第九十三話
これは夢か、それともあの世なのだろうか。
上も下も分からない。
何処までも続く終わりの見えない闇の中、自分の体だけが明るく鮮明に浮かび上がり色付いている。
試しに体を動かしたり声を出したりしてみたが、まるで水中にいるかのように上手く動かない体。
そして声も水中にいる時と同じ様にくぐもって聞こえてきた。
視界に映るのは闇ばかり。
ここには目を楽しませてくれる様なモノも、それが出来るようなモノも何一つ存在していない。
空腹も何も感じないこの場所に、時間の感覚の無いその場所に何時から、そしてどれだけの間いるのだろうか。
あの時聞こえてきた声の主は、ここにいるのだろうか。
ゆらりゆらりと水中を揺蕩うクラゲの様に、ルイーナはこに暗闇の海の中で浮かんでいた。
戻らないといけない。
早く戻ってそして…………そして?
何を、しようとしていたんだっけ?
早く戻るって、何処に戻るんだっけ?何処に戻ろうとしていたんだっけ?
そもそも戻るだなんて、どうしてそんな事を考えていたんだっけ?
思考が定まらない。
考えれば考える程、自分の頭から何かが抜け落ちていく。
心にぽっかりと穴が空いたように苦しい。
その原因が分からないのに、分からないのに痛くて苦しい。
何かを、そう何かをしようとしていた筈なのに………何も思い出せない。
ここを出て会わないといけない人が、人達がいた気がする。
だと言うのに、その誰かすらも思い出せない。
訳も分からず、この身を襲う痛みと苦しみから逃れたい衝動に駆られる。
暗闇の中、喉が裂ける程に叫んだ。
爪を立て、突き刺さし引き裂いた肌から血が流れる事も厭わずに掻きむしる。
忘れちゃいけないモノの筈だ。
忘れたくないと願ったモノだった筈だ。
俺の、大切なモノだった筈だ。
「い、で……いかない、で……」
どれだけ叫んでも、掴めないモノを掴もうとするが如くソレは己の中から奪われていく。
持っていかないで。
連れて行かないで。
俺から、これ以上何も奪わないで。
「あ”あ”あ”あ”あ”ッッッ!!!」
叫び続け、傷付け続けて………そして何も考えられなくなった。
力の抜けた体が、初めの時と同じ様にゆらりと揺蕩う。
そして、まるでルイーナがそうなる事を待っていたかのように、何処からともなく暗闇から何かが這い出てきた。
それはまるで手のような形を持ち、ぐったりと動けずにいるルイーナへと伸ばされる。
闇よりも色濃い漆黒を纏って自身へと伸ばされつつある無数の手を、ルイーナはただ眺めていた。
あの手は何なのか。
何故こちらに向かって伸ばされているのか。
考えなければいけない。
考えなければいけないのに、もう考える気力もない。
伸びてきた漆黒の手が一つ、ルイーナの体に触れた。
そして触れた箇所から言いようのない感覚がルイーナの中に流れ込んできた。
それは今のルイーナには毒でしか無かった。
痛み、苦しみ、恐怖、そして怒り。この身一つでは抑えきれない程の負の感情が流れ込んでくる。
逃げないといけない。
このままだと呑み込まれてしまうと分かっていても、ルイーナの体はピクリとも動かない。
そしてルイーナ自身も…………何もかも諦めていた。
戻るべきだった場所も、会わないといけない筈だった人達も分からない。
だったら、もういいじゃないか。
何もかも諦めたって良いじゃないか。
漆黒の手はルイーナの体を絡め取り何処かへと連れて行こうとする。
抵抗もせず、その手が連れて行こうとするまま身を任せるルイーナ。
何も写さなくなってしまったルイーナの瞳は、彼を連れて行こうとする漆黒をただ眺めていた。
これから自分がどうなるのか。
この漆黒の手は何処へ連れて行こうとしているのか。
そんな事、もうどうでも良くなってしまっていた。
そして、ルイーナの体が漆黒の手が伸びてきた場所に呑み込まれる。
暖かさなど感じないその場所にルイーナの右腕が呑み込まれた。
そして次は右足が、そしてその次は右半身の全てが。
ゆっくりと自身の体を呑み込んでゆく漆黒。
そして遂に、ルイーナの体が左手を残し全て呑み込まれたその瞬間_____
『駄目だよ』




