愛猫の異能
頬を掴まれ、顔を上げさせられたリリルーシアは面目なさそうに目を逸らした。
「にゃうん……(ごめんなさい……)」
散らかったチョコレートの箱もリボンも、今更誤魔化しようがない。これまでの生活でジェラルドが甘いものに目がないのを知っているリリルーシアは、しゅんと耳を下げた。
(この人も甘党だもの。きっと、あのチョコレートを食べるのを楽しみにしてたんだわ。だからこんなに慌ててるのね。本当に悪いことをしたわ……)
一粒だけ……ほんの少しだけ……味見させて頂くつもりが、久しぶりの甘味につい夢中になってしまって、箱にぎっしり詰まっていたチョコレートを全て食べてしまったリリルーシア。
ヒゲの先についたチョコレートとその香りを感じ取った王太子ジェラルドは、愛する愛猫を抱き上げて凄まじい勢いで身を翻した。
「ヘンリー! 今すぐ獣医を呼んでくれ!」
「はい……ッ!」
ヘンリーが駆け出して行ったのを不思議な思いで見ていたリリルーシアは、自分を抱き上げるジェラルドに至近距離で問い詰められていた。
「どこか痛いところはないか? 吐き気は? 具合は悪くないか!? ああ! お前に何かあったら俺はどうしたらいいんだッ!!」
(何でこんなに焦っているのかしら……?)
リリルーシアの前ではいつも様子のおかしいジェラルドだが、今日はいつもと違った方向に様子がおかしい。首を傾げるリリルーシアに、ジェラルドは真面目な顔で言い聞かせた。
「リリル、箱を放置していた俺も悪いが、変なものを食べてはいけない。チョコレートは猫にとって毒なんだぞ!」
(あ……そういえば、そんな話を聞いたことがあるような)
どこかで聞いたことのあるような話に『へえ、そうなんだ』と思っていたリリルーシアは、今日の自分の行動を思い返して目を見開いた。
(ええ!? 私、これでもかって言うくらいチョコを食べちゃったわ! この猫の体で! どうしましょう!?)
「ヘンリー! 急いでくれ! 早く獣医を!!」
悲痛な王太子の声が、廊下にまで響き渡った。
「……不思議ですな。本当に大量のチョコを食べたのですか?」
リリルーシアの体をマジマジと診察した獣医は、何度も首を傾げていた。
「間違いない。この一箱をペロリと食べた。ラッピングを解いて箱を開けるだなんて、俺の愛しいリリルは本当に賢い子だ。俺が甘かった」
こんな時でも愛猫を誉めることを忘れないジェラルドは、沈痛な面持ちで頭を抱える。
「どうですか? お猫様の容態は? やはり、よくないのですか……?」
愛猫に何かあれば王太子が発狂することが目に見えているので、ヘンリーも戦々恐々としながら獣医に確認する。
しかし獣医は、悲愴な二人へ向けて戸惑った顔を向けた。
「いえ、それが……全く異常がありません。念の為経過観察をして頂きますが、これだけの量のチョコレートを食べて何の症状もないのは不可解です。取り敢えず、食べてしまったチョコレートを吐き出させる薬を処方します」
「……は?」
「そんなことが……?」
口をぽかんと開けたジェラルドとヘンリーは、信じられないものを見るようにリリルーシアを見下ろした。
男達から呆然とした視線を向けられたリリルーシアは、居心地が悪そうに身を捩るが、具合が悪そうには見えない。
(私が本当は人間だから大丈夫だったのかしら? でも、この姿になってから身体機能は完全に猫になったのに、食べ物だけは大丈夫、なんてことがあるかしら……?)
リリルーシア自身も、この事態に首を傾げる。そもそも猫になること自体が普通の状態ではないが、自分の体に何が起こっているのか分からず腑に落ちない思いだった。
「まあ、リリルが無事なら何でもいいが……」
ホッと息を吐いたジェラルド。しかし……
「ニャニャッ!(何これ苦い!)」
獣医に飲まされた薬の苦さに、リリルーシアが悲鳴を上げた時だった。
リリルーシアの体が青い光を放ち、すぐに元に戻った。リリルーシアは自分の体に起きたことに気付いていないのか、薬の苦さに前足で口を洗っていた。
苦さに口元を気にする素振りを見せるが、リリルーシアに薬の効果は全く見られなかった。
「これは……!」
「なんだ!? 今度はどうしたと言うのだ!?」
焦ったような獣医の様子に、ジェラルドは気が気ではなかった。目に入れても痛くはないほどに溺愛している愛猫に、いったい何が起こっているのか。
王太子に詰め寄られた獣医は、驚愕の表情を浮かべながらも見解を述べる。
「それが、どうやら薬が無効化されたようなのです」
「何だと!?」
「薬とは毒にもなるものですからね……。もしやこのお猫様は、異能をお持ちなのでは?」
「異能?」
「猫にとってチョコレートは毒。そして。この薬もまた、作用としては嘔吐を誘発する毒です。このお猫様には毒を浄化する異能があるのかもしれません」
それを聞いたジェラルドは、目を白黒させて愛する愛猫を見た。
「毒を浄化だって……?」
勿論、リリルーシアにはそんな能力に心当たりがない。ジェラルドに呆然と見つめられながらも、リリルーシアもまた、獣医の言葉に呆然としていた。
(どういうこと……? 私にそんな力があるの?)
「あの……失礼ですが、こちらのお猫様は、元人間……というようなことはありませんよね?」
獣医が王太子の顔色を窺いながら、おずおずと口にしたその言葉に、ジェラルドとリリルーシアはそれぞれ飛び上がった。
「何を言っている? そんなこと、あるわけないだろう!」
全力で否定するジェラルド。
(なんでそのことを知ってるの!?)
言い当てられて驚愕するリリルーシア。
「いえ、実は……私の師から聞いたことがあったのです。その昔、呪いで動物の姿に変えられた元人間の犬を診察したことがあったとかで。その犬には異能が発現していたと。魔法や呪いの話ですので、どこまでが本当か定かではありませんが……」
それを聞いたリリルーシアは、ハッと顔を上げた。間違いなくリリルーシアは元人間だ。獣医の話に充分当て嵌まっている。
異能……あのラピスラズリの呪いが、ただの呪いではなく、動物の姿にすることで異能を授けるものだったとしたら?
(私に毒を浄化する力があるのなら……)
「にゃーう!」
リリルーシアは、尻尾をピンと立てて戸惑い続けるジェラルドを見上げた。
「リリル?」
何よりも溺愛する愛猫に異能と元人間疑惑まで浮上したジェラルドだが、リリルーシアが何かを訴えて鳴けば、応えるように膝を折ってリリルーシアに目線を合わせた。
「ニャニャ、にゃ」
ジェラルドに向けて何かを訴えるようなリリルーシアは、台から飛び降りてジェラルドの足元にすり寄り、扉の方へ向かった。
「リリル……どこかに行きたいのか?」
リリルーシアの意図を理解してくれたジェラルドは、普段は自室とその隣の書斎までしか行かせない愛猫を、廊下に出してやった。
キョロキョロと周囲を見渡したリリルーシアは、窓から見た景色でだいたいの城の位置を把握していたが、迷いながら慎重にぽてぽてと肉球を進めていく。
「殿下、お猫様はいったい何処に向かわれてるんです?」
「分からない……が、いざとなったら鈴がある。とにかく今は、やりたいようにやらせてやろう」
ぽてぽてと進んでは、後ろを振り返ってジェラルドを見上げるリリルーシア。ついて来てと言われてる気がして満更でもないジェラルドは、まだ混乱が抜けきらないながらもリリルーシアの後をついて行った。
時に迷いつつ、あちこちの匂いを嗅ぎながら進むリリルーシアを見ていたジェラルドは、あることに気付いてハッとした。
リリルーシアの向かう先に、心当たりがあったからだ。
「まさか……リリル、お前。エリザベスの元に行くつもりか?」
ジェラルドの驚きを含んだその声を聞いたリリルーシアは、振り返ってジェラルドの足に頭を擦り付けた。
「にゃう、にゃっ!(そうよ、連れて行って!)」
毒を浄化する異能の話をしていた途端、エリザベスのいる方向へ向かい出したリリルーシア。まるで人間の言葉を理解しているかのようなその行動に疑問を抱きながら。
それでもジェラルドは、リリルーシアの思いを汲み取って愛する愛猫を抱き上げた。
「あの、殿下……この猫は?」
「責任は私が取る」
王女エリザベスの眠る部屋に猫を連れ込んだ王太子ジェラルド。医師に訝しげな目を向けられながらも、ジェラルドは妹のベッドに愛猫を下ろした。
(エリザベス王女殿下……私に毒を浄化する力があるのなら、ナタリーサのせいで毒を飲んだあなたを救いたい……)
以前会った時は溌剌とした美しい印象のあった王女は、青白く痩せ細った顔で眠り続けている。その様に心を痛めながら、リリルーシアは何とか自分の力を引き出そうとした。
(ええっと、どうすればいいのかしら……?)
ここまで来てみたものの、何をどうすればいいのか分からないリリルーシア。取り敢えず、エリザベスを起こすように、その場で所謂〝ふみふみ〟をしてみた。
「くっ……!」
その仕草のあまりの愛らしさに、ジェラルドが盛大に打撃を喰らって崩れ落ちる。が、リリルーシアは至って真剣だった。
〝ふみふみ〟をしながら意識を集中させていくうちに、リリルーシアの体から伝わった何かが青い光となってエリザベスを包み込む。
光が収まり、半信半疑で王女の体を診察した医師は、驚きの表情で猫と王太子を見た。
「脈が……! 奇跡です。王女殿下に回復の兆しが見られます!」
「ああ、リリル……!」
ジェラルドは、一目散に愛する愛猫の元へ駆け寄って抱き上げた。
「やっぱりお前は俺の天使だ!」
ぎゅっと抱き締められたリリルーシアは、すっかり慣れてしまったジェラルドの腕の中で、安堵の溜息を吐いたのだった。
それからリリルーシアは、毎日ジェラルドと共にエリザベスの元に通った。リリルーシアの力が弱いのか、時間の経った毒がなかなか抜けないのか、エリザベスがすぐに目を覚ますことはなかったが、リリルーシアが毎日力を使うことで、エリザベスは確実に回復に向かっていた。
ジェラルドがリリルーシアを大切そうに抱きながら、妹の元へ見舞う姿はあちこちで目撃され、〝王太子殿下の愛猫〟はすっかり有名になった。
エリザベスの治療を続けながら、リリルーシアは王女が目覚めた後のことを考える。
エリザベス王女は、自分に毒を盛ったのがナタリーサだと知っているはず。
このままエリザベスが目覚めてくれれば、リリルーシアの冤罪が晴れるかもしれない。
そうすればリリルーシアの呪いが解けて人間に戻っても、処刑を免れる。ナタリーサは捕まるだろうが、あれだけ尽くした挙句に裏切られたのだ。リリルーシアがこれ以上妹に同情する必要はない。
このまま全てが上手くいく。そう希望を抱いた矢先のことだった。
リリルーシアの身に、とある事件が起こる。
リリルーシアはその夜、ジェラルドが留守にしている間にジェラルドの書斎で本棚を漁っていた。
基本的にジェラルドの寝室で生活しているリリルーシアだが、隣にある書斎にも出入りは許されている。猫の目では文字が読みづらいのだが、暇潰しに本を眺めるのがリリルーシアの日課だった。
そこでリリルーシアはふと、窓の外が明るいことに気が付く。
(今日は満月なのね)
何とは無しに、リリルーシアは窓辺に近寄った。綺麗な月に惹かれたというのもある。リリルーシアの真っ白な毛並みが、窓から差し込む月光に触れたその時だった。
「えっ……?」
リリルーシアの視線が急に高くなり、視界がクリアになる。何が起きたか分からず自分の体を見下ろしたリリルーシアは、悲鳴を上げそうになった。
「手が、ある……? 足も、モフモフじゃない……ッ!」
リリルーシアは、月光の下で人間の姿になっていた。
白い服は着ているが、足は裸足。リリルーシアが戸惑っていると……
「リリル?」
ガタン、と音がして、隣の寝室に帰って来たジェラルドがリリルーシアを呼ぶ声がする。
「リリル? どこだ? 寝ているのか?」
ガタ、ガタン、とリリルーシアを探す音。今リリルーシアが姿を見せれば、まずいことになる。下手をすれば捕まって、処刑されてしまうかもしれない。
リリルーシアは急いで辺りを見回すが、隠れる場所などなかった。
「リリル? リリルー?」
その間にも、ジェラルドの声は書斎に近付いてくる。そして扉が開くと、月の光を背にしたリリルーシアは、ジェラルドにその姿を見られてしまった。
「誰だ!?」
「きゃっ!?」
迫って来たジェラルドに押さえ付けられたリリルーシアは、月の光の下で思い切りジェラルドと目が合う。
「お前は……! リリルーシア・キャタウォールか? 何故お前がここにいる!?」
「王太子、殿下……」
当然、指名手配されているリリルーシアの顔はジェラルドに知られていた。王太子に詰め寄られたリリルーシアは、もう何もかもがお終いだと目を閉じる。
これでは王太子の書斎に侵入した犯罪者も同然。言い訳のしようもない。このまま捕まって処刑される……
と、その時。リリルーシアの首元に着いたままの鈴が、チリリンと音を立てた。
その鈴を見下ろした王太子ジェラルドは、次第に驚愕の表情を浮かべてリリルーシアを見る。
「その鈴……どうして。まさか、……リリルなのか?」




