吉本さんの代わりはいる
「あ~……眠ぃ……」
職場には6時30分に到着し、奥さんが用意してくれた朝飯を食堂で頂く。
『それでは今日の天気予報です』
吉本配達員は職場で朝食とニュース、天気予報、スポーツ情報を得る。8:00から業務開始となるが、1時間半前には出勤していながら、職場でゴロゴロしている。
「木下ー、スポーツ新聞買ってきたか?」
「吉さん!人が買ってきた新聞を読もうとするな」
「俺とお前の仲だろ。いいだろ、読んだっていいだろう?」
マイペースを行く男。仕事仲間、ほとんどが年下相手に物を強請れる、メンタルの強さ。吉本が早く出勤するとはいえ、サービス残業に勤しむ事はほとんどない。若い連中はあれやこれやと、サービス精神の塊を出して、仕事をしているのにも関わらず…………。まぁ、許されて当然だろう。
色々あるんだ。色々と……。
「働け、若人諸君……」
「そーだそーだ!準備しとけよ、山口!実!」
「クソおっさん共がぁっ!サービス残業しやがれ!!」
「お、落ち着いてください!山口さん!」
「若い時に苦労はしとけって言うだろ?」
そんな吉本さんが会社を辞めるに至った、ある事件。
◇ ◇
今の吉本は、いわゆる高齢者採用。再雇用された人間である。昔はこの会社で現場を指揮するほどの実績を持つ人である。当時の彼を知る人も、この現場の中にいる。
それを知らない若い者達や、中途さんから見たら……。ズルしているとしか思えない人物。飄々と自分の仕事だけをこなして帰る人間。
「あーっ。……今日も仕事が多いなぁ。大変だよな、木下。お前はまだ高齢者じゃなくて」
「役職降りたら凄いフリーになってる。顔が嬉しそうだ」
「そう見えるか?」
任される配達地域は2つの地域のみ。夜間対応はしないし、サービス残業も、もちろんしない。その癖、食堂で野球中継を肴に夕飯をとったりもしている。
「役職ついてた頃は働いていたぞ。お前達と同じように、サービス残業をしてやっていたんだ。大目に見ろ」
「……へーいへい」
そんな感じの言葉で木下や山口のようなベテラン。まだ若手の実などの配達員も納得してしまう。元々、人望のある人だという事だ。
日替わりで配達地域を変えられたら、頭がこんがらがるし、時間を切り詰めるように働いたら体を壊してしまう。なんだかんだで、65歳を超えて今なお、働く体は努力あってのこと。安全に車を運転する高齢者はいても、業務量が少なくともしっかりと働ける高齢者は数少ないものだ。
元々、これしかやって来てないし、再就職なんて難しいものだ。老人は覚えるのに苦労するのだ。
とはいえ、爺は爺。
不満は当然出るし、現場で抑えきれない事もある。
「どーしてあの人は自分の仕事が終わったら、帰るんですか!?」
「俺達はサービス残業してるのに!吉本さんはずーっと、自分の事だけしていて!」
再雇用の高齢者なんだよ……。って言っても、納得できる人と納得できない人がいるのは当然。そんな声が吉本本人の耳に届くのも、時間が掛からないのは当然で。
「キビキビと働く気はない。体力と記憶力はガタ落ちなんだよ」
飄々と返答する。本人からしたら、上が働けないと判断したらクビでも良いと思っての雇用環境。困ると思うのは、弁当を作ってもらっているとはいえ、奥さんと同じ家の中で余生を過ごすのは嫌だ。若い女子高生や受付さんに感謝されたいねって……下心とか色々の期待なんだが……。
「山口。なんとかしろ」
「責任を投げんなよ!」
「今はお前が役職者だろ。お前が決めろ」
トラブルは部下や上司達に任せる。言われなくても、爺が口も条件も言う場面ではない。半年でクビにできるかできないかを会社が握っている契約。吉本はそれでいいと思っていた。
現場のトップ達がこの問題を話し合い……。やはり、若手を育てたいという気持ちもあるし。吉本ほどの優良な配達員を失うのは痛手。それでも……
「次の契約はない方向で……」
「いいんじゃね?俺はゆっくり、奥さんと旅行してくる」
もっと働く奴隷が欲しいと、吉本をクビにした。彼の代わりなどいくらでもいると、血気盛んな若手や近い年代のおっさん達は少し喜んだ……が。吉本を批難した者達の大半にはとある契約を結ばせた。
「皆さん、”吉本さんの代わり”くらいは勤めてくださいね」
後年、”悪魔の契約”と揶揄され、多くの人間が逃げ出すきっかけにもなった事である。たかが爺の代わりをするだけの仕事なんて簡単だろうと誰もが思う。思うだろう。だが、とんでもない落とし穴があった。
◇ ◇
吉本が辞めてから、2か月後。
「今日からもう一度、再雇用された吉本が復帰です」
吉本は普通に再雇用された。というか、会社側が彼に直接、以前の事を謝罪する形での再雇用。分かればいいんだ、分かればって表情で戻って来た吉本。そんな彼に、……すみませんでしたって表情の者達が大勢いた。中には直接、頭を下げる者まで。
吉本は特に気にせず、仕事をする。どっちみちここで働けても、あと2,3年だろう。2か月もしてないとくれば、影響は大きい。その予行練習ができてこちらこそ、感謝したいくらいだったりする。
「山口さん。よくあの条件をねじ込みましたね」
「実。吉本さんほどの人を、くだらない理由で外せるわけないだろ」
吉本さんの復帰と関係の修復を行ったのは、山口である。とある条件というのが、それほどキツかったのだろう。想像以上に。
「吉本さんの代わりがいくらでもいるってんなら、吉本さんと”同じ待遇と給与で働け”って契約。結ばせれば、嫌でも分かるだろう。配達地域が違えど、俺達は同じ仕事をしてるんだぜ」
「…………普通、それを契約されたくはないですよね」
高齢者を配慮しろと、伝えたわけではない。同じ仕事をしていても、その人の雇用形態や役職などによって、給与や待遇が異なるというのは当然の事である。
吉本の給与やその待遇がどんなものかなんて、訴える者達は良く知らなかったが。山口からして、
「週6日、8時間労働。給与は平社員の給与の75%なんだぞ……。役職やってた頃の半分以下だぞ」
「いやぁ。吉本さん。なんだかんだで働き者ですよね……」
明らかにウチの高齢者採用は、高齢者を殺しに来ている!
そーいう事は直接言えないが、爺はさっさと隠居しろという強い意志を感じる契約内容。しかしながら、そんな契約で仕事をしてくれるのなら、高齢者枠と給与なども削減できるから会社としては有り難い事である。
そこからさらにサービス残業しろ、夜まで配達しろ、他の地域の応援などしろと……。言えるわけがない。
「ところであの”悪魔の契約”はいつ頃、終わるんですか」
「ホントなら吉本さんが役職者として働いた期間まで結ぼうと思ったんだがな……来月で終わりにしてやったそうだ」
「山口さんの言った事がホントだったら、結んだ人みんな、自殺しますよ」