王太子殿下の最愛様
「リリルーシア。これがあれば、お前を人間に戻せるかもしれない」
ジェラルドがウィリアムから譲り受けて来たラピスラズリを見て、リリルーシアは瑠璃色の瞳を見開いた。それは間違いなく、妹ナタリーサが手にしていたあの呪いのラピスラズリだった。
「なあ、リリル。このまま……俺の愛猫として暮らすのは嫌か?」
物悲しげな声を聞いて、リリルーシアはハッと考えてみる。このまま猫の姿で、ずっと猫としてジェラルドに愛されて過ごす。
それはそれで、幸福な生活かもしれない。何も考えず、誰にも後ろ指を差されることなく、重たい責任を背負うでもなく、ただただジェラルドの愛を一身に受けて庇護される暮らし。
(嫌ではないわ)
リリルーシアは、首を横に振った。
「じゃあ、このまま猫の姿でいるか?」
真剣に問い掛けられて、思いを巡らせるリリルーシア。ナタリーサのこと、父のこと、エリザベスのこと、そして目の前のジェラルドのこと……
暫く考えた後、結局リリルーシアは、再び首を横に振った。
「人間に戻りたいんだな?」
ゆっくりと瞬きをして、リリルーシアは頷いた。
「それは……弟の為か?」
このままナタリーサの罪が明るみになれば、ポーパッズ公爵家も、キャタウォール侯爵家も、無事では済まないだろう。ウィリアムも父も自業自得だが、弟のジョージだけは、出来ることなら助けてあげたい。
何も知らぬふりをして自分は幸せに過ごし、罪の無い弟を見捨てるなど、リリルーシアにはできなかった。
こくん、と小さく頷いたリリルーシアを見て、ジェラルドは一度目を閉じると、優しく微笑んだ。
「……分かった。俺も妹を持つ身として、お前の気持ちはよく分かるからな」
ラピスラズリはよく見るとロケットになっていたようで、ジェラルドはリリルーシアの目の前でそれを開けた。
「宮廷魔術師に調べさせたところ、ここに相手の髪の毛を入れてラピスラズリを向ければ術式が発動するらしい」
リリルーシアの顎を撫でたジェラルドは、改めて愛する愛猫に問い掛ける。
「ここに、猫になったお前の毛を入れたら、恐らくこの呪いは反転するだろう。人間に戻れても月に一度、満月の夜だけは猫の姿になる。それでもこの方法を使うか?」
こくんと頷くリリルーシア。それを見届けたジェラルドの手が、リリルーシアの鈴に触れた。
「これはもう必要なくなるな」
そうして、それを外そうとして手を止める。
「にゃ?」
「リリル。……最後に、抱き締めさせてくれないか」
ジェラルドの声は、震えていた。
リリルーシアが人間に戻れば、彼は溺愛する愛猫を失うのだ。
考えるよりも先に体が動いたリリルーシアは、ジェラルドの胸に飛び込んでぐりぐりと頭を押し付けた。大好きな温もりが、リリルーシアの体をぎゅっと包み込む。
(こんなふうに彼に抱き締めてもらえるのは、きっと最後ね)
リリルーシアは人間である。けれど、この瞬間だけは猫で良かったと思った。
感謝するフリをして、好きな人に思い切り甘えられたから。
その夜、ナタリーサは、王太子に王女の見舞を断られたウィリアムを唆して王宮に来ていた。
「宝石まで渡して馬鹿みたい。そんなことしなくても、公爵家にあった魔具を使えば簡単に忍び込めたじゃない」
ラピスラズリと一緒に保管されていた魔具を使って忍び込んだ二人は、手薄過ぎる王宮の警備に何の疑問も持たず、眠り続ける王女を見付けた。
「エリザベス!」
途端にエリザベスの元に駆け寄ろうとしたウィリアムは、次の瞬間腹部に痛みを感じて膝を突く。
何が起きたのかと振り返ったウィリアムが見たのは、血の付いたナイフを振り上げた妻だった。
「この女が目を覚ますと困るのよね。毒を盛ったのが私だってバレちゃうから」
「まさか、お前……」
「そうよ。犯人は私よ。ここでアンタ達を殺してあげる。アンタがエリザベスに熱を上げてるのは王太子も知っているもの。目覚めない王女を見たアンタがショックで心中したことにすれば全て解決するわ」
ナタリーサがナイフを振り上げると、恐怖からかウィリアムは泡を吹いて気を失った。自分はこんな間抜け男のどこが良かったのかと、呆れながらナイフを振り下ろそうとしたナタリーサ。しかし、その時だった。
「ナタリーサ・ポーパッズ。これはいったい、どういうことだ?」
そこに立っていたのは、王太子ジェラルドだった。
慌てたナタリーサは、急いでナイフを放り投げた。
「ち、違うんです! 私じゃない、これはお姉様の指示なの! お姉様はウィリアムと王女様を憎んでて……」
「と言っているが。リリルーシア、君はどう思う?」
王太子が後方に問い掛けると、コツコツと靴音を響かせて姿を現したのは、他でもないナタリーサの姉、リリルーシアだった。
「お姉様ッ!?」
「久しぶりね、ナタリーサ」
ナタリーサの驚愕の瞳が、リリルーシアに向けられる。厳しい表情のリリルーシアは、鏡のような瞳で妹を見ていた。
二人の後ろからヘンリーを始めとした兵が現れてナタリーサを取り囲む。
「お姉様はずっと私を虐げてきたんです! 今回も私に罪をなすり付けるつもりなんだわ!」
涙声で声高に叫ぶナタリーサ。
「罪をなすり付けてきたのは君だろう。リリルーシアが犯したとされる悪行について、その全てが妹である君の犯したものと特定された」
ジェラルドの合図でヘンリーが、侯爵家の使用人達の証言や、過去のナタリーサの悪事について調べた証拠をナタリーサに突き付けた。
「私からもよろしいかしら」
「!?」
目を開けて起き上がったエリザベスが、兄に並んで玲瓏な声を響かせる。突然起き上がった王女に、ナタリーサは驚いてヘナヘナと座り込んだ。
「ナタリーサの顔を見て、全てを思い出しましたわ。あの日、私に毒を盛ったのは間違いなくナタリーサ、貴女だわ」
「いや! 違う、私じゃない……私は可哀想なキズモノだから幸せにならなきゃいけないの! だから私じゃない!」
エリザベスの証言が決定打となり、ナタリーサは問答無用で兵に捕えられ連行された。
「ポーパッズ公爵家及び、ナタリーサの生家であるキャタウォール侯爵家は取り潰しとする」
ジェラルドから全てを聞かされた国王の決定は早かった。
「ナタリーサの実姉リリルーシアについては、侯爵家と縁を切っていることに加えて猫の姿になってまで王女の毒を浄化した功績を讃え、新たな姓フラフィテールと伯爵位を与えるものとする」
こうしてリリルーシアは、フラフィテール伯爵として弟の後見人になり、キャタウォールに仕えていた使用人達を丸ごと引き取った。
引き換えに爵位と財産を没収された父は、初めてリリルーシアに謝罪し助けを求めた。しかし、リリルーシアは平民が数年生きていけるだけの金を渡すと、絶縁を宣言し二度と父に会うことはなかった。
その後、ナタリーサは王族殺害未遂その他諸々の罪で斬首刑に処された。王女の寝室に無断侵入したウィリアムは一命を取り留めたが投獄され、ポーパッズ家とキャタウォール家は完全に没落したのだった。
「よく来たわね、リリルーシア」
「お招き頂きありがとうございます。エリザベス様、王太子殿下」
その日リリルーシアは、エリザベスに呼ばれて王宮に来ていた。設けられたお茶の席には、緊張しているようなジェラルドの姿。
その前のテーブルの上には、これでもかという程の甘味が並べられている。恐らく用意したのはヘンリーだろう。リリルーシアにはその光景が目に浮かぶようだった。
「あの日のやり直し……ではないけれど、貴女とはゆっくり話したかったの」
「光栄ですわ。私もエリザベス様とこうして再びお茶ができて、本当に嬉しいです」
微笑むリリルーシアを見て、何かを言い出そうとしたジェラルドだったが、その度にエリザベスが二人の間に割り込んできた。
「ねえ、リリルーシア。貴女、これから伯爵として過ごすのでしょう? ジョージも養っていかなきゃでしょうし、色々と大変ね」
「そうなのです。それに、例の呪いのせいで満月の度に月光を浴びると猫になってしまいますもの。このような体では、いい縁談もありません」
リリルーシアの口から出た縁談という言葉に、ジェラルドがピクリと反応した。
「あら。縁談だなんて。婿でも取るつもりなの?」
楽しそうなエリザベスが問い掛けると、再びピクピクと反応するジェラルド。
「いえ。私は弟のジョージが成人したら、弟に爵位を譲るつもりです。そうすると嫁ぎ先を今から考えておかないと。エリザベス様。以前お約束した、嫁探しをされている殿方をご紹介頂く話、まだ有効でしょうか?」
エリザベスは、チラリと横目で兄を見てからニッコリと微笑む。
「勿論よ! まだまだ相手が見つかりそうにないもの。ちょうど良かったわ」
「待て、紹介とはなんだ? エリザベス、リリルーシアに男を紹介するつもりか!?」
慌てたジェラルドが、焦ったように妹に声を掛ける。
「確かそのお方は、猫好きだと伺いましたわね。他にはどんなものがお好きなのです?」
しかし、そんなジェラルドを無視してリリルーシアはエリザベスに話の続きを促した。
「そうね。とにかく甘党よ。あと、お忙しい仕事をなさっているわ」
エリザベスもまた、思わず立ち上がっている兄のことなど眼中にないかのように、笑顔でリリルーシアに答えた。
「私もチョコレートには目がないので甘党な方なら気が合いそうですわ。お仕事のことも、弟に爵位を譲り渡した後なら私もお役に立てるかもしれません」
「あらあら、ピッタリね。あとはそうね。妹離れできない面も持ち合わせていらっしゃるわね。それから普段は完璧な紳士なのだけれど、猫を前にした時の残念具合が酷い人なの」
リリルーシアの縁談話にソワソワと落ち着かなかったジェラルドは、そこまで聞いてまさかと動きを止めた。
「おい……それって」
「あら。奇遇ですわね。私、誰かのお陰でそういうのにはとてもとても慣れておりますの。ですから少しも気になりません。寧ろ、そんなお方なら、月に一度猫になってしまう私をこれでもかと溺愛してくれそうですわね。是非その猫好きで甘党な殿方をご紹介頂きたいですわ」
クスクスと楽しそうに笑うリリルーシアとエリザベス。間に挟まり惚けるジェラルドへ、エリザベスが意味深な視線を向けた。
「ですってよ、お兄様。如何かしら?」
「…………はぁ」
両手で顔を覆ったジェラルドは、小さな声で『焦った』と呟くと脱力した。
「まったく。二人揃って俺を弄んで楽しいか?」
「何のことでしょう? 私が猫だった時、私を散々弄ばれたのは殿下でしょうに」
「言ったでしょ。私がお兄様の妃候補を探してあげるって」
好きな相手と妹から揶揄うような笑顔を向けられたジェラルドは立ち上がり、何度もシミュレーションした通りにリリルーシアの前に跪いた。
「俺が一生、お前を幸せにする。だからリリルーシア。俺と結婚してくれ」
そう言ってジェラルドが差し出したのは、指輪ではなく鈴だった。
「お兄様……」
「鈴は駄目だとあれほど言ったのに……」
王太子の残念な求婚を目撃した王女とヘンリーは、頭を抱え溜息を吐いた。
しかし、当のリリルーシアは、差し出された鈴に手を重ねる。
「……猫ではない私でもよろしいの?」
肉球でもモフモフでもない、その滑らかな指先を包み込んだジェラルドは、何よりも愛おしい瑠璃色を見上げて微笑んだ。
「関係ない。猫だろうと、人間だろうと。俺が愛しているのはリリル、お前だけだ。お前と離れて過ごす日々がどれだけ虚しく辛いことか……頼むから俺の元に戻って来てくれ、世界一可愛い俺の天使」
相変わらず残念な王太子。しかし、この男の死ぬほど重い溺愛に毒されてしまったリリルーシアは、この甘い誘惑を断ることなどできなかった。
「殿下の溺愛を受け止められるのは、猫でも人間でも、私くらいですわ」
そう言って笑うと猫のように、リリルーシアは慣れ親しんだその腕の中に飛び込んだのだった。
呪いで猫にされた悪女、王太子に拾われる。 完
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