16 エンディングG
誰かが泣いていた。……誰か? ううん。違うわ。
泣いているのは『私』だった。どうして私は泣いているの?
『あは……あはは、あはははははは!』
違った。私は笑っていた。でも、凄く。悲しかった。
だから笑っていても、心が泣いている。それが分かる。
だって、それは私の感情だったから。
『見えないの。……世界の半分が、見えないの。ねぇ、……』
視界が狭い。私は、何故か左眼を失っていた。
そんな風に狭くなった私の視界に移っているのは、王都にあるマリウス家の屋敷だ。
だけど、その外観は見るも無残な姿になっていた。
『……あれは一体、何?』
その光景を見た誰かの声が耳に入る。誰か? ううん。この声は、ルーナ様だ。
ルーナ様が驚くのも無理はない。
だって、マリウス家の屋敷は、外壁すべてが『黒い薔薇』で覆われていたの。
『クリスティナ、様?』
ルーナ様が私に向けて話し掛ける。
少し離れたところに彼女は居たらしい。私は、その声に向かって歩いていく。
『……ああ、ルーナ様』
『く、クリスティナ様!? その、左眼は……』
ルーナ様の瞳には、私の顔が映る。ううん? それだけではない。
私は、私の視点だけでなく、別の視点でも世界を見ていた。
その別の視点は、私の足元から徐々に上へと目線を動かしていくような視点だ。
私は裸足だった。草地の上に裸足で立っている。
そして『視点』が、徐々に私の身体を、頭の方へと上がっていく。
……私の身体は、血に塗れていた。
着ている衣服も赤く染まり、髪の色も、衣服も、何もかも真っ赤な私。
最後に私自身の『顔』が視界に映る。胸元から上だけを切り取ったような光景だった。
『私』の顔は……左眼が潰れていたわ。
そして、潰れた左眼の代わりに、その場所に赤い薔薇が咲いているの。
失った左眼の、あるべき場所に、赤い薔薇が咲いていたのよ。
『クリスティナ様……。な、何が……あったのですか? あの屋敷は、その左眼は』
『アレは屋敷じゃないわ、ルーナ様』
『え?』
私が話す言葉に合わせて、何か不穏な音楽が流れて来るのが聞こえた。
だけれど、その音楽はルーナ様には聞こえていない。
ルーナ様と話している『私』にも聞こえていない、みたいよ。
『アレはね、お墓なの』
『……お、お墓?』
『そう。アレは、もう私の家じゃない。だから、お墓』
その私は、すべてを諦めたように笑っている。そして心の中で悲しんでいた。
『お、お墓って……誰の?』
ルーナ様が、私にそう問いかける。だから私は答えたの。
『──リンディスの、お墓』
……え?
そこで、ザシュッ! という音と共に、血飛沫が舞った。
『あ……』
私の目の前で、ルーナ様が切り裂かれたの。地面から突然生えた槍……。
ううん。尖って、伸びた『薔薇』の蔓の棘で。
ルーナ様の身体は斬り裂かれ、貫かれてしまった。
鮮血と共に、その場に倒れ伏してしまうルーナ様。彼女を殺したのは……私だった。
『……だから、もう二度と、ここへ来る事はないわ』
酷く悲しい。そして寂しい。辛かった。苦しかった。
泣き出したくなるほどに。でも私の目から溢れているのは涙ではなかった。
左眼に咲いた薔薇に抉られて……流れる血。それが涙のように零れている。
『リンディス。見えないの。もう、見えないの。世界の半分が……見えないの』
ただ悲しい。ただ、辛い。怒りよりも、ずっと悲しさが勝っていた。
そして『汚い物』だけが見えた。潰れた左眼が、世界の綺麗な物を捉えていたとするなら。
私の視界には、もう汚い物しか映らない。
世界は醜かった。人間は醜かった。どこにも価値がなかった。もう、すべて。
『……ああ、咲いて。私の【天与】。私の……毒薔薇』
私の言葉に呼応するように、屋敷を取り囲んでいた黒い薔薇が急激な成長を遂げる。
その光景は、まるで薔薇で出来た『お城』のような光景だ。
『毒薔薇の【天与】。私に相応しい、人を傷付ける事しか出来ない、異能……』
その薔薇を操っているのは、まぎれもなく『私』だ。
あの屋敷には……お父様が居ると分かった。お母様も、リカルドお兄様も居た。
そして、リンディスも。
一度も姿を見たことがなかった、彼。ずっと私のそばに居た声だけの従者。
だけど初めて見た、その顔は……彼の死に顔だった。
そう。リンディスは死んだ。彼の姿を見た時には、死体だった。
殺したのは、お父様だ。ブルーム・マリウス・リュミエット侯爵。
……だから。私は、あの屋敷の中で。
『どうして! どうしてですか! どうしてリンを殺したの!』
そう叫んで。お父様に殺意を向けた。
お父様は、私に向けて意味不明な言葉で応える。
『お前は、セレスティアと同じだ! 生きているだけで、災いを呼び込むんだ! この私を苦しめ、マリウス家を貶め、迷惑だけを掛け続ける!』
私が一体、誰と同じなのかなんて、どうでも良かった。ただ、何故と。
『お前なんて生まれてこなければ良かったんだ! その魔族と同じように!』
『────』
その言葉が最後のきっかけだった。お父様が何を言っているのか分からない。
ただ……もう、ここには私の家族など居ないのだと。それだけは理解できた。
そして目の前に居るのは、ただ汚いだけの……。
ブシュッ!
『が……!』
お父様の、口の中にも棘の付いた黒薔薇を。ああ、これでうるさくなくなった。
『お母様はどこかしら? 執事たちはどこ? 侍女たちは? 皆、殺さないといけないわ。だって、それが私に与えられた【天与】ですもの』
ああ。ああ。見えないわ。世界の半分が見えないの。
だから、汚いものばかりが見える。せめて薔薇を咲かせて綺麗にしなくちゃ。
それから私は大忙し。屋敷の中をお掃除よ。赤い薔薇、黒い薔薇、紫の薔薇。
家族が食事をしている扉を、私の目の前で閉ざした侍女も。
旅行に行く家族を見送れと馬車に私を乗せなかった執事も。
みんな、みぃんな、静かになった。赤くて、黒くて、広がって。
とっても綺麗に咲いてくれた。皆が薔薇になったの。物も言わない薔薇になった。
『……見えないわ』
ねぇ、リンディス。見えないの。綺麗なモノが見えないの。
何にも、何にも。私の世界の半分が見えなくなってしまったの。
だから。だから。だから。
──殺した。
殺して、殺して、殺して……。マリウス家に居た者たちを皆殺しにした。
そうして……『お墓』を作ったの。リンディスのお墓を。
『あは。あはは! あははははははははは!』
人を殺した薔薇を咲かせて。血塗れになって。ルーナ様さえ殺して。
私は笑った。笑い続けた。左眼から血を流しながら……笑って。
涙を流す事すら忘れて、ただ私は笑い続ける。
そして、これからも、この王国に死を撒き散らし続ける。
だって、要らない。だって、もう価値がない。だって、汚い。
黒薔薇から生まれるのは魔獣たち。魔獣を生み出す異界の穴から汚泥が零れ落ちて来る。
それらすべてを私が行っている。私は、ある意味で、この子たちの母。
魔獣の母となって……王国に、反逆を為す。……何のために?
『うふふ……』
終わりがない。終わっていい。際限がない。もう意味が無い。
誰かが私を殺すなら……どうか、私を殺して見せて? だって、この命には価値も無い。
【穢せ】
……声が聞こえた。視界は黒く染まっていく。
ううん。世界が黒く染まっていき、暗転していく。私は、ただ壊れたように笑ったまま。
【聖女を穢せ】
どこからか、その声は聞こえる。
【女神に選ばれた聖女を、もっとも清廉な魂を、陥れて、穢し尽くせ】
誰のことを言っている?
【聖女を穢して悪に染めよ、魔に染めよ】
……ああ、これは現実じゃない。だって、リンディスは生きているのだから。
それにリンディスの顔も、喋っている姿だって私は知っている。
【墜ちろ、穢れろ、血に染まれ】
……うるさいわねぇ。耳元で、気持ち悪い事を言わないでくれる?
【聖女を闇に堕として、穢せ】
聖女なら王都に居るから、そっちへどうぞ! 私に言っても仕方ないでしょ!
【闇へと墜ちて、生贄になれ、女神の聖女】
そんな声と共に、完全に私の視界が真っ黒に染まった。
黒い視界の上に『メッセージの書かれた窓』が現れ、文字を書き出した。
『マリウス侯爵家の人々は【悪役令嬢クリスティナ】に皆殺しにされてしまいました。』
『そして、ルーナもまた彼女に……。』
『──エンディングG:薔薇城のお墓 Grave of rose castle.』
『新しいルートが解放されたよ!』
『トロフィー【傾国の悪女が生まれた日】を取得しました。』
……は? 何?
面白おかしく茶化すように、私が家族を皆殺しにしたと書き記される光景を見た。
音楽まで流れ始めて、まるで演劇のような演出。
そして、私の意識は、何かから引き剥がされるように後退していって。
『エンディングG、クリアっと!』
え? アマネ? どうして?
先程まで見ていた光景は、黒い板に描かれた絵画のようになっていた。
そして、その黒い板を、あの『予言の聖女』アマネ・キミツカが見ている。
……その光景を、さらに後ろから『私』が見ていた。
これって、もしかして『予言』の天与? まさか、アマネの見た予言と同じ光景?
『よーし、次のルートは、っと!』
アマネは、私の存在には気付かずに、黒い板に向き合った。
黒い板には、綺麗な音楽と共に絵画と『文字』が映し出される。
ルーナ様、レヴァン、エルト、リカルドお兄様、それから黒髪の男性の、胸から上の絵画。
そして、『光の国の恋物語』と。
あら? 私、この文字、読めるわね?
『リュミエール・ラブストーリー』と読むみたい、だけど? それはそれとして。
私は、右拳に【天与】の光を込める。……だから。
『さっさと現実に戻しなさいよ!』
いい加減、謎の光景を見せられ続けるのは、うんざり。
だから、私は『予言』の天与が映し出す光景に対して……拳を叩きつける!
ガッシャァアアアン! と。音を立てて、モヤモヤとした世界を粉砕する。
それで、その光景は霧散していった。
残念ながら、予言の『夢』の中では、アマネをぶん殴れないらしい。
そうして、私は目を覚ましたの。どうやら長い夢を見ていたみたい。……なのだけど。
「……どこ、ここ?」
目を覚ました私は、見覚えのない場所に居た。……しかも、両手が縛られた状態で。