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第九十四話

 聞こえてきたその優しげな声は、再度念を押すように駄目だよと声を掛けルイーナの左手を掴み自身へと引き寄せた。

ズルリと漆黒から引き摺り出されたルイーナの瞳は未だ光はなく虚空を見詰め、彼の体から引き離された漆黒の手は尚もルイーナへと伸ばされる。

『この子はキミ達にはあげれないよ』

そう声の主が言うと暫くの間その場で蠢いていた手は、諦めたのかスルスルと暗闇に中に溶け込むように消えていった。

 あぁ、何故邪魔をするんだ。

あのままなら、何も考えなくてすむのに。

この痛みと苦しみから開放されて、眠ることが出来たのに。

何で、なんで邪魔をしたんだよ。

『危なかったぁ…、それで?もう諦めちゃうの?』

諦めるって、何を?

もう何も思い出せないんだ。

今はただ、早くこの苦しみから開放されたくて仕方がないんだ。

『本当に何も思い出せない?』

思い出せない。思い出せないんだよ。

 考えようとすれば息苦しくなって、体が引き裂かれるような痛みに襲われるんだ。

自分ではどうすることも出来ないソレ。

痛い、いたい、イタイ………怖くてたまらない。

理解できないものほど恐怖を湧き立てるものは無いだろう。

『皆の声が聴こえないの?』

………さっきから何なんだよ。

この暗闇の中で声なんて聴こえてこないだろう。

俺と、誰か知らないけどアンタの声しかここには無いじゃないか。

皆って誰だよ。誰なんだよ……。

『聴こえないのは貴方が聴こうとしないからだよ。

だって僕には聴こえているもの。

ほら、ちゃんと耳を済ませて。彼らと貴方と僕の家族を信じて?』

 動くこともままならない体を支えられながら、促すように導くように囁かれた言葉は不思議とスルリと入ってくる。

あれほどまで荒れていたのが嘘のように落ち着いた思考の中、声の主の指示に従い目を閉じて耳を澄ます。

 そうすれば、今まで何も聴こえていなかった耳に声が聴こえてきた。

『兄様……』

 それは子供の声だった。

『見てください兄様、今日は父様と一緒に王都に行ってこんなに素敵な花を貰ったんです。

…………あの時、兄様に助けてもらったご夫妻が直接伺うことはできないのでせめてもの感謝の印にだそうですよ』

 この子供の言う兄とは、自分の事なのだろうか。

何故そんなに苦しそうな声で話すのか不思議だった。

『兄様に感謝している人は大勢います。みんな、兄様が早く良くなるようにって………』

『兄様は、やっぱり何処に行っても兄様なんですね』

なぁ、俺はキミが誰か分からない。でもどうしてか今すぐ抱き締めたいって思うんだ。

『最近、姉様が沢山のケーキやクッキーを作るんです。

皆で食べるんですけど全然減らなくて、兄様の分なんて山のように積まれてますよ。

だから、だから…………早く起きてよ……』

 泣かないで……。

そう言いたくても言葉が声にならない。

今すぐ駆け寄って抱き締めてごめんと謝りたい。

大丈夫だと、ただいまと言葉を返したい。

『嫌いなんて、嘘ですよ……。大嫌いなんて嘘です。

大好き、大好きです。いつも僕達に笑いかけてくれて優しい兄様が大好きですっ……!!』

 俺は、俺はきっとキミを知っている。

覚えていない、思い出せないけれど心が叫ぶんだ。

キミは俺が護りたかった子だって。

大切な人なんだって。

『夢なんかより、こっちを見てよ………』

 思い出したい。キミの顔が見たい。

何で俺は諦めようとしていたんだ。

あの子が泣いている。あの子が泣いているなら、兄である俺はあの子を慰めなくちゃいけない。

安心させて笑顔にしてやらないといけない。

だって、あの子には涙なんて似合わない。

『聴こえた?』

「き、こえた……。俺は、あの子を悲しませたくない」

『そう。じゃあキミはどうしたい?』

「思い出したい。

あの子だけじゃなくて、俺が忘れているもの全部思い出したい」

『そうこなくっちゃ。

………さぁ、耳を済ませて。

キミが聴かなくちゃいけない声はまだあるんだから』

 耳を澄ます。

聞き逃さない様に、もう二度と忘れないように心に刻み込むために。

そうすれば、今度は先とは別の子供の声が聴こえてきた。

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