黒百合と鴉.2
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ニライカナイの拠点に戻った後、私はワダツミに半分説教、半分感謝の言葉を弾丸のように浴びせかけられた。
そして、ひとしきり言い終えたことで満足したらしいワダツミに、「で、お主、何をやった」と問いかけられたが、私は正直に習ったことをやっただけだと答えた。
彼女は全く納得していないふうだったが、それでも私がすぐにでもリリーのところに戻りたいと伝えると、渋面を作った後、承諾してくれた。
「また後で詳しく聞かせてもらうぞ」と背中に声をかけられたが、本当に語った以上のことはやっていないため、解答のしようもないと思った。
リリー・ブラックは、任務終了後、速攻で自分の部屋に戻った。報酬も、賛辞も受け取らずに布団に飛び込んだリリーを誰もが訝しがったが、彼女の落ち込みの深さを目の当たりにしていた私とワダツミだけは違った。
眠る邪魔をしてはならないと夜中まで外をうろついていたが、途中、ニライカナイの人間に見つかって部屋に優しく戻された。
部屋に戻っても、リリーは相変わらず布団の中だった。時折顔を覗かせはするが、すっかり塞ぎ込んでしまっていて、覇気はない。
私は一度夜食を取りに行ってから、部屋へと戻った。
「お嬢様。お食事はどうなされますか」
リリーは微動だにしない。
「一応、ワダツミ様から言われて、おにぎり以外もお持ち致しましたが…」
「いらないわ」
「ですが、帰ってきてからなにも…」
「いらないと言っているでしょう。放っておいて」
冬の水に触れているみたいな反応に、私は息を止め、俯く。どうしたらいいか分からなかったからだ。
思えば、いつだってバックライト夫人は私がどうしたらいいかを明示してくれた。怒っていようと、上機嫌だろうと、忙しかろうと、夜伽のときだろうと…。
そうだ。この人は具体的な道を示さない。だから困るのだ。
しばらくの間、私は黙ってベッドの隣に佇んでいたのだが、それが気に入らなかったらしいリリーは、がばっと身を起こした私を罵った。
「いつまでそこに立っているのよ、奴隷!」
「…申し訳ございません」
「申し訳ございませんじゃなくて…っ!さっさと…」
そこで彼女は言葉を途切れさせた。急に身を起こしたからか、くらくらした様子で頭を押さえた。
鉄格子の内側にリリーが嘔吐した形跡があったから、きっと彼女の胃には今、何も入っていない。一日中、何も食べないというのは食べ慣れている人間にこそきついものだと聞く。
私は、「失礼します」と言ってリリーのそばに腰掛けると、彼女の背中をさすった。夫人の調子が悪いときはいつもこうしてそばにいたことを思い出し、なんだか胸が痛くなった。
始めリリーは、こちらを睨みつけて何か言おうとしていたが、互いに瞳の奥を覗き込みあっているうちに段々と気勢を削がれていたようで、しゅん、と肩を落として静かになってしまった。
少しして、リリーは大人しくご飯を食べ始めた。暖かい味噌汁が残っていてよかった。こういうものは冷えてしまうと、途端に侘びしく思えてしまうものだからだ。
私はリリーがきちんと食事を始めたのを見てそばから離れようとしたが、ぐっ、と何かに引っ張られ、思わず振り返る。
「…どこに行くのかしら」
リリーだった。悄然としていて、弱々しい。奥様に似ているようで、彼女はまるで別物だ。
「外の風を入れようと思いまして。気分が悪い方に、夜風は優しいものです」
「…そう」
解放された私は、宣言したとおりに窓を開けた。
青白い月光が、私の瞳に突き刺さる。
美しく眩しいものほど、瞳を背けたくなるのはどうしてなのだろうか…。
振り返ると、リリーがこちらを真っ直ぐ見ていた。差し込む月明を受けて、柘榴石みたいに赤い瞳がキラキラと瞬き、私は目を逸らした。
彼女の元に戻ろうかとも思った。しかし、戻ってこいとも言われていないし、離れていろとも言われていない。
「窓、開いたわよ」
「え?」
「…え、じゃなくて…そこでなにをしているの」
いっそ、どうすればいいか教えてくれれば、私はそれどおりに動くのに…そこまで考えてから、私はそれをリリーに伝えてはどうだろうかと考えた。しかし、奴隷が主人にそうそう何度もお願いするべきではないのではないか…とも逡巡した。
結果として、私は沈黙をもって応えてしまったのだが、それがいっそう気に入らなかったのか、リリーは責めるような口調で、「なにをしているのと聴いているのだけれど」と言った。
そんなものだから、私も言う他ないと決断した。
「あの、お嬢様」
「なにかしら」
「…その、厚かましいお願いをさせて頂いてもよろしいでしょうか」
「遠回しね…許可など要らないわ。お願いを聞くかどうかは聞いた後に判断するのだから」
「いや、ですから、そのお願いをするための許可を――」
「あぁもう!自分が誰かにお願いすることにまで、いちいち許可を求めないで!」
そんな横暴な、と眉をひそめれば、リリーは吊り目がちな瞳をさらに吊り上がらせて、「命令よ」と一刀両断、斬り捨てた。
命令、と言われれば従うほかはない。私はそれを承諾すると、上目遣いになってお願いを口にした。
「お嬢様、私は、その、奴隷です」
「ええそう。そうね。付き人というより、奴隷ね」
「ですから、その…『どうすればいいか』、具体的に命令を下さい」
けっこう勇気をもって告げたお願いだったが、リリーは釈然としない様子で首を傾げるばかりだった。もっと詳細を伝えなければならないようだ。
「そうですね…お嬢様は、『なにをしているの』とよくお聞きになられますが、厳密に言えばそういうときの私は、『なにもしていない』のです。なぜなら、『なにも命令されていないから』です」
「え?え、ええ…」
分かっているようなそうでないような返答。リリーの思考回路が混乱しているのがなんとなく分かった。
「私は奴隷です」
「ええ」
「奴隷は、命令なしでは動けません」
「ええ…あ、ああ…なるほど」
ようやく腑に落ちたような声を出したが、それでも、リリーはなぜか納得しきれていないような表情で私を見ている。
「ですから、こういうときも、早く寝たほうがいいのか、じっと立っておいたほうがいいのか、それとも、お嬢様のそばにいたほうがいいのか、分からないのです」
「貴方…命令なしでは動けないの?」
だからそう言ったではないか、と言い返したい気持ちもあったが、絶対にそれは許されない。
私は頷きつつも、無意識になにかしていることは多々あるが、それ以外は指示待ちだと説明した。
「ですので、具体的に命令を頂けると幸いです」
私がそう言ってお願いをしめくくれば、リリーはなんだか酷く苦い顔をした。なにかが気に入らなかったのかもしれないと心配に思ったが、そのうち、リリーは自分で折り合いをつけて、「分かったわ」と小さく答えた。
「レイブン」
「はい」
「…そばに来なさい」
「はい」
私は安心してリリーのそばに移動した。
「ベッドにかけなさい」
「はい」
ぎしり、とスプリングが軋んだ。それを聞きつつ、私は次の命令を待つ。
リリーは私を真っ直ぐと見つめると、視線を窓の外、月光の降り注ぐ庭へと向けた。
桜の花びらがひらひらと舞い散っている。だいぶ寂しくなってきたが、これも花の運命なのだろう。
奥様が言っていた。
――花も、命も、ピークを過ぎたら、腐るだけでしょう。私は純で、美しいものだけを見ていたいのよ、と。
ならば、私も腐るだけなのだ。
「そこで、黙って聞いていなさい」美しい赤い瞳が伏せられる。もったいない、となんとなく思ってしまう。「リリー・ブラックが始めた、復讐の話を」
お嬢様が、繰り返し命令を下さっている。命令を放つときの彼女の声は、やはり奥様に似ていた。
私はほんの少し満たされた気持ちになって、小さく頷いた。
「はい」
リリーが私に語ったことは、およそ信じがたいものだった。
ストレリチア、という人間が何者なのかは分からない。時折、バックライト夫人が彼女の名前を出すことがあったが、夫人は彼女のことがあまり好きではないようで、詳しいことは語らなかった。
もしも、ストレリチアが本当にリリーの――いや、アカーシャ・オルトリンデの語った通りのことをしたなら、一体、どんな目的があったんだろう。
ワダツミも言っていた。金も権力も男もいらんというなら、何を欲しているのかと。何も欲していないとしたら、それは人間ではなく怪物だと。
あのとき、王国を出る前の地下道で出会ったフードの女性。あれがストレリチア。彼女の声には形容し難い神聖さがあった。聞く者の心を震わせる響きだ。
「…この指輪もそう。あいつが、ストレリチアが私に与えたもの。魔力を喰らい尽くす、呪われた道具」
そうか。だからお嬢様は魔導が使えないどころか、魔導石の起動すら不可能なのだ。
左手の薬指なんかにはめているから、てっきり私は、あれは想い人からの贈り物なのだと思ってしまっていた。口にしなくてよかった。リリーは烈火の如く怒っただろう。
リリーは一息に物語を紡ぎ切ると、最後に盛大なため息と共に今日のことを説明した。
賊の頭には、すでにストレリチアの息がかかっていたこと。
彼女のせいで、彼は娘が残酷な扱いを受けるのではという恐怖の沼の中、死んでしまったこと。
「…私、初めて人を殺したと思ったわ」
自嘲するようにリリーが鼻を鳴らす。
「おかしいでしょう?今まで散々火の魔導で人を殺してきたくせに」
私は黙って聞いていた。それが彼女の命令だったからだ。
「…あの男は、悪人の顔をしていなかった。娘を思う、ただの父親の顔をしていたの。その顔で、私を殺そうとしてきたのよ」
悪人の顔。
悪人かどうかを決めているのは、リリーだった。だからこそ、彼の境遇を知ってしまって、そのレッテルを貼れなくなったのだ。
奥様だったら、なんと言うだろうか。
『そんなことを考えても無駄よ』と鼻を鳴らしながら宣言しそうだ。
所詮、世界は主観でしかない。
世界というものは、常に自分の内側にあるフィルターを通してしか認識できず。完全透明な、あるがままの世界に触れることはできない。
「私がこの道を進むことで、ああした犠牲がたくさん生まれると思うと…少し…」
ちらり、とリリーが私を一瞥した。何かに躊躇しているようだったが、やがてまた深くため息を吐くと、ひとおもいに告げた。
「…怖くなったわ」
無理もないことだと私は思った。
この人は、どう考えても性根が真面目だ。だから、本当は他人など巻き込みたくないに決まっている。
それでも、選んでしまったから…後には引けないのかもしれない。
リリーはやがて、私の顔をじっと見つめた。それから眉をひそめると口を開きかけたが、ややあって、額を押さえ、「本当に黙って聞くのね。命令だからかしら?それとも、興味がなかった?」と的外れなことを言った。
「いえ、その…」
「ええ、分かっているわ。私が黙っていろと命令したからでしょう」
こくり、と私は頷いた。リリーが少しずつ私を理解してくれていることが、どうしてだろう、嬉しかった。
「…貴方の感想を聞かせて」
「え?」
私は思いもしなかった命令に頓狂な声を上げてしまう。
「壁に向かって物語を紡ぐなんて、馬鹿みたいでしょう。なんでも構わないから、貴方の言葉で表現しなさい」
「…私の、言葉で…」
ドキン、と心臓が脈打った。
私の言葉。
奴隷という鎖に絞め殺されてきた、私の言葉。
本当に言ってもいいのかと確認を取れば、リリーは羽虫でも払うみたいに手を振り、何度も確認するなと命令した。
ドクン、ドクン、と鼓動が昂ぶりを覚えているなか、私はじっとリリーの瞳を下から覗き込む。
闇夜を映す、赤い川が流れている。
綺麗な光だった。
綺麗なものほど、私の目には眩しく突き刺さる。
「お嬢様は…」
口火を切れば、リリーは興味深そうにゆっくりと私の言葉を待った。
「どうなされたいのかなぁ、と疑問を抱きました」
「私がどうしたいか、ですって?」
「はい」
「そんなの、あの悪魔に復讐したいに決まっているじゃない。何千回殺しても足りないわ」
「ですが、今、お嬢様は苦しそうです」
「それは…」
「報復の標を辿り歩くリリーお嬢様は、苦しそうです。これからも、その道を行く限り、お嬢様は苦しむのでしょう」
「…ええ、きっとそうなんでしょうね」
「であれば――」
「それでも、私はストレリチアが許せない」
リリーは強く断言した。
「あの子は私から多くのものを奪ったわ。地位も名誉も、友人も婚約者も――あぁ、婚約者はどうでもいいわ。とにかく、たくさんのものを。…それなのに、泣き寝入りしろというの?冗談ではないわ。私は、ストレリチアに全てを語らせる。全てを説明させたうえで、この手で葬る。私の人生をめちゃくちゃにした代償を払わせるのよ」
私は彼女が爛々と瞳を輝かせてそう宣告するのを聞いていて、複雑な気持ちになった。
今、リリー・ブラックを生かしているのは、『ストレリチアという悪魔』だ。悪魔への復讐心が、リリーの生きる理由になっている。
…まぁ、どのみち私の選ぶべき道に変わりはない。
「お供致します。お嬢様」
「…いいの?自分で言うのもなんだけれど、勝てる見込みのほうが低いわよ」
「勝敗など、命令の前には無関係です。奥様がああ言った以上、私はお嬢様に付き従うのみです」
「あっそ、また奥様ね。貴方、バックライト夫人のこと本当に好きね」
「はぁ…」
よく分からない表現に顔をしかめれば、リリーは少しだけ顔色がよくなった頬を緩めて微笑んだ。
とても美しかった。こういうときは奥様にそっくりだ。
「レイブン。貴方のせいで目が覚めたわ」
ベッドの壁際に身をずらしたリリーが、そうして空けたスペースをポン、ポン、と叩きながら言う。
「私が眠るまで、相手をしなさい。色々と知りたいわ、貴方のこと」
艶やかに微笑むその姿は、今までのどんな彼女より奥様に似ていた。
――そう、夜伽前の奥様にそっくりだった。
ドキン、と心臓が痛む。無意識のうちに吐息がこぼれた。
「失礼します」とリリーの隣に潜り込む。
そこには彼女の体温が残っていた。それは奥様のものとほとんど同じだった。
半身になってこちらを向き直るリリーに、思わず喉が鳴った。
奥様との初めての夜伽を思い出させられて、胸がきゅぅ、と縮むようだ。
「さあ、どこから始めようかしら?」
挑戦的な微笑を受けて、私は目を逸らした。
眩しすぎたのだ。
「…あの」
かすれる声で私は尋ねる。
「なぁに?」
「ど、どのようにしたら、よろしいでしょうか」
「ん…?なにが?」
「ですから…お嬢様との、よ、夜伽です」
ぽかん、とリリーの表情が固まった。
何かが妙だとリリーの反応を待っていると、直後、彼女は雷でも落ちたのかと錯覚する大声で私を怒鳴りつけた。
「何を勘違いしているのよ、馬鹿っ!」
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