悪女の噂
「リリル、朝だよ」
春の木漏れ日のように優しく温かい声音。リリルーシアの朝は、この声の主に揺り起こされることから始まる。
「そろそろ起きてくれ、俺の天使」
ふわふわのシーツに清々しい香り。リリルーシアの体をすっぽりと包み込むような温かく狭いその場所で、ふにゃあっと伸びをしたリリルーシアは、伸ばした手の先が何かに当たったのに気付き、眠たい目をパチパチと瞬かせた。
「ふふ、リリル。擽ったいよ」
手から伝わる振動と、蜂蜜みたいに甘い笑い声。覚醒しつつある視界いっぱいに映る、キラキラした笑顔。微睡むリリルーシアの額から頭の後ろ側までを、大きな手がくりんと撫でていく。
「ああ、俺のリリル。今日もなんて可愛いんだ。朝からお前の肉球に触れられて、幸せでどうにかなりそうだ」
「……にゃ?」
『なに?』と言ったつもりのリリルーシアの口から出たのは、寝惚けた仔猫のような鳴き声だった。
そんなリリルーシアに構うわけでもなく、目の前のキラキラした顔面の持ち主は、その頰に乗せられた猫の前足を引き寄せて、プニプニなピンク色の肉球に口付けた。
「ニャッ!?」
手のひらに伝わったリアルな感触に驚いたリリルーシアが手を引っ込める。一気に目の覚めたリリルーシアは、今の状況を正確に思い出して目を見開いた。
「シャーーッ!」
温かくていい匂いがして心地好かったその場所ーー王太子の腕の中ーーから飛び出した白猫姿のリリルーシアは、王太子のベッドの上でシーツに足を取られながら、精一杯の威嚇の声を上げる。
「ああ、残念だな。眠っている時のお前は大人しくて素直なのに。でも、威嚇した時に見えるその小さな牙も可愛くて愛おしいよ」
リリルーシアの睨みなどなんのその。目尻をこれでもかと下げた王太子ジェラルドは、気持ちのいい朝にピッタリの爽やかな笑顔を愛猫へと向けた。
「さて、俺のお姫様。今日も存分にお前を愛でさせてくれ」
耳と尻尾を下げたリリルーシアが後退った拍子に、リリルーシアの首に着けられた首輪の鈴がチリリンと鳴る。この魔法の鈴のせいで王太子から逃げることができないリリルーシアは、心底恨めしそうに美貌の王太子を睨み上げるのだった。
侯爵令嬢リリルーシア・キャタウォールは王国一の悪女である。
リリルーシアが悪女と呼ばれる所以は、何と言っても彼女の傍若無人で傲慢な態度の数々と、リリルーシアの妹であるナタリーサ・キャタウォールへの陰湿な虐めが挙げられた。
ナタリーサはその昔、姉であるリリルーシアのせいで大怪我を負い、今でもその時の傷跡が額に残されているという。
貴族令嬢として、顔に傷があるというのは致命的な欠点であり、妹をそんな状態に陥れただけでもリリルーシアは非難を浴びた。しかし、リリルーシアの悪行はそれだけで終わりではなかった。
傲慢なリリルーシアは、自分のせいで傷を負った妹に向けて罵詈雑言を吐き、嫌がらせの数々を尽くして虐げたのだ。
それを見た周囲の貴族達は、当然妹のナタリーサに同情した。傍若無人で暴れん坊、常に傲慢な態度で何かと問題を起こすリリルーシアとは違い、ナタリーサは無邪気で奥ゆかしく清廉だった。
姉妹の父であるキャタウォール侯爵は問題児のリリルーシアに散々手を焼き、次第に傷物だったナタリーサを贔屓するようになる。
そうしていつの間にか、姉のリリルーシアは傍若無人な悪女として人々に嫌われ、妹のナタリーサは可哀想な心優しい令嬢として人々に愛されるようになっていった。
そんな中、キャタウォール姉妹の間にとある事件が起こる。
なんと姉のリリルーシアの婚約者、公爵家の跡取りとなることが決まっているウィリアム・ポーパッズが、リリルーシアとの婚約を破棄してナタリーサを娶ると言い出したのだ。
社交界はこのスキャンダルに大いに沸いた。
悪女の姉を捨て、傷はあっても心優しい妹を選んだウィリアム。この美談は瞬く間に王都を駆け巡り、ウィリアムとナタリーサは人々の祝福の中で結婚した。
当然ながら、邪魔者だった悪女のリリルーシアは嘲笑された。
傍若無人で傲慢に悪行を尽くした結果、虐げていた妹に婚約者を奪われた悪女。噂好きの貴族達はこぞってリリルーシアを貶し、社交の場で笑い者にした。
しかし、悪女リリルーシアの蛮行はこれだけで終わりではなかった。
執念深い悪女リリルーシアは、婚約者だったウィリアムを奪って妻となった妹、ナタリーサを毒殺しようとしたのだ。
この毒殺未遂は、別の恐ろしい事件に発展してしまう。
事件の際にリリルーシアとナタリーサ姉妹が訪れていたのは、なんと王宮。それも、エリザベス王女の元だった。三人でお茶をしていた際に、無謀にも王女の目前で妹の毒殺を決行しようとした悪女リリルーシアは、手違いで最悪の事態を引き起こした。
リリルーシアが毒を入れた茶を、誤ってエリザベス王女が口にしてしまったのだ。
毒を飲んで倒れた王女は危篤状態、ショックを受けたナタリーサは悲鳴を上げた後に気を失い、悪女リリルーシアはそのまま王宮から逃亡して姿を消した。
状況とナタリーサの証言から犯人と推測された悪女リリルーシアは、その日のうちに王女暗殺未遂犯として国中で指名手配をされたのだった。