月の光
「その鈴……どうして。まさか、……リリルなのか?」
リリルーシアは、咄嗟に首元を押さえて鈴を隠した。
「な、何のことです? おかしなことを仰らないで下さい。私が殿下の猫であるはずがないでしょう?」
その言葉を聞いたジェラルドは、スッと目を細めてリリルーシアを見る。
「何故、〝リリル〟が私の猫の名前だと知っている?」
「それは……!」
リリルーシアは、ハッと口元を押さえた。
考えてみれば、これまで逃亡していたはずのリリルーシアが王太子の猫の名前を知っているのはおかしい。
リリルーシアが混乱する間にも、ジェラルドはリリルーシアを逃さぬように拘束した。
「その鈴には特別な魔法が掛けられている。俺じゃないと外せない仕様になっているのだ」
肩を掴まれたリリルーシアの首で鈴が鳴る。その鈴にジェラルドが指を翳すと、鈴はコロンと呆気なく首輪から外れた。
「やはり、お前がリリルなんだろう?」
これ以上誤魔化すことは不可能だと観念したリリルーシアは、開き直ることにした。
「ええ! そうですわ! 私があなたの愛猫、リリルでしてよ! これまでずっと、猫の姿で殿下を騙していたのですッ! 一緒に過ごしたこれまでの日々は、何もかも欺瞞でしたの……これで満足かしら?」
叫びながらリリルーシアは……あんなにこの王太子の激重激甘愛から逃げ出したかったリリルーシアは。ズキンと痛む胸の痛みを感じていた。
これできっと、王太子の愛猫〝リリル〟はもう要らなくなってしまう。
もう二度と、あの甘ったるくて優しい眼差しを向けてもらえない。
朝から晩まで猫撫で声で話し掛けられて、惜しげもなく愛の言葉を連呼され猫可愛がりされるあの生活はもう終わり。
それを望んでいたはずなのに、勝手に傷付いている。精一杯の虚勢の声が震えてしまい、そんな自分が惨めで仕方なかった。
涙目になっていることなんて悟られたくなくて、リリルーシアが目を逸らしたその時。
「リリル……!」
グッと抱き寄せられたリリルーシアは、いつもと同じなのにどこか違う王太子の腕の感触にボッと顔を赤らめた。
「なっ、なっ!?」
「姿が見えなかったから心配したぞ。怪我はないか? どこか変なところは?」
「何をっ……! 言いましたでしょう、私はあなたを騙していた悪女なのです! それでも心配するなど、何を考えていらっしゃるの!? それでも王太子なのですか? もっと私をお疑いになるべきですわ!」
言い募るリリルーシアに向けて、ジェラルドは真剣に答えた。
「だってお前は俺のリリルだ。一生幸せにしてやると言ったじゃないか」
人間の姿に戻っても、何一つ変わることのないジェラルドの態度に、リリルーシアはただただ戸惑ってしまう。
そんなリリルーシアに、ジェラルドは追い討ちをかけた。
「一緒に風呂に入ったことを忘れたとは言わせない」
「ヒッ」
「雷の日に俺のベッドに潜り込んできたのはお前だろう? それ以来、毎日のように抱き合って眠ったじゃないか。俺の鼻をペロペロ舐めまわしたのも、俺に腰を撫でられて蕩けそうな顔であられもない姿を晒していたのも、エサ欲しさに自ら腹を見せ、愛嬌を振り撒いていたのも。全部お前だ」
忘れてしまいたい恥ずかしい行動の数々を挙げられたリリルーシアは、いつもの癖で王太子の頰を手で突っぱねた。
「いやーーっ! それは仰らないでっ!!」
肉球ではなく手が本気で頰を押し返していると言うのに、ジェラルドは嬉しそうにリリルーシアのその手を取る。
「ああ、その反応! 心底嫌そうなその声! 正しく俺のリリルだ!」
「……へ?」
「そのキョトンとした瑠璃色の瞳も、表情も。何も違わない。俺のリリルだ」
ニコニコのジェラルドを見上げて、リリルーシアは戦慄した。そうだった。この男は、愛猫リリルのことに関してはトチ狂っているのだった。……流石にここまでとは思わなかったが。
「ど、どうして……」
「俺には分かる。姿が違っても、俺の愛するリリルはお前だ」
人間姿の自分を一瞬で受け入れてくれた王太子に喜ぶべきか恐怖するべきか、分からず混乱するリリルーシアは、ジリジリとジェラルドから距離を取ろうとするが。そのモフモフではなくなった腕を、ジェラルドが掴む。
「ひゃっ!?」
「どこに逃げる気だ? 逃すわけないだろう? 令嬢相手にこれだけしてしまったとあらば、男として責任を取らねばなるまい」
「な、何をなさるおつもりですの!?」
ジェラルドは、肉球のなくなったリリルーシアの手を取ると、その甲に口付けを落とした。
「分からないか?」
「!?」
これまで妹のお世話ばかりで恋愛などしたこともないリリルーシアは、こんなことをされたのが初めてだった。真っ赤になったリリルーシアを見つめたジェラルドは、これまで愛猫に向けて来たのと同じ笑顔をリリルーシアに向ける。
「まさかこんな形で夢が叶うとは」
「ゆ、夢……?」
「毎日のように言っていたではないか。世界一可愛い俺の天使。お前が人間だったらいいのに、と」
驚くリリルーシアを他所に、ジェラルドは。一度外れた鈴を、再びリリルーシアの首に取り付けた。
「え?」
カチャン、とリリルーシアの首輪に戻ってきた鈴が、軽やかな音を立てる。
「嬉しいよ、リリル。いや、リリルーシア。お前が人間で」
両手を広げて近付いてくるジェラルドに、リリルーシアは後退った。しかし、首に着けられた鈴がチリリンと鳴って体が動かなくなる。
「お、落ち着いて下さい、殿下! 私は人間なのです、猫ではないのですよ!?」
「だからどうした? そんなのは些細な違いじゃないか」
鼻先が触れそうになり、リリルーシアはもうダメだと目を閉じた。その時だった。
明るかった室内が、急に暗くなる。どうやら月が雲に隠れたらしい。すると、リリルーシアの視線は一気に低くなった。
「み、みー……」
次の瞬間には、リリルーシアは、再び戻ってしまった猫の姿でジェラルドの腕の中にいた。
「……そうか、月の光か。月光で元に戻るということは、やはり呪術の可能性が高い。本当はもっと話を聞きたいのだが……月が完全に隠れてしまったな」
ジェラルドに抱き上げられたリリルーシアは、猫に戻れて心底ホッとした。人間の姿であんな至近距離で……心臓がどうにかなりそうだった。
「リリル、心臓の音が凄いぞ? 大丈夫か?」
「ニャー」
胸に手を当てられ心配されたリリルーシアは、怒ったようにジェラルドへ牙を向けた。
(それは、あんな迫られ方をしたらドキドキもするでしょう!)
「よく分からないが、その顔も可愛いな。怒っているのか? なんだその牙は。白くて小さくて尖っていて、最高に愛くるしいじゃないか!」
いつもの調子でわけの分からないことを絶賛されて、リリルーシアは心底疲れ果てたのだった。