第一章 1.
「ちょっと!あなた大丈夫?」
馬淵慶子は階段上から倒れた女性に駆け寄った。その声を合図にしたように、ようやくせわしないラッシュの流れの中にも、立ち止まる人が現れだした。女性はすでに顔面蒼白で意識も失いかけている。
「救急車、呼びましょう」
女性の隣にしゃがみこむとすぐにそう言い放った。
「あなた、携帯電話ある?一一九番!救急車を呼んで!」
てきぱきとした物言いに押されながらサラリーマンが、血相を変えて携帯電話を取り出す。
「しっかりしなさい!赤ちゃんのために、頑張るのよ」
駅の冷たい床の上に、不自然な姿勢で倒れたままである。
そのうちに、騒ぎを聞きつけた駅員がやってきた。くの字に体を折って倒れている女性の下からは、赤いものが染み出している。黒のスパッツを履いていたので、ぱっと見ではよくわからない。真横を通るくらいの距離なら、それが血であることが認識できる。女性も確認したようで、白い指先には真っ赤な血がついていた。
「今、何ヶ月なの?」
鞄にぶら下げられた、ピンクの縁取りに母と子のイラストの描いてあるキーホルダーを確認しながら問い掛けた。頭の上の方に、投げ出されたようになっているが、鞄のファスナーの部分に付けられているのは、いわゆるマタニティマークというものだ。
女性は固く目を閉じたまま応答しない。
「しっかりしなさい!母親になるのなら、赤ちゃんのことを考えて、気持ちを強く持ちなさい!」
ようやく聞き取れるほどの声で返答があった。
「七ヶ月・・・です」
わずかに開いた唇から、搾り出すように発せられた。
「七ヶ月ね!そうよ。えらいわ!あなたが諦めてはだめよ。めそめそする前にできることをしましょう。そうすれば、赤ちゃんも頑張ってお腹にしがみついていてくれるわ!」
女性は小さく開いた口から少し息を吸い込むと目を閉じたまま深く頷いた。
「あなた名前は?母子手帳は持ってる?」
女性は頷きながら「まの」と名乗った。口調も先程よりしっかりしており、意識もはっきりしてきたようだった。普段は大きな瞳であろう目を薄く開け、血のついた手で鞄を引き寄せようとしている。
「母子手帳は鞄の中ね。いいわ。私が出すわ」
手際よく女性の身体から鞄を引き抜きファスナーを開ける。きちんと整理された鞄の中でかわいらしいピンク色のケースが目についた。確認するように取り出して目の前にかざすと女性が頷いた。
「それです」
真野貴子。母の氏名の欄にはそう書かれていた。住所や緊急連絡先なども、しっかりと記入がある。ケースには、血液型の認定証も入っている。これだけあれば、搬送先でもスムーズな治療が受けられるだろう。
騒ぎを聞き付けた駅員がホームから階段を下りてきた。
「彼女、真野貴子さんは階段から転倒したようです。妊娠七ヶ月・・・・・・」
馬淵慶子が簡単に駅員へ状況を告げていると、ふと視線を感じた。真野さんと同年代くらいの女性が立っていた。何か言いたげにこちらを向いている。
手招きをして、何かわかることがあればあなたからも話をしてほしいと告げた。するとその女性はおずおずと歩み寄ってきた。
「あの・・・・・・私、この人が落ちるところを見ていたんです。でも、急いでいたし、他にもいっぱい人がいたから、大丈夫かなって、通り過ぎてしまって・・・・・・。でも、やっぱりああいうのは、よくないと思って。もし大変なことになってたら、証言者とかいるんじゃないかって」
この女性は何かを伝えるために、わざわざ引き返してきた。証言と口にしているからには、何らかの事件性を含んでいる予感がした。
女性の話にはまだ続きがありそうだったが、担架を担いだ救急隊員が姿を現した。駅構内での急病人の搬送には手慣れていると見えて、大きな担架をコンパクトに運び込み、真野貴子はすぐさま担架に乗せられた。一番気になったのは出血だが、それは下腹部からのものではなかった。くの字の身体が正面を向くと、黒いスパッツの足の付け根あたりが派手に破けて、出血部分があらわになっているのがわかった。階段のヘリの金属部分で切ったのだろう。てっきり下腹部からのものだと思い込んでいたので、心配はやや薄らいだ。
「では、行きましょう。南口に緊急車両を停めています」
救急隊員の一人がこちらに向き直って、きびきびと言った。
「よろしくお願いします」
駅員と同じように、見送ればよかったのかもしれない。だが、気がつくとつい申し出ていた。
「私も同乗させてください。内科ですが、医師免許があります」
居合わせた自分の使命のように感じた。だが、後方には気掛かりがあった。目撃者だと言う女性は一体何を見ていたのだろうか。