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犬の駅長  作者: cassisband
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第一章 4.

 足立区の自宅に健治が帰宅した時には、午後十時を回っていた。ただいまも言わずに、玄関に入り靴を脱ぐ。居間の扉が半分ほど開いており、中から母親の明るい話し声が漏れ聞こえてくる。いつもの長電話だろう。町内の友人に土産を渡す約束でもしているのかもしれない。時折、笑い声をたてている。旅行帰りだというのに、元気なものだ。

 反対に全く元気がなかった。居間には立ち入らず、そのまま二階に続く階段を上がると、バックを机の上に放り投げて、ベッドに倒れ込んだ。

 元気がないどころか、今まで経験したことがないくらい気分がすぐれない。今朝の駅での出来事のせいだ。一時間目の授業は結局ぎりぎり間に合った。急いで電車を乗り継いだからだ。しかし、あのことが頭を離れずに、身体中をもやもやと不安な思いが浸蝕していたため、どんな内容の講義を受けたのか、さっぱり記憶に残っていない。さらに、その嫌な感覚は一日中続いた。午前中の講義を終えてもいっこうに収まりはせず、むしろもやもやは増殖しているかのようだった。昼休みに学食で友人と昼食をとったが、いつもつい選んでしまう揚げ物丼などは到底食べる食欲もなく、月見うどんをすすった。それも、途中で気持ち悪くなって残してしまった。

 午後の講義も身が入らず、上の空だった。そのあと、シフトの予定通り大学傍のコンビニのアルバイトに出たが、いっそのこと、仮病でも使って休めばよかった。レジ打ち間違いのミスを連発して、いやみな店長にねちねちと怒られた。割り箸やスプーンのつけ忘れも気づかずにかなりしたかもしれない。あとでクレームが来たら、また呼び出されるだろう。

 散々な日だった。ふうっと深いため息をつく。誰のせいなのだ。自分にひいき目をして考えてみても、こんなに良心の呵責に苛まれているのだから、やはり自分は無関係ではないのだろう。それは、あの瞬間からきっとわかっていたことなのだ。それなのに、自分の心の中でなんだかんだ理由をつけて、無関係をよそおった。それが間違いだということは、誰でもなく自分が一番よくわかっていたのに。

 電話を終えた母親が、階段を上がってくる足音が聞こえてきた。朝はあんなに母親が旅行に行っていることが苛立たしかったのに、今は帰宅していることが疎ましかった。

「けんちゃん、下りてきなさいよ。お土産に美味しいもの買ってきてるから。コーヒーいれてあげる」

 あっけらかんとした母親の口調すら腹立たしい。

「疲れてるんだ。また今度にする」

 ぶっきらぼうに答えたのが伝わっていないのか、母親はなかなか引き下がらない。

「そんなこと言わないでさあ。高松、すごく良かったわよ。藁葺き屋根のあの有名なとこも見てきたし」

 ただ自分の話し相手が欲しいだけなのだ。自分勝手だな、と思ったが、朝のことを思い出すと気分が暗くなった。

「今日は無理。もう寝るから静かにしてくれない」

 さらに強い調子で言うと、残念そうにしながらもようやく諦めた。

「じゃあ、今度ゆっくりね。さっき、咲子から電話があってね。週末、遊びに来るって。珍しいわよね。けんちゃんの苦手なお義兄さんは、仕事で来れないそうだから、あなたも久しぶりに会うといいわよ。新幹線に乗ってはるばる来るんだから、予定明けといてよ」

 そう言うと、母親は足取りも軽く、降りて行った。咲子というのは、姉だ。遠く九州に嫁いで、もう四年になる。東京から九州までは交通費もばかにならないため、お盆と正月くらいしか実家に帰ってこない。それでも、この正月には、都合がつかないとかで帰省しなかった。その姉が帰ってくる。咲子とは年が六つ離れている。そのため、物心がついたころには、咲子は小さな母親のような存在で、あれこれ世話を焼いて可愛がってくれた。だから、今でも、姉のことは慕っている。多少気分が明るくなったところで、若干緊張がほどけ、そのまま眠りについた。

 翌朝は講義のない曜日だった。早くに目が覚めたが、二度寝をし、次に起きたのは昼過ぎだった。

 母親はどこかに出かけたようでいなかった。冷蔵庫を開けると、ラップにかけられたサンドイッチが目につくところに置いてあった。母親が作る朝食は、決まってサンドイッチだ。サンドイッチを取り出して、テーブルに置く。コーヒーメーカーもテーブルにはセットされていたが、面倒に思って、また冷蔵庫を漁った。コーラでも入っていればよかったのだが、ジュース類が何も見当たらないので、母親が自分のために買ってきたであろう低脂肪牛乳を出してきて、グラスになみなみと注ぐ。長く寝ていたせいか、喉はからからだった。牛乳の独特な臭いも気にならないくらい、ぐいぐいと飲み干していく。グラスが空になると、また注いで、今度はサンドイッチのラップをはずし、食べはじめる。

 いつになくぼんやりとしていた。昨日の息苦しさは多少薄まったようだったが、考え出すと、またいろいろな思いに捕われそうだった。

 今日は何をしようか、考えても何も浮かばない。大学に行かない日は、女子大と合同のテニスサークルの練習に顔を出したり、何も予定がなければ、単発のバイトで小遣いを稼いで過ごすことが多いが、どこにも行く気分ではない。部屋で大学の勉強でもすればいいのかもしれないが、そういった習慣もないので、さらさらそんな気にもならない。

 もともと勤勉なタイプではなかったが、二年生になってからは、ますますその傾向が強くなった。とはいえ、三年生になったら、厳しい就職活動に専念するつもりなので、今年履修可能な科目はできるだけ落としたくない。最低限の労力でうまく単位を取れればいいと思う。一年生で思いの外、あっさり単位が取れていたので、怠惰な姿勢は学年が上がって助長されたかもしれない。

もうすぐ、就職活動も本腰を入れて始めなければならない。将来の目標を見い出せずに悶々としている。むしろ最近は苛立ちに近かった。

 結局今日一日ぼんやり過ごした。何もせず、何も考えず。テレビにはお笑い芸人が映っていた。サラリーマンの扮装をして何かをしゃべっている。千鳥足で真っ赤なメイクをしていたので、酔っぱらいのコントであることだけはわかった。

 水曜日も木曜日も、午後からの講義とコンビニのバイトの予定があった。講義の時間に合わせて家を出る。ぼんやりと電車に乗って、揺られて行く。あの階段を通るにはなんとなく躊躇われて、別の階段を通り、だらだらと乗り換えのための地下連絡通路を歩いた。乗り換えには遠回りになるが、嫌なことを思い出すよりはましだ。昼間のせいか、駅構内も電車内も人が少ない。朝のラッシュ時とは違うゆったりした雰囲気が健治を落ち着かせた。大学についてもぼんやりと過ごし、コンビニでもだらだらと仕事をした。

 金曜日は月曜日と同じように一時間目から講義が入っていた。しばらくはあの階段には近寄りたくないと思っていたのにも関わらず、人の波に押されて、あの階段に流されていってしまった。目線を足元に固定して、今回はなるべくゆっくりと降りていく。階段を降り切ると、鼻から息を深くはいて、顔をあげ、そして視界に入ってきたものに、意識の全てを奪われ愕然とした。

『目撃者を探しています』

 真新しい立て看板には赤い文字でそう書かれていた。

 内容はこうだ。『駅構内東口出口方面階段にて発生した傷害事件について、目撃情報を求めています。お心当たりの方は西新井警察署までご通報下さい』発生した日時まで克明に記されていた。

 転倒した女性が、警察署に訴え出ているということを初めて知った。しかも、傷害事件と掲げられている。傷害事件・・・自分とは今までも、そしてこれからも無関係だと思っていた事の当事者になろうとしている。その事実を無言の看板によって突き付けられて、健治は竦み上がった。自分が関係している転倒に対する謝罪の気持ちより、自分が犯人になる恐怖の方がはるかに勝っていた。捕まったらどうなるのだろう。今までだって平凡な人生だったが、そんな平凡な毎日すら送れなくなるのだろう。何をどう詫びて、どう償うのか、見当がつかない。胸にあるのは、そんなことに直面したくない、逃げてしまいたい、という臆病な考えだけだった。

 だが、ここには、目撃情報を求める内容が載っているだけだ。あれから二、三日経つが、警察がやって来たわけではない。きっと、誰がというところまで、特定できていないのではないか。今朝だって、この混みようだ。北千住駅は都内で有数の乗り換え客数を誇るターミナル駅だ。無数の人が行き交う中で、その一瞬の、そのまたたったの一人を見つけ出すというのは至難の技に違いない。

 大丈夫かもしれない。急に楽観的なイメージが頭に湧いた。警察は自分を特定できないし、このまま黙っていれば、捜査も長くは続かないだろう。倒れた女性がいくら訴えても、彼女には顔を見られていない。万が一、すれ違うことがあったとしても、見つけることはできないだろう。自分勝手な思いだけを大事にしながら、やり過ごした看板を背にして、大学へと急いだ。

吐き出させる人波に紛れながら、乗換えのために階段を下っていく。酒でも飲んだわけではないのに、千鳥足になる。足元がてんで覚束ない。

 それでも何とか乗り換えた電車に揺られていると、大丈夫だろうという気持ちと、大丈夫だろうか?という気持ちが交互に心の中でせめぎあう。いつもなら混雑する車内でも携帯ゲームに夢中になるが今日はそんな気にはなれない。

 駅に着いても、大学に着いても、胸の内は暗澹とした靄に覆われていた。富士の樹海を彷徨うように。そして最後には・・・・・・。

 教室に入ると、朝練習を終えた野球部の同級生が早々と集まっていた。集団の前方で誰かが何かしゃべって聞かせているようだ。普段からたいして親しいわけではないからと、離れた席に腰を下ろす。集団の一番後ろで机に腰掛けていた野球部員のひとりがこっちに来いよと手招きしている。

 面倒だと思いながら、腰を上げた。

「今、面白い話を聞いていたんだ」

 手招きした相手がにやにやしながら、そう耳打ちしてきた。前に視線を向けると、おしゃべりで有名なやつが饒舌に何かを語っている。

「私服のデカならもっとカッコイイのに、普通にスーツ着てたぜ。でも、やっぱ目つきとかは刑事って感じだったな。怖ええから、目とか合わせてないけどさ。なんか威圧的な視線飛ばしてるっていう感じだな」

 背中に冷たいものを感じる。馴れ馴れしい野球部員は、そんな健治の様子に気づくふうでもなく、また耳元に話しかけてくる。

「今朝、学生部に来てたらしいぜ。刑事が二人。結構、話し込んでいったみたいでさ。なんだろうな。まさか、うちの大学から大麻とか痴漢とかじゃないだろうな」

 物騒な言葉を口にしながらも、語り口はどことなく愉快そうだった。周りの連中も皆、なんだかはしゃいだ雰囲気だ。人ごとだから、そんなふうにしていられるんだ。うちの大学などと言ってはいるが、所詮自分とは無関係なのだからと、遠巻きにおもしろおかしく傍観していようという立ち位置が見て取れる。気分が悪くなってきた。サンドイッチがせり上がってくる気がした。

「あれ?顔色悪いぜ?もしかして、夕べ飲み会かよ?二日酔いじゃねえの?」

 顔を覗き込まれるのが苦痛で、適当な嘘をつく。

「ああ。かなり飲み過ぎたんだ。やべえ、気持ち悪くなってき・・・」

「そ、そっか。無理しないで帰った方がいいぞ。今日はたいした授業ないしな」

 吐かれると迷惑だと言わんばかりに、身を離す。

「だな。せっかく来たけど、まじで具合悪くなってきたから、ぼちぼち帰るわ」

「ああ、無理すんな。気をつけて帰れよ」

 ひらひらと手を振る相手を尻目に健治は大学を後にした。

 自分がどうやって電車に乗ったのか覚えていない。気がつくと自宅の前にいた。頭の中を思考が駆け巡りすぎて、周りが見えていなかったせいだろうか。それでも家に帰って来れるのだから、驚いてしまう。意識せずとも、体が覚えているのだ。

 玄関の鍵を開けようとすると、鍵はかかっていなかった。このご時世に物騒な、と思いながら、扉を引いた。部屋の中からいつもと違う雰囲気が感じられた。

居間から話し声が聞こえる。母親が、話し相手に向けて言葉を発しているのがわかる。その声色はいつにも増して上機嫌だ。

 居間の扉を開くと、こちらに背を向けてソファに座っていた女性が振り返った。姉の咲子だった。

「なんだ。姉さんか。誰かと思った」

 咲子は、健治を見ると、「ああ!けんちゃん!久しぶりだね、元気にしていた?」と笑顔を見せた。つられて、健治も顔をほころばせる。

「姉さん、土曜日に来るって言っていたんじゃない?一日早いけど、どうしたの?」

「だんなさんがね、今日から出張だから、一緒に出てきたのよ。せっかくだから、今晩から泊まらせてもらうことにしたの。ほんとはもっと早くに来たかったんだけどね」

 ゆったりした口調で話す。咲子は優しい顔をしている。もともと穏やかな性格だが、口元に浮かんだ笑みは、以前にも増して、神々しい微笑みに思えた。

「けんちゃん、大学行ったんじゃなかったの?もうそろそろ就職活動も始まるね。将来のことちゃんと考えてるの?」

 にこにことしながら聞いていた母親が、思い出したように、健治を見つめる。

「ちょっと、体調悪くて、早退してきた」

「あら?夏風邪でもひいた?それとも夏バテかしら?そういえば、最近あんまり元気ないわよね。何にしろ、咲子にうつさないようにね」

 健治のことを心配しているのか、そうでないのかわからないようなことを言う。夏バテならうつるわけがない、と思いながら、咲子の様子がなんだかもじもじとしているのに気がついた。

「あのね、けんちゃん」

 咲子がゆっくりソファから立ち上がった。

健治は目にしたものに驚きを隠せなかった。

 咲子の腹は、びっくりするほど膨らんでいた。お腹に手を当て、撫でるようにさすっている。

「あのね。赤ちゃんができたのよ。今、妊娠七ヶ月なの」

 女神のような優しい顔で微笑む。母親もとろけるような嬉しそうな顔をしている。

「母さんもね、全然知らなかったのよ。大事なニュースがあるって電話で聞いてたから、もしかして妊娠したのかな?とは薄々思っていたけど、まさかこんなに大きくなってるとは思わないから」

 母親は本当に愉快そうだ。

「ごめんね。びっくりさせて。順調だったら、すぐに知らせたんだけど、ちょっと妊娠の状態が良くなくて、どうなるかわからなかったから」

 優しい姉のことだから、遠く離れている父母に、余計な心配をかけまいと黙っていたのだろう。

「でもね、もう大丈夫。お医者さまからも、もう心配いらないって言われているから。性別もわかっているのよ。男の子だって」

 咲子は大きなお腹を両手で抱えるようにし、本当に愛おしそうに優しくなでている。

「私、大事に育てるわ。赤ちゃんに会えるのが待ち遠しいの。世の中にこんなに愛おしいものがあるなんて知らなかったくらい。毎日が幸せで仕方ないよ。いいお母さんになれるかわからないけど、一生懸命に育てるからね」

 改めて健治を見つめると言った。

「けんちゃんみたいな優しい子に育つといいな」

 久しぶりに会った弟に気を遣っているわけでなく、本心からそう願っているようだった。その咲子が眉根を寄せて、急に心配そうな表情をした。

 健治は泣いていた。涙が後から後から溢れ出し、頬を伝って、流れ落ちた。

「ごめん。ちょっとこれから用事があるんだ。行かなくちゃいけない。姉さん、本当におめでとう。元気な赤ちゃん産んでね」

 健治は北千住駅の看板に向かって足を踏み出した。


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