過去、リーゼロッテのハンカチ
ほんの少しの後、神殿から転げ出るようにして出てきたユリアーナは遠くの空を飛び去っていくドラゴンの姿を見つめ続け……。そして、ぎゅっと瞳を閉じると深々とその頭を下げた。
「……リーゼロッテ様」
こんなことになる以前。元々、ユリアーナはリーゼロッテに憧れを抱いていたのだ。夜会で、王家主催の茶会で。ユリアーナの目はいつもリーゼロッテを追っていた。
気弱で、着ているドレスも地味なものばかりで。いつも壁の花のようにぽつんと一人で佇んでいるだけだったユリアーナ。
そんなユリアーナは当然のように、他の高慢な貴族の令嬢たちの嘲笑の的となっていた。肩を震わせ耐えるだけのユリアーナを、ただ一度だけ、リーゼロッテが庇ったことがあった。
「まあ、貴女たち、王妃様のお茶会で何をなさっているの?一人のご令嬢を大勢で囲むなんて、淑女として如何かと思うわよ?」
侯爵家のリーゼロッテと分かると、ユリアーナを苛めていた令嬢たちは、引きつった笑みを浮かべてそそくさと逃げた。
「ほら、貴女も。何時までもお泣きにならないで?」
そうしてリーゼロッテから「使え」と差し出されたハンカチ。それで、涙を拭くことなく、ユリアーナはただただリーゼロッテのハンカチを握りしめ続けた。
皴になってしまったハンカチはきれいに洗った。そしてこのハンカチをリーゼロッテに返却しようとユリアーナはそれからいくつかの夜会に参加した。
が、大勢に取り囲まれて談笑しているリーゼロッテに声など掛けられず、すごすごと引き返す……その繰り返しだった。
(もう……ハンカチのことなどリーゼロッテ様はお忘れよね……)
それでも、声など掛けられずとも、ユリアーナはリーゼロッテの姿を一目で見ようと、開催される夜会や茶会に参加し続けた。
それを、王太子たるジェレミーに誤解されることなど知らず。
「やあ、よく目が合うね君とは」
初めてジェレミーから声をかけられた時、ユリアーナは何を言われているのか全く分からなかった。
ユリアーナが見ていたのはリーゼロッテであり、その隣に立って不貞腐れていたジェレミーなど全く眼中になかった。
だが……ジェレミーは『気弱な女性が秘めた恋心をもって自分を見つめている』と勘違いしたのだ。
そこからのことは、ユリアーナは思い出したくもない。記憶を削除してしまいたいほどの苦痛の繰り返し。
王太子からの個人的な茶話会……と称して、ユリアーナ一人だけがジェレミーに呼びつけられた。観劇などにも連れていかれた。花やドレス、たくさんの宝石も贈られた。
それまでユリアーナを嘲笑してきた貴族の令嬢たちからは嘲笑を受けることはなくなった。が、代わりに「リーゼロッテ様の婚約者である王太子を誘惑する悪女」と言われ、陰湿な虐めを受けた。
両親に相談したが、「愛人だろうがたった一度のお手付きだろうが王太子殿下のお相手を務められるとは何たる幸運っ!」と、ユリアーナの苦悩など見向きもしなかった。見向きしないどころではなく、寧ろ、ジェレミーにすり寄って行った。
そしてある夜。ユリアーナの部屋にジェレミーがやって来た。
拒絶は、不可能だった。
ユリアーナは悲鳴さえ上げられず、胸の中で繰り返した。
(リーゼロッテ様リーゼロッテ様リーゼロッテ様っ!たすけて……、お願いどうか、もう一度だけお助け下さいっ!)
その胸の中の声は、当然リーゼロッテには届かない。
更にユリアーナの悪夢は一度では終わらなかった。日を置かずして、繰り返しユリアーナの寝室を訪れてくるジェレミー。疲弊し、もう何も考えられなくなった頃、妊娠が発覚した。