プロローグ 特定しちゃった?
思いついたのでいけるところまでいってみます。
高校二年生。
一生に一度の青春時代が山場に差し掛かるのはこの辺りではなかろうか。
そして今、雨宮渚一六歳はある種の岐路に足を踏み入れようとしていた。
「大丈夫だ私、落ち着け……」
約束の空き教室への道のりは短いようで長いようでどうにかなりそうだった。早くそこへ辿り着きたい。だけどまだもう少し待ってほしい。気持ちの整理をつけたい。
そんな思いからか、言い訳がましく水道の鏡の前で前髪をいじくってすでに数刻が経っていた。
前髪の手入れが終わり、そして上気した自らの頬に意識が向いてさらに熱が全身を回っていく。今更になって自分の顔が変ではないかなどと、どうしようもないことにまで考えを巡らせてしまう。
考えを切りかえようと深呼吸し、両手で頬を軽く叩いた。
「今さら何を思ってもダメだ」
そう呟いた自分の顔はいつもよりも何十倍にも頼もしく見えた。どうやら覚悟は決まったらしい。
再出発だ。もう止まったりはしない。彼に想いを伝えるまでは。
不思議だ。いつもより世界が鮮明に見えた。自らの足音、校庭で部活動に励む他の学生の掛け声、窓から窓へと吹き抜けていく風、夕陽によってオレンジ色に染まる校舎。それらすべてが感覚器官を通して克明に現れてくる。
勇気というものを今初めて知った気がした。
たかが一歩、されど一歩。それは刻々と絶え間なく時の流れを示す時計のように、確実に目的地へと渚を運んでいった。
彼が待つ空き教室の扉は目前に控えている。それは重々しい鉄扉のようで、されど耽美な栄光を掴みたいなら、開くしかない。
引き戸の取っ手に伸びる手はいつの間にか震えていた。
ああ、やっぱり怖い。思いが受け入れられるにせよ、枕を濡らすことになるにせよ、他人に飾らぬ気持ちを打ち明けるのはやはり怖い。世に蔓延る恋人たちはどうなっているのだろう。皆この試練を突破してきた勇者なのだろうか。もう彼らを素直に羨む気は起こらなかった。
何にせよ、彼女は土壇場になって小さな勇気を後押ししてくれる存在を求めた。ポケットから徐にスマートフォンを取り出し、SNSに飛びついた。
彼女には普段から心の支えにしている存在があった。バーチャルライバーのアキラである。本名も顔も出さずに動くイラストと声だけで人を惹きつける活動者。名の知れない時からずっと応援し続けていた。彼女もまた、彼の何気ない言動に癒されたり、心を動かされたりしたこともあった。
今一度、背中を押してほしい。いつもこの辺りの時間に呟いているはずだ。渚の予想通り、写真付きの呟きが三十秒ほど前に投稿されていた。
――この夕陽めっちゃ綺麗じゃね! 明日は腫れな気がする!
小さな誤字にクスリと笑いが漏れる。反射的にいいねとリツイート。ちょっぴり抜けた文面に反して、画像の夕陽は見事なものだった。オレンジ色の光を湛える雲に、青から赤へのグラデーションを映し出す一面の空。希望をくれるようだった。
勇気は自前で用意した。アキラは道を照らしだすような希望を差し出してくれた。恐れるものは何もない。
ガラガラと音を立てて扉を開け、力強い一歩を踏み出した。
「ごめん。ま、待たせちゃったかな……?」
「いや、そんなに待ってないです。私に何か用事があるんですよね、あまり表では口に出せないような」
穏やかな声だった。
丁寧すぎて他人行儀とも取れる口ぶりに気圧されて、今にも逃げ出してしまいたい衝動に駆られる。だけど理性で押さえつけた。当たり前だ、同じクラスにいながらも、あまり関わりを持っていなかったのだから。
「話したいことがあるの。びっくりさせちゃうかもしれないし、長くなるかもしれないけれど、いい……?」
「大丈夫です」
「うん」
秋山冴という、メガネが特徴のクラスメート。いつも人と交わらずに物静かに過ごしている、言ってしまえば誰の目にも留まらないような人だ。だが、よくよく観察してみると表情豊かで、眺めることが日課となり、気づいた時には目で追わずには居られなくなっていた。
彼のことをもっと知りたいと思った。だから伝えたい。だけど言葉が出てこない。
よく見ると、彼も普段より表情が幾分か硬くなっている気がした。緊張しているのは自分だけではないと思うと安心すると同時に、これから起こることにある程度予想がついているのだろうと考えられてしまい、恥ずかしさが上回る。
「あの、あのね……!」
沈黙の中、視線だけが泳ぐ。さっきまで悟ったような心境だったのに、そんな心地はまるでしなかった。世界の全てがなくなって、この教室の中に二人だけ取り残されてしまったかのような錯覚さえ覚えてしまう。
「ずっと前から、わた、私は、あ、あきやま君を……」
直接目を合わせられない。
だけど真っすぐ届けたい!
きっとその意志だけで人は前に進むことができる。
燃え上がるような夕景を背面に佇む少年を見据えた。きっと自分の顔はもっと赤く色づいていることだろうと思いながら。
しかしその瞬間、妙な違和感が渚の脳裏を掠めていく。
「あれ……、ゆうやけ……」
そうあのオレンジ色の空だ。無意識のうちに口を突いて出た呟きが彼女の確信をより深めることとなる。
「綺麗ですよね、私もさっき感心して一枚撮っちゃいました。夕焼けが見られる時間は短いですから写真を取るなら早くした方が良いですよ」
「あ、ああ、はい……」
ぷっつりと緊張の糸が途切れて放心状態になっていたためか、促されるままにスマホを取り出してパシャリ。
とてもよく写っている。恐らく今まで自分で撮ったどの写真よりも綺麗だろう。
それからなぜか他愛のない雑談をしてライヌを交換してお開きとなった。
「あれ?」
家に帰って自室に戻った。頭の中は散らかったままだが、ライヌを交換したというのは進展だった。というか、よくよく考えてみると、よく連絡先も知らない相手に告白しようとしていたものである。
だが、重要なのはそこじゃない。
リュックも下ろさないで立ち尽くしたまま、渚はスマホの画面に指を滑らせる。自分で撮影したものと、アキラによってトゥイラーに投稿されたもの、それら二つを交互に見比べる。
アングルなどに多少違いはあるものの、雲の形や色づき具合、空のグラデーションに大きな違いはなかった。
一つの結論が渚の中で実を結ぶ。
二つの写真はほぼ同時に同じ場所で撮影されたものだ。それが意味することはただ一つ。
渚が愛するバーチャルラーバーのアキラの正体は、彼女が密かに思いを寄せる少年である秋山冴その人である。
「特定、してしまった……」
ようやく現実に思考が追いついてきたのだろう。うっかり神域に入り込んでしまったことに今更気づいたかのように、表情が深刻そうな色を帯び始める。
「私が好きなあの人は推しだった――ッ⁉」
これは運命の戯れか。普通に恋するはずだった女子高校生の青春はあらぬ方向に脱線し始めるのだった。