魔法の鈴
翌日、リリルーシアは、改めてこの状況を悲観していた。
「はあ……、リリル。俺の天使、お前が天使じゃなかったら、何が天使だと言うのだろうか。世界一愛らしい。可愛い。お前より愛おしいものがこの世にあるだろうか。いや、あるはずなどない」
「…………」
毎時間、毎分、毎秒。リリルーシアは目が覚めてから、信じられないほど歯が浮くような言葉を投げかけられ続けているのだ。
気が滅入るどころの騒ぎではない。頭がおかしくなりそうだ。下手をすれば羞恥で死んでしまうかもしれない。
少し気を許して近付いたのが間違いだった。我が国の王太子殿下は冷静沈着な美貌の王太子……という噂は何だったのだろうか。
一晩で自分の置かれた状況をある程度理解したリリルーシアは、改めて自分の立場を思い返した。妹のせいで猫になったリリルーシアは、どうやらこの王太子に保護されたらしい。
しかしそのせいで、人間のリリルーシアは事件の重要参考人でありながら失踪したとされ、ナタリーサの証言により犯人扱いされてしまっている。
指名手配までされたリリルーシアは、今更姿を現し身の潔白を訴えたところで、誰にも信じてもらえず処刑されるだろう。しかしこの呪いがいつまで続くのか分からない。妙なタイミングで元の姿に戻ったりしたら……
「今度は考え事でもしてるのか? 目をキョロキョロ動かして、頭の先から尻尾の先まで最高に可愛すぎる」
考えをまとめる間にも、リリルーシアを見つめ続けるジェラルドの口から吐き出される甘ったるい賛辞は止まることを知らなかった。
目の前にいるのは猫好きを通り越した猫狂いの青年ではないか。リリルーシアは瑠璃色の目を眇めてジェラルドを睨む。
「ああっ! なんだその愛くるしい表情は、俺を殺す気なのか!?」
途端に撃ち抜かれたように身悶える王太子。
(その溺れるほどの狂愛に殺されそうなのはこっちだわ!)
リリルーシアが息をするだけで感動しているジェラルドを見て、リリルーシアは肉球で目と耳を塞ぎたくなった。
「まさか、王太子ともあろうお方が床で寝たんですか?」
ノックの後、呆れたように入って来たヘンリーは、地べたに座る王太子を見て深い溜息を吐いた。
「ヘンリー! ずっと様子を見ていたが、この子は人慣れしているようだ。そろそろケージから出してみてもいいだろうか?」
待ってましたとばかりに期待いっぱいの顔を側近に向けたジェラルドは、まるで犬のようだった。
ヘンリーの許しを待つ姿は、最早どちらが主人なのか分かったものではない。
呆れつつもリリルーシアの様子を観察したヘンリーは、持っていた荷物を置いてケージの前にやって来た。
「本当はもう少し様子を見たいところですが……確かに怯えている様子もありません。殿下も一晩ちゃんと我慢されたようですし、試しにケージを開けてみるのもいいかもしれませんね」
ヘンリーの手が、ケージの扉に掛けられる。
(今がチャンスよ……!)
ゲージの扉を開けられた瞬間、リリルーシアは脱兎の如く疾走した。このまま王太子の部屋にいるわけにはいかない。万が一この場で元の姿に戻ったら、その瞬間に捕らえられ下手すれば王女毒殺未遂犯として処刑されてしまう。そうでなくてもこの姿のままならそれはそれで、王太子の激重愛に押し潰されて窒息死する気がしてならない。
どちらにしろ、ここから逃げなければ。
「リリル!?」
しかし、リリルーシアの全力疾走は意味を為さなかった。
少しだけ開いた扉の隙間に飛び込もうとしたところで、首に着けられていた鈴がチリリンと鳴り、それを合図にしたかのようにリリルーシアの体はふわふわと宙に浮いたのだ。
(何よこれ……!?)
「にゃにゃっ!」
走っても走っても前に進まず、リリルーシアは忌々しげに四肢をバタつかせた。
「脱走防止の鈴を着けておいて良かった」
ふうっと息を吐いた王太子ジェラルドが、リリルーシアの首についた青い鈴を弾き、宙に浮いたままのリリルーシアをそっと抱き締める。
「ああ! やっと触れた! 俺のリリル、なんてモフモフなんだ!」
「うにゃ!?」
慌てたリリルーシアはジェラルドの腕の中から逃げたいが、浮力を失った体で地面に落ちるのに恐怖を感じた。結果として爪を立ててジェラルドに縋り付く形になったリリルーシア。
「うわぁ、いちいち可愛いことをしないでくれ。リリル、お前のことは俺が一生幸せにしてやるからな」
下手に動きようがなく、リリルーシアは仕方なくジェラルドの腕の中に収まった。意外なほどに居心地は悪くない。
(……下手に逃げるより、ここにいて情報を得る方が有意義じゃない。どっちみち、この鈴が着いてたら逃げられないみたいだもの)
諦めの境地で作戦を変更したリリルーシアは、顔を近付けてスリスリしようとするジェラルドを肉球で遠ざけながら今後のことを考えた。
(昨日の様子から、王太子は王女殿下の事件を捜査しているはず。何とか誘導して私の冤罪を晴らし、事件の真相を突き止めさせる方法はないかしら)
リリルーシアが考えを巡らせている間にも、ジェラルドの口からは可愛い愛らしい愛おしいと呪文のような愛の言葉が飛び出してくる。
(……どうせお世話になるのなら、ちょっとだけでも愛想を振り撒いた方がいいわよね)
猫になりきったリリルーシアは、突っぱねていた肉球を下ろし、至近距離の王太子の鼻先をペロリと舐めて媚を売った。
「ッ!? リリル、すまない! 我慢できない!」
その瞬間、リリルーシアは声にならない悲鳴を上げた。
(レディーの腹の肉を撫で回した挙句、顔を埋めて吸うだなんて!)
「にゃーーーーっ(いやーーーーっ)!」
前足でパンチを繰り出したリリルーシアは、その勢いで王太子の腕の中から抜け出し見事地面に着地する。
「うわ! リリル、完璧な猫パンチだ! 凄いぞ、ちゃんと爪を立てたんだな。俺の手の甲に可愛い引っ掻き傷が三本もできている。一直線で細くて繊細で、なんて芸術的な傷なんだ。一生このまま消えなければいいのに」
怖い。流石に怖い。リリルーシアは、うっとりと猫の爪痕に見惚れる王太子を見て身を引いた。
「なんだ、リリル。俺に怪我をさせてしまったこと、気にしているのか? 大丈夫だ、お前に付けられる傷ならどんなものでも愛しいから」
とてもとても爽やかな笑顔が、余計に怖い。
(この人、いったい何を言っているの……?)
リリルーシアは、二歩ほど近付けたつもりでいた王太子との心の距離を、三歩ほど下げることにした。
「こうなるのが分かっているから、国王陛下は殿下が猫を飼われるのを許可しなかったんですよ。そんなに愛が重くてどうするんですか」
「失敬な。今回は間違いなく父上の許可を頂いたぞ」
「それは……エリザベス様があのような状態になり、気落ちされている殿下をお慰めするためです」
ヘンリーのその言葉に、ジェラルドは白猫のお陰で少しだけ忘れられていた辛い現実を思い出して下を向く。しかし直ぐに気を取り直して愛らしい白猫を抱き寄せた。
「それでも許可は許可だ。この子は他の誰でもない俺だけのものだ」
「いえ、人慣れしてますし、迷い猫の可能性もあります。その場合、万が一飼い主が現れたら、お返ししなくてはなりません」
「嫌だ。絶対に嫌だ。リリルは俺のものだ。誰にも渡さない」
ぎゅうぎゅうに抱き着いてくる王太子を肉球で押し返しながら、リリルーシアは精一杯モフモフの前足を伸ばして距離を取った。
「はあ。動物を飼うと婚期を逃すと言うじゃありませんか。ただでさえ殿下は縁談を片っ端から破り捨てていらっしゃるというのに。それなのに猫に名前まで付けて……」
「可愛い名前だろう? リリーベル(スズラン)の間から現れたからリリルだ。瑠璃色の瞳にもよく合っている。我ながらいい名前だと思う。うん、可愛い」
「殿下、お願いですから外では正気に戻って下さいね。そんな子供みたいな態度で恥ずかしいとは思いませんか?」
(本当にそうよ。ヘンリーの言う通りだわ。こんなところ、他人に見せてはダメよ。かっこいい王太子のイメージが台無しだわ)
ジェラルドの容赦ない撫で回し攻撃を受けながらーーこれが存外気持ち良かったりするーー、リリルーシアは身内のようなことを思ったのだった。
「さて、現実逃避はこのくらいにして、報告を差し上げてもよろしいですか?」
「……ああ」
咳払いをしたヘンリーの声で、空気がピリリと緊張した。真面目な顔を取り戻したジェラルドが頷き、二人は向かい合って椅子に腰掛ける。
「調査の結果、王女殿下が残されたと見られるあの文字は、釧語の『不』、否定を表す言葉だそうです」
「否定……? ではエリザベスは、何かを否定するために薄れゆく意識の中あの文字を残したのか?」
真面目な話を始めた二人の間で、リリルーシアは王太子の膝の上に乗せられていた。
リリルーシアをここに乗せたのはジェラルドであり、落ちないように押さえられてはいるが、逃げられない程の拘束ではない。しかしリリルーシアは事件に関わる情報を得る為に、恥を偲んで王太子の膝の上に居座った。
「そのようです。王女殿下が残した事件の手掛かりが、否定の一字とは……困りましたね」
「ヘンリー。やはり、俺はどうもこの事件、何かがおかしい気がするんだが」
「と、言いますと?」
「……どう考えても、リリルーシア・キャタウォールがわざわざエリザベスの前で妹を毒殺しようとした理由が分からない。本当に犯人は彼女なのだろうか?」
(その通りよ、王太子殿下! 私には王女に会いに来た動機がないの!)
ジェラルドの膝の上で、リリルーシアは耳をピンと立てる。
「彼女が犯人だという根拠は、彼女の妹ナタリーサ・ポーパッズの証言のみ。その証言も俺からすれば信憑性に欠けるものだ。ショックのために記憶が曖昧だと言っておきながら、あまりにもエリザベスが毒を飲んだあたりの記憶は詳細過ぎる」
事件の調書を手に取ったジェラルドは、リリルーシアの淹れた茶でエリザベス王女が倒れる様を事細かに描写した、ナタリーサの証言に疑問を持っていた。
「ナタリーサ・ポーパッズ夫人は未来の公爵夫人であり、社交界の人気者ですからね。誰もが彼女の言葉を信じるでしょう。しかし……、確かに王女殿下の残されたこの〝否定〟を表す文字は気になります。一度固定概念を取り払って捜査にあたる必要がありそうです」
「直接ナタリーサ・ポーパッズに会って話を聞くことはできるか?」
「はい。直ぐに要請致します」
(決め付けや憶測で犯人にされたらどうしようと思っていたけれど、ちゃんと真相を追求してくれる人がいるのね! 流石は王太子殿下だわ、ちょっと猫が好き過ぎて残念なところがあるけれど、もしかしたら彼のお陰で私の冤罪が晴れるかもしれない……!)
リリルーシアは、ジェラルドの膝の上で彼を見直し、キラキラした瑠璃色の瞳を向けた。
「ん? どうしたリリル、そんなに可愛い顔をして……」
「それにしても殿下、今はエリザベス王女殿下の件で有耶無耶になってますが、殿下の急務は妃候補を一刻も早く見つけられることですよ」
ヘンリーのお小言を聞いたジェラルドは、とても嫌そうな顔をした。
「はあ……。人間の女は面倒臭い。俺はリリルと結婚したい」
「……また馬鹿げたことを……」
溜息を吐いたヘンリーを無視して、ジェラルドはリリルーシアを抱き寄せる。
「俺は本気だ。リリル。お前が人間だったらいいのにな」
静かに瞬きをしながら自分を見つめる王太子を見て、リリルーシアはパチパチと目を瞬かせた。
(私が人間で、それも妹を毒殺しようとしたかもしれない悪女だと知ったら……この人はどう思うのかしら)
何故だかリリルーシアは、チクリと胸が痛んだ気がした。