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犬の駅長  作者: cassisband
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第二章 1.

「駅まで徒歩圏内」

自宅から最寄り駅まで徒歩二十分の距離。男の足で二十分かかるのだから、かなりの距離だ。妻や娘たちは遠すぎると言って自転車を使っている。あの家を購入した時の不動産屋は、駅まで徒歩圏内だと言っていた。今思えば、とんだセールストークだった。

ここに移り住んで、もう二十五年になる。三十を過ぎても嫁に行かない二人の娘が、小学校に上がる前だ。四半世紀と言えば大そうな年月のようにも聞こえる。気付いたら二十五年経っていた感じがする。

 一国一城の主。建築中の家の前には、「山岸邸」と書かれた看板が立っており、それを見ると、家の主となる実感で胸が高鳴った。当時は、さして広くもない一軒家を自分たちの城だと言って喜んだものだ。今はモルタルの壁もところどころ剥がれ、床はあちこち軋みが生じている。人間と同じで、ある程度年数が経てば自然にガタがくるというものだ。

 駅までの道すがら、まただ、とため息をつく。ちょうど駅が見え始める頃、決まって吐くため息だ。今日もやっぱり必要以上に背中を丸め、頭を垂れて歩いている。

駅に近づくに連れて、景色が民家から商店に変わって来る。このあたりも随分と変わっていったものだ。近隣には競うように高層マンションが林立した。それなのに、商店街は閑散としていった。流行のショッピングモールが駅を起点にして、三角形状に二店舗できたからだ。必然的に客は流れていった。

 商店街の中にある、シャッターが閉まった布団屋のガラスドアを横目でチラリと見る。自分の姿を見て毎度のことながら、げんなりする。やや背筋をしゃんとし、持ち上げた頭には、娘の言葉が蘇る。

 記憶の中の娘はまだ高校生で、紺地のセーラー服を着ている。山岸は仕事を終えて、居間のテレビの前でビールを飲みながら寛いでいる。そこにきつい顔をした娘がやって来て、攻め立てた。

「お父さん、今朝、私のこと気がついた?自転車でお父さんの後ろ走っていて、途中で追い越したんだよ。お父さんの後ろ姿、酷かったよ。どこのじじいが歩いてるのかと思った。今までだって、かっこいいなんて思ったことなんかないけど、そんなレベルじゃないよ。はっきり言って幻滅だね」

 下の娘も、そうだそうだと母親似のきつい顔つきで頷いた。

 いつからか、家の中で父親の威厳はすっかり消え失せ、何かと邪魔物扱いされるようになった。それは、年頃の娘を持つ女だらけの所帯では仕方ないことだと半ば諦めていた。  

だが、そうされる原因は自分自身にあったのかもしれない。覇気がなく、影響力も存在感すらもない自分を初めて自覚させられた。

あの日から、本来なら、巻き返しをはかるべきだった。父親の威厳を取り返すべく。しかし、そんな努力もしないまま、何も気付かず、何も気にしないフリをして、ただ漫然と過ごして来てしまった。頭の片隅ではこのままではいけないと思いながらも、ただこの二十分黙々と歩いていた。

職場までは、三本の鉄道を乗り継いで、一時間以上もかかる。マイホームを持った当時は、乗り換えなしで乗車時間一五分。快適な通勤だったのだが、ほどなくして、勤務していた支店が経営縮小のために閉鎖され、別の支店へと異動になった。結局、今のような通勤を余儀なくされてしまったのだ。通勤時間は四倍になった。。

ホームに滑り込んできた電車は、すでに乗車率百パーセントを越えているように見える。それでも、下車した人数よりはるかに多い乗客が、平然と乗り込むのだから驚きだ。

 いつものことながら、目一杯に乗客を詰め込んだ車両に、無理やり体をねじ込み、扉が閉まる瞬間にぐっと身体を車内に引く。無事に扉が閉まると、そこに寄り掛かり、次の開閉までは安堵できる。ドアと人に挟まれて多少苦しいが、そんな圧迫感にも慣れるものだ。

 満員電車の中ではなるべく女性の近くは避けたいものだ。今は『女性専用者』なるものがあるから多少は安心できる。

痴漢に間違われたらひとたまりもない。ただでさえ崩壊しかねない家庭が、完全に崩れてしまうだろう。それがたとえ真実でなくても、今の自分の状況では信じてもらえない気がする。

吊革や手すりがあれば真っ先に掴まるようにしている。考えすぎなのかもしれないが、予防線をはっておくことで無用なトラブルは回避できる。そこまで気を使いながら、毎日電車に乗っているのだ。

乗り換えの駅に着くと、流れに身を委ね下車する。するするとホームを移動し、次の電車に乗り込む。また同じように混み合った車内で揺られる。三本目の電車に乗るために階段をリズミカルに降りていくと、階段下には女性が横たわっていた。しっかり視界に入ったものの、自分は大勢の中のひとりに過ぎないだろうと、通り過ぎた。

変えたくても変えられないものがもうひとつあった。繰り返しの通勤の延長線上にある職場での自分だ。

 まだ三十代くらいまでは、バリバリと働くサラリーマンだったと自分でも思う。今はどうだろう。単調な日々にさしてやる気も出ず、ただ漫然とした時間を過ごしているにすぎないのではなかろうか。

 所詮サラリーマンなど、働き蜂や働き蟻でしかないのだ。こんな陳腐な表現こそしっくりくると思ってしまうほどに、自分の生活にも仕事にも意味を見出だせずにいた。

 特に、勤め先の中小企業など、その最たるものだ。いくら、個人の業績を伸ばそうとも、躍進的な昇格が待っているわけでもなく、大幅な給料の見直しがあるわけでもない。それどころか、この長引く不景気のせいで、会社全体での業績として、売れるか売れないかは、会社自体の存続がかかってくるときている。自分の稼ぎを減らさないように、もっと言えば、職場を失わないように、現状をキープするのが関の山という雰囲気は会社全体に広がっている。誰かの好成績を取り立てて、皆で和気あいあいと喜んでいられるほど、穏やかな時代ではなくなったのだ。

 考えれば考えるほど、生産的な思考は浮かんでこない。頭に過ぎるのは、現状維持。触らぬ神にたたりなし。自ら動こうという気力とはほど遠い。

会社に到着するとまずパソコンの電源を入れる。毎度のことながら、一番乗りだ。次に台所の薬缶に火をつけ、カーテンを開ける。夏の陽光が部屋に差し込む。そうしている内にパソコンが立ち上がる。通勤途中のコンビニで買っておいた缶コーヒーを鞄から取り出した。真夏だというのにホットコーヒー。山岸は夏でも缶コーヒーと決めている。だから自動販売機ではなくて、必ずコンビニで買っている。温かい缶コーヒーを片手に、この静謐なフロアで、パソコンの画面を見ている時が唯一の安住の場所だと思っている。今日もまたいつもと変わらない、現状維持のための作業が続いていく。

それでも、なんてことのない仕事の中にも楽しみはある。外回りだ。職場でも家庭でもめっきりおとなしくなってしまったが、元来人好きな性格であり、話し好きでもある。営業の能力が高いかどうかは別として、外回りの仕事は苦ではない。

今日は午後から、営業先に出かけることになっていた。


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