第九十話
「お兄様、まだ眠ってるんですか?早く起きないとクッキーが美味しくなくなってしまいますよ?」
アルバの次にルイーナの元へとやって来たのはルーチェだった。
片腕にバスケットをぶら下げ、氷の中で眠る兄を見て一瞬悲しげに俯いた後に笑みを携え再度兄を見上げては明るく声を掛けた。
「今日はお母さまと一緒に焼いたんですよ?最近はクッキーの形にもこだわってて、今回はアーモンドを抱えたクマを作ってみたんです!」
部屋に置かれた簡易的な椅子に腰かけ、テーブルの上置いた皿に持ってきたクッキーを並べてはそれぞれのエピソードを語っていくルーチェ。
その姿は傍から見れば楽しそうで何時ものように見えるだろうが、彼女を知っている者達からすれば彼女が無理をして普段通りに振る舞っているのが分かるだろう。
「今日も小さな子供達からお手紙を貰いましたよ。お兄様はあの子達の英雄様だそうです。
フフッ、人気者ですね」
ルーチェ自身もアルバと同様に復興の手伝いを行ってる際に小さな子供達が彼女に近寄り兄の事を聞いてきた。
初めは子供達が探しているという人物に首を傾げていたが、その人物の瞳が橙色なのと夜空のような黒髪だったと教えられれば、すぐに兄だと分かった。
子供達は怖くて震え泣いていた所を兄に助けられたそうだ。
颯爽と現れモンスターを倒して救ってくれた兄をかっこよかったと、物語の英雄様のようだったと話す子供達にルーチェは兄は兄のまま変わらないのだなと思った。
「目が覚めたら、その子達に一緒に会いに行きましょうね」
そう言ってクッキーを一口食べてからというもの、ルーチェは俯き黙り込んでしまった。
そして暫くの間沈黙が続いていた空間に、ポタリと何かの雫が落ちる音が小さく響いた。
それは次第に増え、そしてその音に嗚咽が混ざり始めた。
「どうして、どうしてお兄様は独りで行ってしまうのですか………。そんなに私達は、私は頼りないですか………?」
ルーチェは泣いていた。その美しい若葉色の瞳から大粒の涙を零し席を立ったルーチェは兄へと近付いた。
そして兄に縋るように寄り添った。
そこに兄の体温は感じられないが、それでも兄の温もりを求めるようにルーチェは自身の体が冷えることも厭わず傍にいた。
「お兄様はいつだって私達を護ってくれました。愛してくれました。
私達もお兄様を護りたいのに、お兄様が皆を大切に思ってくれているように私達もお兄様が大切なのに……どうして自分の事は大切にしてくれないんですか………」
ルーチェは知ってしまった。兄が神の愛娘である己を普通で在り来たりな幸福の日々を歩めるようにする対価として自身の身を差し出した事を。
そして兄の献身とも言えるそれを誰でもない自分のせいで無駄にしてしまった事を。
屋敷と言ってもファウスト家の次期当主を正式に発表する場は別館だが、そこで放たれた異形のモンスターと兄が戦っているのならと避難した先の教会で、怪我人の手当てを必死に行った。
その時に魔力を使いすぎたせいか自身に掛けていた魔法が解け、瞳の色が周囲にバレてしまったのだ。
瞳の色だけならばまだ言い訳が出来ただろうが、大きな傷、致命傷ともいえる傷さえもたちどころに癒してしまう力を見られては、言い逃れは出来なかった。
「ごめんなさい。こんな事、言う資格なんてないですよね………」
流れる涙を拭い、一度大きく深呼吸をしてからルーチェは再度兄を見上げた。
その瞳は未だに悲痛な色が映っているが、それでも前を向く事を決意した者特有の強く美しい炎が灯っていた。
「強くなります。
今度は私が護れる様に」
必ずと言って自身の胸元で組んだ両手を握り締め、ルーチェは眠る兄に誓った。
今度こそはと、次こそはと願いを込めて。




