演技放棄
三題噺もどき―さんびゃくじゅうはち。
ヒヤリとした空気が、部屋全体を包んでいる。
クーラー効かせすぎじゃないかこの部屋……。
相変わらずとしか言いようがないし、毎日ここで働いているから慣れたものではあるんだが。個人的には寒いぐらいのレベルまで冷えているんだが、上のお人々はそうでもないようで。
まぁ、動かずに座っているだけで、肥しを作っているだけであれば、寒くはないだろうよ……。
「聞いているのか!!!!」
その部屋中に、大声が響き渡る。
そこまで広くはないこのオフィスにいる人々は、一瞬その声に固まる。が、すぐに各々の仕事を再開する。
聞こえないふりをするように、見て見ぬふりをするように、わざと大きな音を立てながらパソコンを叩き、紙を捌く。
「……」
怒鳴られているのは、今年4月に入ってきた新人君。
君とは言ったが、正確には女の子だ。新人ちゃんって少し言いにくさがあるよな……。
自分自身が男だからというのも、あったりするかもしれないが。
「何度言えばお前は……」
怒鳴っているのは、ただ座っているだけが仕事の年寄り。男。
今みたいに、新人または部下を、怒鳴ってけなして、仕事を押し付けて座っているだけが仕事の。
ただ、年を食っただけの男。
老害とはまさにアレと言われれば、納得できる気がする。……あまりこの言葉好きではないが。
「……」
まぁ……僕も他の人のように、仕事に戻ればいいのだが。
なぜか、手が止まり、ちらりと視線を向けてしまう。
怒鳴られるたび、ぶつぶつよいわれるたび、肩が跳ねる姿が、やけに目に付いて仕方ない。
腰を曲げ、頭を伏せ、紙が落ちているからその表情は見えない。
泣いているのか、怯えているのか、狼狽えているのか。
はたまた笑っていたりするんだろうか。
……それはないか。首から下がったパスポートには笑顔の彼女が居るだろうけど。
「何でこんなことが……」
あの子は、少々気弱な感じの性格をしていたように思う。
直接指導をしたこともないし、話したことすらないのだが。
なんというか、遠くから見ている限り。
研修中は、常に誰かの後ろを怯えながらついていたし。
何かをするにも、必ず確認をしないと安心できないようで、何度も確認をしたりしていた。
……まぁ、そこは下手にミスをされるよりはいいのか。
「……」
ただその、「何度も聞く」までが、もう。
それはそれは長い。
メモ帳らしきものを確認して、きょろきょろあたりを見渡して。もう一度見て確認して。それを何度も繰り返して。それでもやっぱり不安だからと、声を掛けに行く。
しかも、わざわざ遠くにいる、研修を担当してくれた女性社員に声を掛けに行くのだ。
離しやすいのはそっちの方かもしれないが、なぁ。
「……」
近くにいるわけではないが、なぜかものすごく、視界に入る。
あのうるさい男のぶつぶつ声が聞こえるのはまぁ、いつものことなのだが。
だがなぜか……その男の声が、言葉が、なぜか気になるのだ。
何だろうとか、考える間もなく、ただ気になる。
「……」
んー。
別にあの子を受け持ったわけでもない。そもそも関わりがない。
女の子というのもあって、言い過ぎ感は感じているような気もしなくはないが、そんなの今に始まったことじゃない。
だからまぁ、気にするほどの事でもない……はずなのだが。
「……」
まーなー……。
色々時にはかかるし、あの怒声を聞き続けるのも疲れるし。
他の人はもう慣れ切っていると言うか、麻痺していると言うか。
まぁ、僕自身もそれなりに、麻痺しているはずなんだが。
「……っふぅ…」
無意識にため息が漏れる。
なんだろうなー。何が気になるんだろうなー。
何が引っかかっているんだろうな……。
シャットダウンしようにも、できそうにないんだよな…。
なぁんか……ものすごく……。
「……」
何かが。
腹に据えかねている。
「――ホントにお前は使えないな!!!!!!!」
「――」
はぁ。
なるほどなるほど。
なんとなく、こういう時の勘って言うのは、無意識に働くよな。
これか。それか。
なるほど。あいつが。
これをいうような予感が、ざっくりとしていたから。
なんとなく、気になっていたのか。
うんうん。それなら納得がいく。
「どうしたの?」
自分の中の違和感を飲み込み、我ながら感心をしていたところに、声がかかる。
隣に座っている上司だ。
突然手を完全に止めて、腕を組んで、何か得心が言ったような姿勢を撮ってしまえば、そりゃ不振に思うな。
「……」
あー……。
この人の前では、あんまり露呈させたくなかったのだが。
そのせいで、というかそのおかげで、こんな所で働き続けていたんだけど。
もう、ここに居る必要もないし。
そもそも。
演じることに疲れた。
もう、いいだろう……。
「……」
「ちょっと??」
声が聞こえなかったことにして。
席を立つ。
未だ怒鳴り続けている男は、こちらに気づいていない。
あの子は気づいたかな。少し頭が傾いたように見えた。
「……」
周りが気づき、ざわざわとしだす。
だがそれにも構わず、足を進める。
二人の元へ。
―より正確に言うと、怒鳴っている男の方へ。
周囲の異変にようやく気付いたのか、声が止まった。
「な、なんだね?」
「……」
へぇ。耐えてたんだ。
この子は、きっといい大人になりそうだ。
唇をかみしめ、弱音も吐かず、ただコイツの、ためにもならない小言を聞き流していたようだ。
気弱だなんて言って、申し訳ないなぁ。
「……」
こちらを下からねめつけるようにこちらを見る。
その瞳の奥には、何かがあった。
ここに居る、他人が誰も持っていない。強固な何かが、潜んでいる。
初めは誰もが持っていたかもしれないモノ。
時を経て、経験を重ねて、失くしていくモノ。捨てていくモノ。
―彼女はそれを捨てずに、腐らせずに、抱き続けて、ここまで来たらしい・
こんな所にいるのが、もったいないくらい。
「……」
もしかしたら、あの気弱は演じていただけかもしれないな。
僕と同じように。
いや、僕よりも上手に。
「……」
ほんのすこし赤くはれたように見える唇には、赤色が滲んでいる。
うん。さっさとこの状況を終わらせて、治療なりなんなりした方がいいかもしれない。
残念ながら、その辺の知識は全くないので、唇への治療とか、いらないかもしれないが。
「お前、なん――
ドンっ――――
何かが壁に当たる音。
近くにいた僕と彼女には、その後のすべる音も聞こえた。
あー手が痛いなぁ……。
当の本人は、驚いて声も出ないのか。はたまた口内を切りでもしたか。
男は、はくはくと口を動かすだけ。
「 きゃぁあああぁぁぁ!!????」
一拍おいて、金切り声が木霊す。
それは、この部屋の誰かの悲鳴。
目の前に立つ彼女は、ただ静かに見ている。
「……」
あー。
もしかしたら、僕が演者だと言うことに、気づいていたのかもしれない。
だから、演技が上手いと思ったのもある。
そう考えると、関わらなかったと言うよりは、避けられている感はあった。
「おいお前!!なにしてんだ!!」
後ろから、男の声。少々遠い。
いうわりには、近づいてこない気がする。
ま、いきなり飛びついてでも来たら、何するか分からないからなぁ……。
こんなことをするやつには、僕には、近づかないのが得策だ。
―が。
「いきなり何をする貴様!!!!」
この男はほんとに。
何も分からないんだな。
「……」
使えないのは、お前だということに。
気づきもしないんだから、それはそうか。
んー……何か持ってたかなぁ……。
「おい!何か言ったらどうなんだ!!」
ごそごそとポケットを探る。
あまりものを入れていたりすると、何かの拍子でやらかすかもしれないので、基本何もないのだが……。
あ……おぉ…。あった。さすがだなぁ。
「お―――――っぎ!?」
やかましい。
声がでかいだけが取り柄だから、うるさいのは仕方ないとはいえ……いつまでも喚いていても何も変わらないだろう。全く。
使えないやつは、ホントに使えない。
―使えないやつ同士、仲良くしようとは思わんが。
「――!????」
とりあえず口をふさぎつつ、背に回り、ポケットに入っていたものを、ぐぃと当てる。
死なれては困るので、外してはいるが。ジワリと赤色が滲んでいる。
皮が厚いから、どうかとは思ったが、案外刺さるもんだなぁ。
「……」
それを隣で見ている彼女。
ちなみに、ここまでピクリとも動いてない。
肝が据わっていると言うか、なんというか……ここまで行くとこの子の方が恐ろしく見える。
他人からどう見えているんだろうなぁ。
さっきまでの怯えの色はどこへやら。
ホントに、演技がお上手なようで。
「……ん?」
男の顔を差し出すと、自分の手がやられかねないので、足を使って腹を差し出してみる。
ま、元から出ていたものを強調するような形になっただけかもしれないが。
「……」
おや。
えらいなーほんと。
ここまでお膳立てしてやると、大抵の人は手を出すんだが。
視線を切り、彼女はスタスタと自分のデスクに戻っていく。
「……」
ま、いいか。
じゃ、代わりに。
「っぐ!!」
うわ気持ち悪いな、この脂肪の塊。
そして重い……気絶した人間ってやっぱり重いよなぁ。
コイツは特に重い。ずっと座って、いらないものばっかり蓄えてるからだぞ。
「……」
シン―と静まり返ったオフィス。
その中で、1つだけキーボードを叩く音。
…マジで、あの子凄いなぁ。
「……」
ま、僕ももうこれ以上ここに居ても仕方ないし。
さっさと帰ることにしよう。
荷物は、図ったようにまとめていたりするし。
鞄だけもって、さっさと。
帰る。
お題:赤色・パスポート・演じる