戻らぬ過去に触れて.2
予想外の一言に、ぴたり、と動きを止めてしまう。
彼女は別に私に対して、何の感情も抱いていないと思っていた。それこそ、正も負もなく、フラットだと考えていたのだ。
私は一呼吸ぶんだけ息を止めて、決して振り返らないまま目を横に動かした。当然、サザンカの姿は見えず、息遣いすら聞こえない。
それでも、サザンカは続けた。ゆっくりと…夜の帳を下ろすみたいに。
「貴族ってものは、自分たち選ばれた人間以外はただの捨て石にしか見えていない」
あえて感情を抑えるために、明るい声で話しているのが容易に分かった。
「だから、貴方たちに尽くしてきた人間だって、簡単に切り捨ててしまえる。そうだよね?」
「…誰の話をしているのかしら」
「そうだと言え」
次の瞬間、部屋の室温が下がったかのような錯覚を覚えた。きっと、背中に突き刺さった冷たい殺意のせいだ。
私は無意識にごくりと喉を鳴らしながらも、怯えのない堂々とした動作で立ち上がり、体を反転させる。
眼前に立つ女は、私の知る飄々とした、笑顔の絶えない女の顔をしていなかった。
やり場のない苛立ちを赤い唇の隙間から漏らした、知り合いによく似た他人だった。
突き刺さる視線の刃を真っ向から受け止めた私は、何を言うべきかも分からないまま言葉を交わす。
「サザンカ。随分と怖い顔をするじゃない」
「言っただろ、私はお前たち貴族が嫌いだ」
もはや別人になり果ててしまったその口調。なるほど、普段は意識して口調を変えているから、あんな一貫性のない話し方をするのか。
「…はぁ」
私は、ともすればすぐにでも襲いかかって来そうなサザンカに対し、これみよがしにため息を吐いた。それでますます視線が鋭くなったが、構わず続ける。
「いい加減にしなさい。今さら何の目的で貴方が私に突っかかるの?オリエントに迷惑をかけないことは明白だし、自分で言うのもなんだけれど、ワダツミともそれなりの関係を築いているでしょう。何が不満なの?」
こちらの質問を受けても無言を貫くサザンカに、肩を竦める。合理性に欠いた行動のまま睨まれてはたまらないのだ。
「黙っていても何も分からないわよ」
「…」
「…あのね、フウカがいつ倒れてもおかしくないから、早く本題に入ってほしいの、私は」
「…そういうところだ」
「は?」
「だから、そういうところだ。私が、困っているのは」
ここにきて、初めてサザンカが私から目を背けた。
おそらくは地毛なのだろうブロンドが、紫に染められた彼女の髪色の隙間から見え隠れするのと同時に首元に巻いたマフラーが揺れる。
「貴族のくせに、どうして人を助ける?いつになったら、その“善い人”の仮面は脱げる?私は――待ち疲れたんだ」
ストレリチアの話では、サザンカはアマツ女王を暗殺するべくエルトランド中枢から差し向けられた暗殺者だったという。それが本当なのであれば、彼女には業深く、影の濃い過去があるのだろう。その過程で、彼女を使っていた人間たち――当然、貴族か――への不信感が肥大化したに違いない。
「アマツ女王に言われて、監視としてここまで来た。それにもしかしたら…私を使い捨てようとした連中に復讐できるかもとも期待していた。貴族なんて、全員殺してやるつもりだったのに…お前は…」
踏み込むまいと思っていた部分に足を突っ込んでいると気付いた私は、このまま適当にはぐらかすか迷った。しかしながら、やはり聞き捨てならない言葉もあったから、結局は彼女の澱みに踏み込むことを選んだ。
「“善い人”だった?」
「…」
肯定の沈黙。私は鼻を鳴らした。
「“善い人”なんて、どこにいるのよ。馬鹿ね」
皮肉な笑みを浮かべ、私は腕を組む。
「さて、よくよく考えなさい。暗殺者さん。私は、何者かしら?」
少し困惑した様子で私を見つめるサザンカだったが、挑戦的なこちらの瞳に答えるように顔を引き締めるとこう返した。
「大貴族オルトリンデ家の一人娘、アカーシャ・オルトリンデ」
「そう。そう見えるのね。――で?仮に私がその子だったとして、彼女は何者なの?」
「…国の意向に逆らい、ストレリチアというカリスマを身勝手に暗殺しようとした罪人」
「ふふっ、正解よ。よく分かっているじゃない」
私は子どもにしてやるみたいに拍手してみせた。もちろん、サザンカはそれを酷く嫌そうにしていたのだが、続く言葉を聞いて、ハッとした顔になった。
「サザンカ。私は――“悪女”よ。救世主暗殺を試み、愛する祖国を裏切り、かつての婚約者も、親友も、その親も、多くの同胞も、一切合切、自分の都合で惨殺したエルトランド国始まって屈指の“極悪元貴族令嬢”!」
芝居がかったふうに両手を広げ、高らかに謳う。
こういった芝居が堂に入ってきたものだと自分でも感心しつつ、最後に真紅のドレスの裾をつまみ、優雅に一礼して顔を上げ微笑む。
「どうかしら?これでもまだ、私が“善い人”の仮面を被っているような人間に見える?」
私がそうやって最高の微笑と共に嫌味を放てば、最初はぽかんとしていたサザンカも、次第に口元を綻ばせ、何かに納得した様子で首を横に振った。
「なるほど、そっちが仮面か。恐れ入ったよ、アカーシャ・オルトリンデ――いや、リリー・ブラック」
「何が言いたいのか分からないけれど、二度と間違えないで頂戴。名前も、私という人間のことも」
「…ああ」
サザンカは短く頷くと、その180センチ近い背丈を折り曲げて、おどけたふうに敬礼する。
「了解しました!リリーは悪人なんで、いよいよのときは、ちゃんと私がこの手でやっちゃいます!」
今度は私のほうがサザンカのすさまじい変わり身の速さに舌を巻く番だったが、彼女が一つ、私という存在を通して何かを決めたことを悟り、安堵のため息が出てしまう。
「そう…それでいいのよ。別に。必要なときに罰を受ける覚悟くらい、私にだってあるわ」
「うん。あー、私どうかしてたんだなぁ、リリーが“善い人”に見えるだなんて。はぁ、馬鹿みたい」
「本当ね」
私は肩を竦めながらサザンカの横を通り過ぎる。そして、その瞬間によぎった過去の残影を置いて行くために、私は首だけで彼女を振り返った。
「“善い人”なんてものがこの世にいるとしたら、きっとほとんどが墓の下よ。――せいぜい、貴方の大好きな主が墓穴から遠のくように、気合いを入れることね」
血で真っ赤に染まった修道服の彼女を思い出す。
誰も傷つけず、敵すらも愛し、痛みや傷を癒すことにその短い生涯を費やした、あの小さく華奢な背中。
やっぱり、私は悪人だ。
澱んだ水にしか、澄んだ水は穢せないのだから。




