところには梯子らしきものが見えた。
――隠し扉だ。
「奥様、これは」
「カラス…貴方にはこれから、とある女性の付き人をしてもらうわ」
「付き人?」
話が読めない。一体、何を言っているのだ。
「奥様、付き人とはどういうことなんですか。私は、ただ放逐されるだけではないのですか?」
「放逐って、カラス、貴方…」
夫人は苦笑いをしていたが、真剣な…おそらくは、今にも捨てられそうな子犬の目をしていたのであろう私の顔を見ると、真顔に戻って沈黙した。
「奥様、お答え下さい。付き人とは、一体…!」
「私の口からは、これ以上、何も言えないわ」
夫人は私の追及を途中で遮ると、蝋燭にマッチで火を点けた。
「もちろん、カラス、貴方のほうから深く尋ねることも許されない」
夫人が、私の背中を押した。つまり、この梯子を降りろということなのだろう。
さすがの私も不安になって、主を見つめた。しかし、バックライト夫人は二度と私と目を合わせることなく、そのまま、半ば無理やり私を暗がりへと押しやった。
「奥様――」
梯子に手をかけ、足をかけ、私は上を見上げる。ちょうど、隠し扉の蓋が閉じようとしているときだった。
太陽が月に蝕まれるように、少しずつ、バックライト公爵夫人の顔が見えなくなっていく。私はそれが酷く恐ろしいことのように思えた。
「ちゃんとあの子を守ってやるのよ。…元気でね、カラス。巣立ちを目前にした、私の可愛い、可愛い、雛鳥。いつか、その翼が自由の空を舞えることを祈っているわ」
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