巫女の傀儡.4
次回の更新は火曜日となります!
みんなの悲鳴と共に、激しい水しぶきが上がる。湿地の濁った水と白い飛沫に混じり、光を失った深い青の鱗が覗いた。
三、四人のニライカナイのメンバーと、ワダツミ、それから…。
「レイブン!」
一瞬だけ、彼女の黒い髪と瞳が波間に見えた気がしたが、例の魚のような、ワニのような魔物が誰かをがぶりと飲み込んだ拍子に見えなくなる。
「くっ」
一刻も早く外に出て、彼女らの救出に向かわなければならない。
私はそう考えるとすぐに体の向きを変え、賊の頭が操作していた石――魔導石へと駆け出したのだが…。
「冗談だろう。ここを出る気か」
その道中に、男が立ちはだかった。
「当たり前でしょう。どきなさい」
「待て。ここは安全だ。ここの区画の下であの魔物を飼ってたから、あいつが戻ってくるときは眠るときだけ。もちろん、それ用の床材を使ってるから、あんなふうに壊されることもない」
「安全かどうかなんてどうでもいいわ。どきなさい。三度は言わないわよ」
「…そうか」
男は吐息混じりに言うと、すぅっと目を細めた。どくつもりはないらしい。
「もういいわ、時間の無駄よ」
刀の切っ先を向けた私を、男は未だにぼうっと眺めていた。そこに戦闘の意志は見られない。やはり、何を考えているかが読めなかった。
やがて、男は私を中心にして円を描くように歩き回り始めた。外では、あの魔物が暴れているのか、たくさんの人間の悲鳴、怒号が聞こえてきていた。
「お前は何者だ。なぜ、エルトランド人がこんなところでオリエント人と手を組み、賊を襲う」
ぽつり、と男が問う。
「貴方に語る義理はないわ」
彼は、ただただ、ゆっくりと円を描いていた。私もそれを追い、切っ先を動かし続ける。
「お前が、そうなのか」
脈絡のない言葉を耳にして、私は怪訝に顔をしかめた。独り言かと思ったが、彼の瞳はしっかりと私を捉えている。
「…お前が、『同胞からも見捨てられた』哀れで孤独な女なのか?」
私は最初、彼が何を言ったのか分からなかった。聞き間違いだと思った。だが、彼がじっとこちらの反応を観察していたために、そうではないと気づいた。
「…どうして、それを…」
驚愕が私の心を塗り潰す。しかし、彼もまた同様に驚きで目を丸くしていた。
「そうか、やっぱり、そうか…」
しきりに、彼は自分の顔を手で拭うような動作を繰り返した。やがて、どんよりとした瞳をこちらに向けると、切っ先を構えた。
「一ヶ月ほど前、女が俺のところに来た」
「女…」
ぞっとする感覚が背筋をつたう。嫌でも、あの女の顔が浮かんだ。
「そいつは俺の仲間の半分を殺し、俺の娘たちを、俺たちが使っていた奴隷用の箱に押し込めると、こう言った――『近い将来、銀髪赤目のエルトランド人の女がやってくる。その女を殺せば、この子たちを助けてあげる。報酬も払う』と」
ストレリチア。
青い目をした…。
「悪魔だった。あの女は、人じゃない。こっちの攻撃はかすりもしない。そのうち、みんな殺された」
男の瞳に宿る暗闇から、彼女が覗いている気がした。
「俺たちは、賊だ。お前が言うように、悪党だ。だが…」
ゆらり、と男の周囲に黒い陽炎が見えた。それはきっと、殺気のようなものであろう。
「悪党でも、家族は大事だ」
やめろ。
「俺たちには金もなければ、食料もない。はみ出し者でも、生きていくために必要なものは同じだ」
もうやめろ。
「死んでくれ。エルトランドの疫病神」
前触れ無く、男が加速した。
意表を突かれた私は、斬首のために振り払われた一閃をどうにか屈んで避けると、体を反転させて男と向き合おうとした。
ダンッ、と畳を踏み抜く勢いで踏み込み、加速する。
こちらの反応より早い。
唐竹割りが私の脳天目掛けて放たれる。
鈍色の刃が額を割る寸前、私はどうにか自らの刀をその間に滑り込ませて一撃を防いだ。
甲高い音と共に、閃光が爆ぜる。
「くっ」
距離を離したいが、すでに男は追撃に移っている。
反射的に、再び刃を滑り込ませるが、押し込まれる。ビリビリする感覚が、私の死を拒む本能を刺激し、アドレナリンを大量に分泌させる。
「死んでくれ」
呪詛が頭上で響く、あわや、押し倒されそうになったところをとっさに横に転がれば、彼も同じように床を転がった。
「頼む。死んでくれ。死んでくれよ」
むくり、と彼が起き上がりながらぶつぶつとぼやく。憑き物が憑いているのだ。
「今が、娘盛りなんだ。奴隷にされて売られでもしたら、どんな目に遭うか分からねぇ」
「…や、やめなさい…」
男は、すでに賊の頭の顔をしていなかった。
「きっと、酷いことになる。死んだほうがマシだってことになる」
その顔は、娘を奪われた壮絶な父の顔をしていた。
「死んでくれよっ!奴隷にされるのはかわいそうなんだろっ!」
再び、男が刀を担いで迫りくる。
「やめろと言っているでしょうっ!?」
私はそれを刀の腹で逸らすと、間髪入れずに相手と位置を入れ替え、相手の背後を取った。繊細さに欠けた動きだ。冷静さを失っていて容易に読めたのだ。
チャンスだ。
厭らしいまでに、チャンスだった。
だが、私は刀を振り下ろせなかった。
ごくり、と息を呑んでしまった。
躊躇したのだ。
もう彼を、ただの悪党だと割り切れなかったから。
「勝手だとは思わないの!?貴方だって…貴方だって、たくさんの子どもを奴隷にして売り飛ばしてきたのでしょう!」
「うるせぇ!」
素早く反転してきた彼が、斬りつけてくる。正眼に構えた切っ先のそばに彼が飛び込んできたから、私はとっさにその隙だらけの脇腹に刃を滑らせた。
「ぐう!」
浅い――。
私はほっとしてしまった。そんな自分にすさまじい葛藤を覚えた。
私は彼を殺しに来ている。殺さなければならないと思っている。それなのに、殺していいのか分からなくなっている。
自分の正当性が揺らいでいた。
嫌だ。
嫌だ、嫌だ。
いち早くそれを取り戻したくて、私は叫んだ。
「その子たちにだって、親はいた!貴方がたくさんの『誰か』にさせていた想いを、今、自分が味わっているだけのこと。自業自得よ!そうでしょう!?」
もしも。
「そんなことは分かってるよ」
もしも、だ。
「でも、しょうがないだろう!他にやり方を知らなかった!」
あの青い目をした悪魔が、私を葛藤させるために、苦しめるために彼らを利用しているとしたら、どうだ。
「お前には分からんだろうな、そんな上等な服を着てるような人間には!」
彼らは、私のせいで巻き込まれた?
彼らの不幸は、私のせい?
「地を這って生きるしかない人間の苦悩なんざ!」
深く、相手が間合いに入ってきた。
――必殺の間合いだ。
数秒後、どちらかが死ぬ。
どうせ、死ぬなら。
死ぬなら…?
私は何を考えている。
私のせいじゃない。これは、彼らの重ねてきた業と、あの悪魔のせいだ。
ふと、黒い瞳が私の脳裏に浮かんだ。
カラスの目だ。
私の心の奥底を覗く、黒曜の光。
それは正しいのか、と問いかけるみたいだった。
「そんなの、知らないわよっ…!」
強烈な唐竹を横にかわす。
彼が振り向く。
私は歩幅を広げて、命に触れる姿勢に入っていた。
水平に薙ぎ払われた剣が通り過ぎるのを待ってから、ダンッ、と深く前進した。
ひゅん、と鋭い刺突が彼の喉元をわずかにかすめる。
(外した!)
慌てて腕を引いた、次の瞬間だった。
真っ赤な鮮血が、シャワーみたいになって男の首筋から吹き出した。
何が起きたのか理解できなかったが、出来の悪い傀儡人形みたいにだらりと崩れ落ちる男の顔を見たとき、これは助からないな、と上の空で考えてしまった。
男が、何かを言おうとしていた。
ごぽごぽと、男の口が泡を吹いた。
ただ、それだけだった。
それが、男の最後の言葉になった。
「あ、あ…」
身を寄せるように両手で持っていた刀から、どろり、と粘性の高い液体が垂れてきて、それが、私の腕にかかった。
あの男の血だ。
そうか、腕を引いたとき、刃が男の首筋を深く切ったのか…。
レイピアとは違う。刃は、引くときにこそよく切れるのだ。
私は途端に、その血がおぞましくなった。べったりと私に染み付いた、罪の象徴であるような気がしてしまったのだ。
人を殺めたことは、一度や二度ではない。
でも、どうしてだろう。私は初めてそのとき、人を殺してしまったと思った。
今すぐにでも血を洗い流したかった私は、慌てて刀をその場に放り捨て、鉄格子を解除するべく窓際の魔導石に触れた。
しかし…。
「どうして…っ!」
魔導石はいくら触れても光を灯してはくれず、私をこの檻籠の中に閉じ込めた。
魔力を失った以上、私はここから出られない。
私は部屋の隅に膝を抱えて蹲った。そして、遠くに聞こえる人間の声を聞きながら、ぎゅっと目を閉じた。
「…何が家族よ…お願いだから、悪人なら、最後まで悪人らしくしていてよ…!」
でないとまるで、私が、私のほうが…。
後書きまで目を通していただいている方々、いつもお世話様です。
拙い作品をご覧になって頂いてありがとうございます。
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