表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
犬の駅長  作者: cassisband
3/7

第一章 2.

なんでこんな目に遭わなければならないのだろう。真野貴子は、白い天井を見つめながら思った。天井がやけに高く感じる。白を基調としたこの空間がいっそう心細く感じさせる。

今頃はいつもと同じように、職場で仕事をしているはずだった。壁にかかった金縁に木目調の時計に目を向ける。長い針が短い針を追い越したところだった。もう十時近い。そういえば、同僚が週末は熱海温泉に旅行だと嬉しそうに言っていた。今頃、職場のみんなで土産の温泉まんじゅうでも食べているかもしれない。

もうすぐ、連絡を受けた夫が血相を変えて、タクシーで病院に乗りつけるだろう。静岡の両親は、新幹線に乗り込んだくらいかもしれない。心配性の母親は大丈夫だろうか。泣いているに違いない。ベッドに身を委ねながら、そんなことをぼんやりと考えていた。

 幸い早産に至るような結果にはならず、お腹の子供の命に別状はなかった。そう診断されたことで、沈みきっていた心はたちまち立ち直った。ただ、自分自身が負った傷と打撲に加えて、両足とも捻挫しており、全治二週間と診断された。こういうのを不幸中の幸いというのだろうか。

ひとつ言えるのは、救急隊員にも言われたことだが、こうして病院まで冷静に導いてもらえたことは運が良かったのだろう。親切な女医が居合わせてくれたことが大きかったのだ。

 倒れてからは、下半身の痛みを下腹部のものだと思い違ったので、すうっと血の気が引いて意識が遠くなっていった。もしかすると一瞬は意識を失っていたのかもしれない。そんな遠退く意識の端で、「俺のせいじゃないだろ」と吐き捨てるような若い男の声を聞いた。声の主は私を突き飛ばした相手に違いない。ひどく乱暴なぶつかり方だった。

 それでも、と思う。それが故意であったかどうかの判断は迷うところだ。何が気に障ったのか知らないが、わざと妊婦の自分にぶつかってきたようにも思えるし、男が突進してきた場所にたまたま自分がいただけのようにも解釈できる。

 だが、転倒の原因が自分にないことは確かだ。よそ見をしていたとか、足を踏み外したとかいうことが原因ではないと言い切れる。妊娠してから、とかくお腹が迫り出すようになってからは、人一倍足元には注意していたし、急がずゆっくりを心がけていた。

 夫が来たら何と言うだろうか。頭に血が上ったら手が付けられない。彼は、私とお腹の中の赤ちゃんを心の底から大切に思っている。家ではまともに家事をさせてもらえないほどだ。特に掃除・洗濯は今まで以上に手伝ってくれる。共働きなので、結婚当初、家事は分担しようと決めた。お互いの担当を分けたが、実際には、ほとんどを私がこなしてきた。偉そうに「自分は九州男児だから亭主関白だ」と豪語することもあった。しかし、妊娠がわかってからは別人のように協力してくれるようになったのだ。できるのなら最初からやってほしいものだと悪態をついたけれど、素直に嬉しかった。

彼はひょっとしたら警察に行こうと言うかもしれない。ベッドの上で思いを巡らせていると、病室のドアがノックされた。

「はい」と答えながら、夫にしてはやけに丁寧だなと思っていると、やって来たのは予想外の訪問者だった。

「真野貴子さんの病室でよろしいでしょうか?」

 まだ病室の表札が入口にないようだ。扉を一枚挟んだ向こう側から野太い男性の声で確認できた。やはり夫ではない。医者でもないのだろう。

「はい」

 貴子は思い当たらない訪問者に警戒しながら答えた。

「私どもは西新井署の者です。北千住駅より連絡を受けまして、お訪ねしました」

 貴子は息を飲んだ。あの転倒には、事件性があったのだ。確信こそしていなかったが、やはりという思いがした。

「どうぞ、お入り下さい」

 呼吸を整えてから、扉に向かって言った。

「失礼します」

 入ってきたのは、黒いスーツを着た男性二人だった。記憶にある警察官の制服姿ではない。きっと刑事なのだろう。後から入室した体格のいい男性がゆっくり扉を閉めた。先に入室した刑事が先輩なのだろう。二人は殊勝な面持ちでベッドまで近づいてきた。それから、名刺を差し出して名前を名乗った。先に入ってきた方が田中と言い、続いてきた方が、成島と言った。

 刑事と言えば、警察手帳を見せて「こういう者です」という一言が身分証明の代わりなのだと思っていたから、二枚の名刺を手にして、いささか驚いた。訝しそうな顔をしていたからか、田中刑事が、担当医の名前を出した。

「今、先生にお会いして、確認させていただいてきたのですが、真野さんは話もしっかりできる状態とのことでしたので、お邪魔させていただきました。くれぐれもお身体の負担にならないように、手短に切り上げますので、ご協力よろしくお願いします」

「いえ、こちらこそ。お役に立てるか、わかりませんが・・・・・・」

 こんな時、何と言ったらよいのだろうか。被害者の立場であるというのに、初めての経験に身の置き場をなくして、貴子はまごついた。

「まず、確認をさせていただきます」

 田中刑事がスーツの内ポケットから手帳を取り出した。

「午前八時二十分頃、北千住駅構内において、真野貴子さんが転倒。転倒は、何者かに突き飛ばされた可能性がある。間違いありませんか?」

 手帳から目線を貴子に移す。その視線は緊張しているのがわかる。今はまだ現状把握の段階なのだろう。貴子の証言によって、事件か単なる事故か、判断されるということなのかもしれない。こういうことは慎重に答えた方がいい。

 貴子は「わからないんです」という言葉を飲み込んで、次に浮かんだ質問を田中にぶつけた。

「あの、突き飛ばされたというのは、どなたかからの情報なんでしょうか」

 貴子がまだ何も話していないのに、北千住駅からどのように警察に通報があったのか、疑問だった。

「目撃者です。一部始終見ていたわけではないようですが、あなたが階段から落ちる時に上の方にいたそうです。そこで、あなたが突き飛ばされたように見えたと言っています。ただ、直接押した場面を見たわけではありません。もう一人、あなたが転がった時に階段下にいたという人からも、個別に通報が入っています。挙動不審な人物が、あなたが倒れた後すぐ足早に去っていったのを見ていたというものです。二件の通報で伝えられた人物は、おそらく同一人物でしょう。もし、本当にあなたに故意に怪我を負わせたことが確かなら捜査の必要があるとこちらでは考えおります」

「それは、男の人ですよね。若い男・・・・・・」

 慎重に対応しようと考えていた理性に反して、貴子は言葉を発していた。

 刑事が二人、やはりというように顔を見合わせる。貴子はあの若い男のつぶやきを思い出して、耳をふさいだ。ちょうどその時、病室の扉が開いた。駆け込んできたのは、夫の晴彦だった。その細い身体全体から、心配でたまらないという感情が溢れ出していた。

「貴子!」

 晴彦がベッドにすがりつくように目の前に姿を見せる。刑事が遠慮して、少しベッドから身を引いた。

「無事でよかった!貴子も子供も!」

 晴彦は端正な顔をくしゃくしゃにして、今にも号泣しそうだった。

 息を整えて、貴子に向かい合うと、今度は表情を変えた。

「おい、貴子。真っ青だぞ。タクシーから病院に問い合わせたら、貴子の怪我も軽傷だし、子供も助かったって聞いて・・・・・・」

 うろたえる晴彦に、田中刑事が声をかけた。

「すみません。私ども西新井署の者です。我々が奥様を動揺させてしまったのだと思います」

「どういうことでしょうか?僕は、貴子が駅の階段から落ちて、救急車で運ばれたとしか聞いていませんが」

「まだ、はっきりしたことはわかりませんが、貴子さんの転倒には、事故と事件の両方から調べる必要があるかと思われまして」

 田中刑事は、貴子に配慮してか、まだ事件と断定せずにそう言った。

「事件って、犯人がいるってことですか?誰かがわざと貴子を階段から突き落としたんですか?」

 ベッドの上で青ざめて頭を抱えるようにしている貴子は、晴彦の目によほど弱々しく映ったに違いない。晴彦はたちまち、憤怒の表情になった。

「許せない。貴子をこんな目に合わせたやつが・・・・・・。刑事さん、必ずそいつを捕まえて下さい。必ず、お願いします」

 興奮している夫を見ていると、貴子の鼓動は早まっていった。本当に恐ろしい目に遭わされたのだ。貴子は事件の被害者なのだと思い始めていた。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ