02 クリスティナの事情
『クリスティナ。貴方には自由に生きて欲しい。前を向いて生きて、そして幸せになって欲しい』
誰に言われたのか覚えていないけれど。その声は大人の女性のものだったと思う。
私の記憶には、その誰かの言葉が残っていた。
『たとえ、この先にどんなに過酷な運命が待っていたとしても。だって、貴方は私の……』
私の。なんだろう? 私と、この言葉を私に残した女性は、どういう関係だったのかな。
耳に、心に残っている理由は……この声の主が、とても優しく、私に話し掛けてくれていたからだ。
彼女から私への……愛情、が感じられたのだ。
慈愛に満ちていて。まるで私の母だとでも言うように。
そんな言葉や、愛情を注いでくれる『家族』なんて私には居ないのだけどね。
「ん……」
夢から覚めて、私は自分の部屋で朝を迎えた。温かな言葉の記憶は遠のいていく。
身体を起こして揺らすと、赤い髪の毛が揺れて視界に映った。
この深紅の色は私の髪だ。でも思い起こせば、夢の中の女性も同じような赤い髪だったような?
「ふぁ……」
あくびを一つだけして。そんな考えも、あっさりと手放した。
さぁ、今日が始まるわよ。また今日も大変な日なのかしらね?
私、クリスティナ・マリウス・リュミエットは、マリウス侯爵家の長女だ。
長女と言っても一つ上にはお兄様が居て、一つ下には妹が居る、兄妹の『真ん中』ね。
『マリウス』の方が家名で、家名の後に『リュミエット』が付く家は、建国以来から存在する由緒正しい貴族家であることを示しているのよ。『リュミエット』の名が付く家は爵位の差に関係がなく、男爵家が名乗っている事もあるし、王家も同様にリュミエットを名乗っているわ。
私が暮らしている国は、リュミエール王国。
リュミエール王国には『公爵家』が一つしかなく、その家はあまり表舞台には出て来ない。
故に、複数の侯爵家がこの国の貴族を代表している。
そんな侯爵家の中でも『筆頭』と言えるのが、マリウス家だ。
つまり私は、筆頭侯爵家の長女というワケである。
ちなみに別に女性でも爵位は継げるのがリュミエール王国だ。
嫡男としては私の兄、リカルド・マリウス・リュミエットが居るため、私がマリウス家を継ぐことは、ないけれど。
筆頭侯爵家の長女で。家を継ぐ人物は他に居る。だから、というのもあると思う。
私の婚約相手が……この国の第一王子、レヴァン・ラム・リュミエットである理由は。
第一王子であるレヴァン殿下の下には、妹君である王女殿下が居るのだけど。
順当にいけばレヴァン殿下が、このリュミエール王国の次代国王となるのだろう。
つまり、その婚約者である私は……なんと、未来の王妃なのだ。国母である。
一体、何の冗談かしら。
『赤毛の猿姫』とまで言われている私が、何を間違って未来の王妃になってしまったのか。
その理由は、もちろんマリウス家の娘である、というものだけではない。
だって、それだけが理由ならば私の妹、ミリシャ・マリウス・リュミエットも居るからだ。
むしろ心情的にはミリシャの方が適任だっただろう。あの子はレヴァン殿下に惚れているから。
それが何故、私が彼の婚約者に据えられたのか。
あの日、私が発現してしまった力。【天与】と呼ばれる異能の力が、その大きな理由だった。
この世界には、稀に不思議な力を宿す者が現れる。
その力の種類は、様々なものがあるのだとか。その内の一人が、どうやら私であるらしい。
【天与】は、リュミエール王国で信仰されている三女神様からの授かり物だと言われている。
また【天与】を授かった人間の事を『天子』と呼ぶこともあるそうよ。
翼を生やした天使様じゃなく、天の子でテンシね。
……そして。この【天与】を授かった貴族令嬢は、王族との婚約者候補に名が挙がる。
その字の如く、三女神に愛されている者の証だから、らしいわ。
つまり【天与】さえ授かったなら、別に侯爵家の令嬢でなくてもいいのだ。
男爵令嬢であっても、王子の婚約者候補になれる。
もちろん、その場合は、家門の後ろ盾とかが不足してしまうから、色々と調整されるのだろうけど。
王子、国王の婚約者であれば側妃に据えられたり、或いは正妃となっても側妃を別に迎えたりね。
私の場合、私自身が筆頭侯爵家の令嬢であったため、ほぼ問答無用で、年齢の近いレヴァン殿下の婚約者になってしまった。
それぐらい、この国では三女神の信仰が強いのよ。
国としても、王家、神殿、そして法機関が、それぞれに別の権限を持って成立している。
王制国家なのだけれど、たとえ王族であっても罪を犯せば法機関に裁かれる。
王家であっても神殿の権利には手を出せない、とかね。
私自身の話に戻すわ。
とにかく私は、あの日。『怪力』の天与を授かったことによってレヴァン殿下の婚約者となった。
そう、『怪力』の天与である。
……あんまりだと思わない? もう少し、お淑やかな天与がいいというか。
しかも、この怪力の天与。私は使えないのだ。
ええ、使えないのよ、これ。あの日以降、一度も。それって大問題なのよね。
だって私が王子の婚約者な理由が、この【天与】なんだもの。
それが使えないってなると、大きく話が変わってくる。
それは、私の……家庭内での立ち位置にも、大きく影響した。
「クリスティナお嬢様には、また新しく家庭教師が付けられます」
最初に『怪力』の天与を発現してから数日後。侍女の一人が冷たく私にそう告げる。
「家庭教師? もう居るわよ?」
「ええ。ですから新たに追加されます。ご精進ください」
「新たに追加って」
元々、私の家は厳しい家だ。それなのに、更に教育が厳しくなると言う。
……いや、言い直そう。この家、マリウス家は『私に』に厳しい家だ。
お父様も、お母様も。リカルドお兄様や、妹のミリシャには……愛情を注いでいる。
だけれど、その愛情は……おそらく私には向けられていなかった。
『クリスティナ。お前は、レヴァン王子と婚約を結ぶ事になった。次期王妃だ。だから、教育内容を増やす。いいな』
お父様は、まだ十歳の私に告げた。問答無用よ。そして今に至る。
私には、より厳しい教育が施されることになったのだ。
当然ながら……ようやく手に入れた剣術の鍛錬の時間も奪われてしまった。
「はぁ……! ありえない!」
レヴァン王子なんて私は会った事もなかった。
妹のミリシャは会ったらしいし、それで一目惚れしたらしいけど。
長女の私が王子に会った事がなくて、次女のミリシャだけは会った事がある。
……まぁ、そういう事で、そういう家族だった。
昔から私は、このマリウス家で一人、浮いた存在だったの。
それは十歳を越えてからも、そして王子の婚約者になってからも変わらなかった。
「髪の色が問題なのかしら……?」
私の髪の毛は『深紅』と言っていい、濃い赤色の髪だ。瞳の色もそれに近しい色をしている。
だけれど私のお父様。ブルーム・マリウス侯爵と、リカルドお兄様の髪や瞳の色は、私よりも薄い赤色だった。
ヒルディナお母様と、妹のミリシャの髪と瞳は、お母様の家の血が濃く出ていて、水色の髪と瞳をしている。
つまり、私だけ家族の中で誰にも似ていないのだ。
そのせい、なのか。他に理由があるのか。
お父様もお母様も、そしてリカルドお兄様も私にだけは厳しく接する。
反面、妹のミリシャに対しては甘く接し、また私を除いた四人の家族関係だけは良好だった。
「……たとえ、髪の色が違うせいだったとしても。私、この髪の色、好きなのよね」
深紅の赤髪は、私のお気に入りだ。
時折、思い浮かぶ、顔も忘れた女性も赤い髪だったからかしら。
「まぁ、いいわよ。いつもの事だもの」
私は、そう呟いて、無理矢理に現状を納得し、呑み込んだ。
それからは、とにかく忙しい日々だったわ。
私に付けられた家庭教師は何人も居たから、勉強ばかりで遊ぶ時間なんて全くないし。
勉強は楽しい時もあれば、苦手な時もあって困ったわね。
私は、もっと剣術を習っていたかったんだけど。その時間も取り上げられてしまった。
元からミリシャの我儘は聞いても、私の我儘だけは聞いてくれない両親で、ようやく叶えてくれた願いだったのに。
流石にこればかりは私もショックだったわ。
だから、改めてお父様に剣術を習いたいと願い出たけれど、返ってきたのは違う言葉だった。
「せめて【天与】を使いこなせてみせないか、クリスティナ」
そう言われるのだけど。
だって、どうしたらいいか分からないんだもの。
私だって、あの時の事を思い出して使おうとはしているんだけど。
「【天与】なんて、あの場に居た物たちの見間違いではないですか、父上。単にクリスティナが、また暴れただけでは?」
「リカルドお兄様」
お兄様が、私を見下してそう言ってのける。
その後ろには隠れるように妹のミリシャも居た。
お父様のそばにはヒルディナお母様が居る。
私に向けられる両親の目も、兄妹の目も、どれもが冷たく、愛を感じられない。
妹のミリシャに至っては、好意を寄せているレヴァンを自分から奪った姉だと睨んでくる始末だ。
まぁ、両親が私にだけ厳しいのは、その納得のいかなさの分、家で暴れたからなんだけどね!
……あれ。もしかして家での扱いは、私の自業自得?
『赤毛の猿姫』の名は伊達ではなかったらしい。フフン!
「木を殴り倒す『怪力』の天与ねぇ。猿姫様には、お似合いかもしれないけど。だからって、それがレヴァン殿下の婚約者として相応しいと言えるのかしら?」
お母様に連れられて行く、社交の場に顔を出すと決まって、そんな陰口が私の耳に入って来た。
だから、婚約者なんて知らないし。
そういうのは好きな相手と結ばれたらいいのにね。だって、結婚ってそういうものじゃない?
「フン!」
私は腕を組んで、聞こえよがしに陰口を言っていた連中を睨み付けてやったわ。
その後で、やっぱりお父様達に叱られたけどね。
なんでも私が睨んだだけで恐喝だとか何だとか。知った事じゃないわね!
とにかく、私の日常はそういうものだった。
家でも、外でも他人の目は厳しく。そして望んだ剣術の鍛錬も出来ない。
王妃教育を受け続ける、余裕のない、窮屈な時間が続いていく。
このまま、この生活が続くのならば……それは窮屈な人生かもしれない。
私には『自由』がなかった。自由な時間も、自由な選択肢もない人生だったの。
そして足りていないのは、きっと自由だけじゃなかった。
家族からは愛されていない。そして、だから……信頼できる人間関係も特になかった。
『ある一人』を除いては、だけどね。