18 『毒薔薇』の天与
邪神は、無数の触手を私に向かって伸ばしてくる。私はその内の一本を掴んだ。
そのまま引き千切ったり、投げ飛ばせたり出来れば、と思ったのだけど。
触手の表面がヌルヌルとしていて、手が滑る!
触手の一部を少しだけ潰せたけれど、これでは追い込まれるだけよ。
「とことん相性が悪いわね!」
私は素早く周囲を見回した。私が居るのは滝壺、水場の中心に作られた祭壇。
黒い槍を構えた黒ローブの邪教徒たちが、何人も水辺に並び、私を包囲している。
彼らの目的は、私をこの邪神の生贄に捧げる事。
水辺に辿り着いたところで、男たちの槍の餌食になってしまうでしょう。
泳いで逃げようにも速度が出ずに目前に迫る『触手の邪神』に捕まってしまうわ。ピンチね!
「……なら、こうよ!」
私は【天与】の光を足に纏いながら、水面に向かって駆け出し、跳んだ。
上に高く跳ぶんじゃなくて真横に向かって。『水切り』をするみたいに、速度をつけて。
ダッ……、バッシャアン!
「っぷ……!」
残念ながら、私は陸地に辿り着けずに水の中に落ちた。
水を蹴り飛ばして『人体水切り』と、いきたかったのだけど無理だったわ! 難しいわね!
だけど、滝とは離れるように跳んだから、水深が浅いところまで来られたわ。
「じゃあ、次はこうよ!」
私は、両手にありったけの力を込める。
そして『怪力』の天与の力を思いきり、水面に打ちつけた!
「──フンッ!」
パァアアアアンッ!
滝壺の水を打ちつけて、一瞬だけ水底までの水が弾き飛ばされる。
筋力でこれをしているのではなく、【天与】によって私から発生したエネルギーだから。
私の身体だけが水流に流されることなく、その場に留まり、水底に足をつけられた。
そして、そのまま水底を蹴って高く跳躍し、槍を構えた男たちさえも飛び越える!
「なっ……! 出鱈目な!」
ダンッ! と私は、男たちの後方に着地し、なんとか滝壺と男たちの包囲網から脱出できたわ!
「生贄が逃げたぞ!」
「おお、神よ、お許しを!」
『触手の邪神』は、手に入れられるはずだった獲物を目前で見失い、身体の一部を破壊されて。
「相当、怒っているみたいね!」
心なしか動きが速くなっているじゃない。
それだけ動けるなら、最初から、その速度で動きなさいよね!
ゆっくりと動いていた方が、余計に気持ち悪かったわ!
「神よ! ロビクトゥスの欠片よ……! どうか、我らの敵を!」
私が、最初に石の祭壇で目覚めた時に、私の近くに居たあの男が『触手の邪神』の前に立った。
黒ローブの男たちの中でも、彼は誰より、あの邪神を妄信しているみたい。
『────』
迫りくる黒い太陽に向かって、天を仰ぐように、男は情熱的な目を向けている。
「悪しき支配から我らをお救いください! そして女神の支配から世界をお取り戻しください!」
……女神の支配って。女神って、三女神様のことよね?
イリス神、メテリア神、シュレイジア神の三柱の女神。
リュミエール王国の国教である三女神教の神様。
彼らは、ううん。アレは、三女神様に敵対する存在ってこと?
『────』
「我らの神よ、あの女を……穢れた聖女を生贄に捧げます! さぁ、どうか!」
男は、己の意に『触手の邪神』が従うと思ったのか。黒い槍の穂先を私へ向けてきた。
私は、逃げ出さずにその場に留まって、両腕を組んで胸を張ったわ!
「フン! それが神様だって言うのなら……貴方の態度は『不敬』もいいところじゃない!」
気になっていたので指摘してあげたわ!
だって、あの扱いで従ってくれるなら、もうそれは飼い慣らされた魔獣でしょう。
少なくとも『神』とは言えないと思うわ。そして、それは証明されたの。
「黙れ! 生贄が! 逃げ出さずに大人しくしていれば良かったのだ!」
「あっ」
私は思わず声を上げた。男は私の言葉に激昂して、声を荒げていたけど。
その背後に、邪神の触手が迫っていて……そして。
ギュルルルルゥ!
「えっ……ひぎっ!?」
無数の触手で絡め取るように、男を拘束して持ち上げたの。
「うわぁ……。あの触手、ヌルヌルしていて、気持ち悪いのよね」
あんな風に拘束されたら気持ち悪くて仕方ないわよ! ドン引きね!
「な、神よ、こんな……! 何故、私は! あの女を生贄に……!」
グキュ、ギュ、グギ、と嫌な音が聞こえてきた。
「あ、が、あ……あああ、ああ、神よ、私は一つに……ああ!」
それが男の最期の言葉だったわ。何やら恍惚としたような声にも聞こえた。
でも、私からすれば崇めていた神様に無惨に殺されて、食べられたとしか見えない。
「う、うわぁああああ!」
そして場は混乱し始めた。食べられた男ほど、覚悟は決まっていなかったのか。
それとも、あの邪神の挙動は、男たちの想定外だったのか。なんにせよ。
「……人間を食べるような魔獣を、人里には下ろせないわね!」
そう。アレが結局、何であろうと。その事実は変わらない。
私は、既に戦う力を持っている。女神に与えられた【天与】によって。
ならば、アレと戦い、退けねばならないわ。無辜の民草を守るために。
力持つ者の責務、ノブレス・オブリージュ。……それだけは王妃教育で、しかと学んだ。
たとえ今は、その座を追われていようとも。私が『貴族』であるのは変わりないのだから。
「ここが山の中で不幸中の幸いね!」
でも、ここからどうしよう? 私の『怪力』の天与は、アレと相性が悪いらしい。
せめて、エルトに貰った剣があれば良かったのだけど。……そうだわ!
「アンタ! とりあえず、その黒い槍を貸しなさい!」
私は、混乱している男たちの一人に向かって駆け寄り、そう宣言する。
「なっ、貴様っ! 貴様が大人しく生贄になれば……!」
「フンッ!」
バキィッ!
「ぐぶぁっ!」
意見は聞いていないから、とりあえず男の顔をぶん殴って黙らせて、槍を奪い取ったわ!
「槍投げよ!」
【天与】の光は、剣みたいな武器にも伝播する。そして『攻撃』であれば、より力が伝わり易いの。
素人の槍投げだけど、なんとかまっすぐに飛んだ槍は、触手の邪神に突き刺さった!
ズンッ!
『────』
刺さった。……でも、倒せないわ! 数が足りないのかしら?
「アンタたちも死にたくないなら私に協力しなさい!」
「ふ、ふざけるな! お前を神に捧げれば、それで!」
「フンッ!」
「ぐぼぉっ!」
とりあえず男の鳩尾を思いきり殴って黙らせておいたわ! そして、また槍を奪い取る。
まったく、勝手なことを言っているんじゃないわよ!
「もう一発よ!」
その場に居た男たちの持つ槍を片っ端から奪って、触手の邪神に投げつけていく。
だけど、致命傷にならない。私の力が足りないのか、それとも相手が頑丈なのか。
そもそも、まともに命中する槍も少ない。流石に槍投げには慣れておらず、力尽くは難しい。
そうこうしている間にも、邪神は触手で男たちを捕まえては取り込んでいった。
「……まさか、大きくなっているの?」
男たちを取り込む度に、邪神の身体が大きくなっている。
食べた血肉が、そのまま身体になっているの? じゃあ、放置するほど、アレは。
「……っ!」
直感する。私は捕まってはいけない、と。
私がアレに取り込まれた時、取り返しのつかない事態に陥る。
ならば、私は逃げるべき? でも、あんなものが現れて、どこの誰が対処するのか。
仮に騎士団が近くに居るとしても、槍が何本も突き刺さっても生きている相手に何ができる。
「……よくないわね」
私は、冷や汗をかきながら邪神を睨み付けた。
捨て置けず、逃げることは出来ない。けれど、私にはアレを倒す術がない。
しかも、さらによくない事が起きた。
「傷が……治っている?」
邪神に刺した槍が引き抜かれ、そこから黒い煙を立ち上らせていた。
その身体には傷ついた跡など残っていない。どうやら身体を再生したらしい。
……冗談じゃないわね!
「ふ、ふはは! 我らが神は不死身なのだ! 『大地の傷』より無限に力を引き出し、生き続ける! 分かったか、娘! アレを止めたくば、お前が生贄となるしかないのだ!」
「フンッ!」
「ぐばぁ!」
とりあえず、うるさく騒ぐ男の顔面をぶん殴って黙らせておいたわ!
「説明ありがとう! とにかく回復するのね!」
しかも『大地の傷』から力を引き出す?
それって、ルーナ様の『聖守護』の天与で、どうにかしなくちゃダメなんじゃない?
じゃあ、私には打つ手なしじゃないの!
「くっ……」
触手の邪神は、私を捕まえる事は諦めていないみたい。男たちを捕食しながら私に迫ってくる。
移動速度が遅いことだけは救いだけど。心なしか捕食の度に、その速度も上がっているわ。
「一か八か……!」
やっぱり殴り掛かるしかない。連打でどうにか、あのヌルヌルとした身体を潰して──
「お嬢!」
「……! リン!?」
リンディスの私を呼ぶ声が聞こえた。どうやら無事に私の場所を突き止めたみたい。
視線を向けると、リンディスは馬に乗って山を駆け上がってきたらしい。
「剣を!」
そして、遠くから鞘ごと魔法銀の剣を投げた。バシィと、私は鞘と柄を掴んで受け止める。
「ありがとう、リン!」
打撃は相性の良くない相手だったけど、剣は有効よね!
私は、かなり近くまで来ていた邪神の触手を切り払う。もちろん【天与】の光を纏わせて。
『────!』
「効いているわね!」
剣がいいのか、それとも【天与】の光がいいのか。
「でも、まだ足りないわ! リン! 馬を食べさせてはダメ! 近寄り過ぎないで!」
「は、はい! ですが、アレは一体……!?」
「私もよく分かっていないわよ!」
剣の方が有効なのは間違いない。打撃では、ぬるりと受け流されてしまう。
でも、剣で切った後も、触手は再生を続けている!
『────!』
一瞬。突破口が開いて、形勢逆転したかと思ったのに。
邪神は、その無数の触手を、爆発したように四方八方に伸ばしてきた。
「これはっ……!」
「リン!」
……リンディスは馬を飛び降りた。おそらく馬を逃してあげるために。
でも、その代わりにリンディスは、その場に取り残されて。
「お嬢、逃げてっ……!」
無数に伸びた触手の狙いは、魔法銀の剣を手にした私ではなく、リンディスに向かった。
このままでは、黒ローブの男たちのようにリンディスが捕まって、殺されてしまう。
……そんな、ことは。そんなのは。
「──ダメに決まっているじゃないのッ!」
今すぐ、あの邪神を倒す力が欲しい! どんな手を使ったとしても!
……そうして。私の脳裏に浮かんだのは、一つの姿だった。
──『傾国の悪女』、クリスティナ。
そう呼ばれた『彼女』の……【天与】。潰れた左眼に赤い薔薇を咲かせて。
血の涙を流していた『私』の可能性の姿。
『彼女』の力ならば、この状況を……。
「なんでもいいから、力を貸しなさい! 私の従者を守るために!」
キィイン……と。硬質な金属音が鳴り響いた。福音をもたらすような音色。
そして、私を中心にして光が溢れ出してきて。身体の内側から溢れてくる力の奔流。
確かにある輝き。そして流れてくる感情の発露。
それは、私と『私』の心が重なり合い、生まれてくる光。
『────!』
光の奔流と共に、その場に『薔薇』が咲き誇り始めた。
凄まじい速度で成長し、蔓を伸ばして、リンディスを守るように囲んで。それだけではないわ。
薔薇の蔓の先端が、邪神から伸びた触手を逆に絡め取り、拘束して槍のように貫いていった。
……この力は。この力もまた、【天与】だ。
『予言の聖女』が予言書の中に見た『私』の異能。その名は。
「──毒薔薇よ! 人を守るために咲きなさい!」
光る薔薇が咲き誇る。ふわりと甘い匂いが辺りを満たした。
薔薇は、見るから丈夫な蔓を伸ばして触手を絡め取り、或いは貫いている。
それだけじゃないわ。薔薇の刺さった邪神の身体から、黒い煙が立ち上っているの。
槍で刺した時とは比較にならないほど、邪神にダメージを与えているみたい!
「無事ね、リン!」
「え、ええ。お嬢、これは……?」
「『毒薔薇』の天与よ!」
「【天与】! これ、お嬢がやっているのですよね?」
「そうみたいね!」
「みたいって」
「私もよく分かってないのよ! 『予言』の天与で夢に見ただけだから!」
「夢! 予言の! お嬢は、いくつ【天与】を授かっているのですか!」
知らないわよ! なんかいっぱいあるの。ルーナ様の『聖守護』も似たようなものじゃない。
「こいつに取り込まれると危ないから、とにかくリンは下がっていなさい!」
「は、はい! ですが、お嬢は……!」
馬は逃がした。場所は山中。滝壺の近く。
黒ローブの男たちは、数人が邪神に捕まり、逃げ出した連中は近くには居ない。
「何とかするわ!」
『────』
私が、邪神に向かって一歩を踏み出すと、薔薇の蔓が自然と道を開いた。
「勝手に動くのかしら、この薔薇?」
「どう見ても、お嬢がやっていると思うのですが……」
私が? 夢の中の『私』は、この【天与】を使いこなせていたのよね。
『怪力』の天与の代わりに、この『毒薔薇』の天与を授かった私って事なのかしら?
私であって、私でない、彼女。たとえ、この力が『彼女』のものだとしても。
「私の言う通りになるのなら! 薔薇よ、邪神を強く締め付けなさい!」
ギュアッ! と、薔薇の蔓がさらに伸び、私の望む通りに邪神の身体を締め付けた。
ギュウギュウに絞り詰めて、身体が柔らかくても打撃を受け流せなくなるまで!
『────!』
身動きを取れなくなった邪神が、なんとか触手を伸ばして逃れようとする。
けれど、そんな動きも薔薇に捕まり、阻害されたわ。
「これなら殴りやすいわね!」
「え、殴るのですか? このまま、薔薇で倒すのでは?」
「こっちの方が手っ取り早いわ!」
拳に光を纏った私は、思いきり駆け抜けて邪神に迫り、そして!
「──フンッ!」
ドゴォッ! と。邪神の一つしかない中央の目玉に、拳を叩き込んでやったわ!
ちゃんと殴れるのなら、これで問題ないわね!
『────!』
口の無い邪神は、断末魔の声を上げられない。けれど、縋りつくように触手を私に伸ばしてくる。
その身体は、以前の魔獣と同じように光によって崩れ去ろうとしているわ。
最後の力を振り絞って、私を取り込もうとする邪神。
『────!』
私は、さらに力を込めて、もう一度!
「もう大人しく眠ってなさい! これで……終わりよ!」
振り被り、ありったけの力を込めて、ぶん殴ったの!
ドッ……パァアアン!
殴った衝撃と共に、黒い液体になって邪神の身体が弾け飛ぶ。
そうして、光に当たって、気化していくように霧散していった。
「回復……しない?」
それどころか、触手の欠片は薔薇に触れている部分から溶けて煙になっていく。
どうやら邪神は倒すことが出来たらしいわ。フフン!
「……お嬢、あちらを見てください」
「うん?」
リンディスが指差したのは……、何かしら? 滝の近くには黒い傷みたいなものが。
それは空中にあったの。空中に『傷跡』、ううん。『ヒビ割れ』? が出来ていたのよ。
空間に出来た、黒いヒビ割れ。よくない雰囲気が漂っていたわ。
「あれが、まさか『大地の傷』?」
魔獣災害を引き起こすと聖女アマネが予言していた。その原因。
邪神は、あの『穴』の向こうから出てきたのかしら? 位置がおかしいと思うけど。
「あれ……放置していると不味いのでは?」
「そうね! ……薔薇よ!」
私は、あの黒い穴へ向かって手を翳し、そして薔薇に願った。
なんとなく、薔薇や拳から出る『光』が、あの穴に効くと思ったの。
「大地の傷を、穢れを……浄化しなさい!」
あんなヤツが際限なく現れては、市井の民が迷惑するわ!
それになんだか見ていて痛々しい。まるで世界が傷ついているみたい。
そういうの、見ていられないから……癒してあげなくちゃ。
【天与】なのだもの。それぐらい出来るわよね! きっと!
パァアアアアア! と黄金に光り輝く薔薇が咲き、そして『大地の傷』に。
「おお……」
リンディスが感嘆の声を上げる。
私が思った通りに、空間のヒビ割れは瞬く間に消えていったの!
これって『大地の傷』を浄化できたって事じゃない? ルーナ様のお仕事!
アルフィナ領でも、使えるかもしれないわ!
「フフン!」
私は、胸を張って勝ち誇ったわ。やってやったわね!
「お見事です、お嬢。まだ、よく全容を理解していませんが」
「それは私もね!」
でも結果が良ければ、きっとそれでいいわね!