ケージ越しの猫
「というわけで、捜査の方は引き続き進めます。あの文字についても、分かり次第ご報告致します」
「ああ。宜しく頼む」
「……せめてこっちに体くらい向けたらどうなんですかね」
ヘンリーは呆れ果てていた。何故なら王太子の自室にはデカデカとしたケージが設置されており、そこに張り付いた王太子ジェラルドが、先程からずっとヘンリーに背を向けているからだ。
「少し待ってくれ。今、この子がこの小さな鼻で愛らしくスピスピと呼吸しているところを見てるんだ」
ケージの中に置かれたフカフカの猫用ベッドでぐっすりと眠り続ける白猫を、瞬きもせず熱心に見つめる王太子。
「…………そんなんだからいい縁談が無いんですよ」
「何か言ったか?」
「いいえ、いいえ! 何でもありません!」
考えてみればこの王太子は事件の調査確認をしてから、もう一度王女を見舞って戻って来たところなのだ。疲れているのだろうと、ヘンリーは思わず口から出たお小言を取り下げようとした。
「王太子が猫好きで何が悪い。俺だって猫を死ぬほど可愛がりたいし、それに甘い物も好きだ」
しかし、どうやらジェラルドの耳にはハッキリと届いてしまっていたようで、猫から目を離さずジェラルドは反論を口にする。溜息を吐いたヘンリーは、心得たように王太子の言葉に頷いた。
「ええ、ええ。殿下は何も悪くはありません。殿下の猫好きは少々、愛が重過ぎな気はしますが、悪いことではありません。また、殿下の甘党はドン引きするレベルですが、悪いことではありません」
「だろう? それを、イメージと違うだとか、私と猫のどっちが可愛いだとか。男のくせに甘い物が好きなんて変わってるとか。いちいち喚く女の気が知れない」
これまでに縁談で仕方なく会ってきた令嬢達から言われた言葉の数々を思い出して、ジェラルドは不満気に口を尖らせた。
普段はクールで物静かな王太子が、猫や甘味を前にした途端に目を輝かせて饒舌になるギャップは、王太子に対して完璧な王子像を抱く貴族の令嬢達に衝撃を与えた。
その衝撃と、自分を放って好きなものに夢中になる王太子に思わず否定的な言葉を吐いた途端、その令嬢はジェラルドの妃候補から外される。
それ程までにジェラルドは、自分の好きなものを否定されるのが嫌いなのだ。
そんな王太子を唯一理解してくれていた女性が、妹であるエリザベス王女だった。エリザベスは兄の意外過ぎる趣味を肯定し、猫や甘味の話を積極的に共有してくれていた。
『お兄様にはお兄様のことを理解して下さる女性を選んで欲しいわ。好きなものを好きと言えない人生なんて、とてもつまらないもの』
縁談相手を追い返したジェラルドに、そう言って微笑んだ妹の声が今でもジェラルドの耳に残っている。
『こうなったらお兄様の妃は私が見付けてあげるわ!』
最後に交わしたのさえも、そんな会話だった。猫を見つめながらジェラルドは静かに呟く。
「エリザベスは、目覚めるのだろうか……」
微睡の中で、リリルーシアは少しずつ意識が覚醒してくるのを感じていた。ずっと深い水の底にいるようだった頭の中が次第にクリアになってくる。
すると、何やら話し声が耳に入って来た。
「エリザベス王女殿下の為にも、必ず犯人を捕まえましょう」
(王女……エリザベス王女殿下? ……王女殿下はご無事なの?)
王女が血を吐く姿を思い出し、リリルーシアは気を失う直前の記憶を思い出し始めた。
「ああ、勿論だ。ヘンリー、お前も犯人はリリルーシア・キャタウォールだと思うのか?」
(私? 私がなに……?)
ピクリと耳を動かして、リリルーシアは覚醒しつつある意識を集中させた。
「状況からして間違いないでしょう。寧ろ、殿下は違うと思うのですか?」
「……断定するにはあまりにも早計過ぎる気がする。彼女がわざわざエリザベスの元に来た理由が分からないし、何より証拠となるものは彼女の妹であるナタリーサ・ポーパッズ夫人の言葉だけだ」
(ナタリーサ! ……あの子、とんでもないことをしてくれたわ!)
「そう言いましても……ポーパッズ夫人は評判の良い女性ですし、片やリリルーシア・キャタウォールは誰に聞いても眉を顰める悪女。どう考えても王女殿下に毒を盛った犯人はリリルーシア・キャタウォールでしょう。国王陛下もそうお考えだからこそ、あの悪女を指名手配したのです」
その言葉を聞いたリリルーシアは、むくりと顔を上げた。
(何ですって!? 私が犯人に仕立て上げられているの!? それも指名手配ですって!?)
驚きと怒りに目を開けたリリルーシアは、その瞬間。
ケージ越しに目を血走らせてこちらを凝視していた青年と目が合い、悲鳴を上げた。
「ニャーーッ」
しかし、リリルーシアの口から飛び出したのは、猫のような鳴き声だった。
「ああ、起きたのか! 驚く姿も可愛いな!」
満面の笑みの青年がケージに張り付く勢いで嬉しそうに声を上げたが、リリルーシアはそれどころではなかった。
立っているはずなのに、リリルーシアは四本足を地に着けている。視界が異様に低く、耳に飛び込んでくる音の何もかもが大きい。色んな匂いが鼻をつき、代わりに少しだけ視力が落ちた気がする。
(これは、何……? どうなっているの?)
自分の体を見下ろすと、白いモフモフが視界いっぱいに広がる。
「そりゃあ、あんな至近距離で見つめていたらこの猫もビックリするでしょうね」
(猫? 猫ですって……?)
「くっ……うぅ……辛い。本当に辛い。こんなに可愛い子が目の前にいるのに触れないだなんて! こんなの拷問だ!」
「駄目ですよー。人に慣れていない可能性がありますからね、慣れるまで適切な距離を保って下さい。引き離されたくなかったらちゃんと約束は守って下さいね」
「ああ、こんなに可愛い猫が俺の部屋にいるというのに! 撫で回したい。思い切り愛でたい。あのモフモフに顔を埋めてあっちもこっちも吸いたい」
「殿下、聞いてますかー?」
「この苦痛をどこにぶつけてくれよう……」
ふー、ふー、と荒い息を吐く青年にドン引きするリリルーシアは、毛を逆立ててケージの隅に後退った。
「ああ、どうかそんなに怯えないでくれ、俺の天使……」
「オホン。ジェラルド王太子殿下! そろそろ真面目な話をしましょう。猫ちゃんにも環境に慣れる時間が必要なはずです」
(何がどうなっているの……待って、ジェラルド王太子殿下ですって!? ここはじゃあ、王宮……? 私は、まさか捕まったの……?)
わけが分からず混乱するリリルーシアは、後退った拍子に何かを踏んだ。白くて長くてフサフサのそれは、どう見ても尻尾だった。
「ニャッ!?(痛いっ!?)」
踏んだ尻尾が痛い。つまり、この尻尾はリリルーシアの体の一部。先程から自分を〝猫〟と言う目の前の青年二人。
リリルーシアの脳裏に浮かんだのは、妹の言葉と例のラピスラズリだった。
ナタリーサは、あのラピスラズリには動物に変わる呪いが掛けられていると言っていなかったか。まさか、自分は本当に動物に……それも、猫になってしまったのか。
ピンク色の愛らしい肉球を見下ろして絶望するリリルーシアを他所に、リリルーシアの仕草にいちいち反応するジェラルドと、それに呆れて注意するヘンリーのすれ違い口論が暫く続いた。
ヘンリーが帰った後、二人(一人と一匹)になった室内では、警戒するリリルーシアに向けてジェラルドが静かに声を掛けていた。
「すまない、急にこんなところに連れて来て驚いただろう? お前にとってはいい迷惑かもしれないが、今日は色々あって心が沈んでいたから、俺はお前に出会えて少しだけ救われたんだ」
「……」
(それはまさか……エリザベス王女殿下のこと?)
ピクリと反応したリリルーシアは、少しだけ警戒を緩め王太子を見上げた。
「実は……俺の妹が毒に倒れ、もう二度と目を覚さないかも知れないんだ」
王女が目を覚さないかも知れないと聞いて、リリルーシアは、猫のままハッと息を呑んだ。
目の前の王太子の妹、エリザベス王女に毒を盛ったのは、リリルーシアの妹であるナタリーサ。
そしてリリルーシア自身も妹に裏切られてこんな姿になった挙句、ありもしない罪で指名手配までされている。
リリルーシアは王太子にほんの少しの親近感と共感、そして罪悪感を抱いた。
リリルーシアが緊張を解いたと悟った王太子ジェラルドは、懇願するような瞳を小さな白猫に向けた。
「実はまだ、倒れた妹のことを想うと心が痛くてどうしようもないんだ。できることなら……もっと近くに来て慰めてくれないか。なんて、身勝手で馬鹿げたことを言っているな、俺は」
「にゃー」
リリルーシアは、まだ慣れない四肢を動かして、ケージ越しに王太子の前に腰を下ろした。
「お前……」
王太子が猫好きとは知らなかったが、猫になった自分が近付くことで少しでも慰めになるならと。自分の妹のせいで妹が酷い目に遭わされた彼に、リリルーシアは少しでも何かをしたくて寄り添った。
「はあ……ハハッ」
顔を覆ってブルブルと身悶えていたジェラルドは、吹っ切れたように笑うとケージの横の床にゴロンと寝転がった。格子越しに、王太子の顔がリリルーシアの目の前に来る。
「ありがとう、お前は優しいな」
横を向いたジェラルドの瞳から、ポロリと零れ落ちた涙が重力に従って横に流れ落ちていく。
見てはいけないものを見てしまった気がしたリリルーシアは、そのままケージ越しに触れそうな距離で、まるで猫のように。猫らしく体を丸めてみたのだった。