愛し子は、空から降ってくる
あれは確か、私が10歳の時だった。小学校に入学して四年。お気に入りの赤いランドセルを背負って通学路をふらふらと歩いていたのだ。
今思えば、あの日は朝から散々だった。寝坊して、物心ついた頃から欠かしたことのない朝食を摂れずに家を飛び出したのだ。空腹を訴えるお腹を撫でさすりながら、学校に向かって全力疾走。その甲斐あって遅刻は免れたけれど、教室で力尽きて保健室行き。養護教諭に顔が赤いと体温計を渡され、計れば38度。頭はガンガンに痛むわ気持ち悪いわで、登校早々に帰宅を促された。共働きの両親が迎えに来ることはなく、私はふらふらの身体で1時間ほど前に全力疾走したばかりの道を引き返していたのだ。
その時だ。耳障りな音が聞こえたのは。眉を顰めて振り返った私が見たのは、ものすごいスピードで迫ってくる乗用車だった。
厄日か。朦朧とする意識でそう思った直後に衝撃が襲いかかり、私の身体は宙を舞った。
これは8年前のこと。私が異世界に飛ばされる直前に体験したことである。
迫る車。身体を襲う衝撃。浮遊感。死んだと思った。けれど、私は生きていた。
目覚めた時、身体はとてもだるかったが、痛みはなかった。ゴリゴリと何かを削る音が聞こえる。震える瞼をそうっと開くと、黒い物体が見えた。真黒な衣服を着た人のようだった。私に背を向けて、すり鉢のようなもので何かをゴリゴリと混ぜている。聞こえていたのはこの音か。目覚めた私に気付かず、黒い人は作業を続けている。その周囲には小さな籠がいくつも置かれていて、その中には乾いた草のようなものが入っていた。ベッドに寝かされている私の傍には、赤いランドセルが置かれている。
ここはどこですか。私は黒い人に話しかけた。病院ですか。黒い人は勢いよく振り返った。深く被られたフードのせいで、口元しか見えない。私はだるい身体を半身起こして尋ねる。私を助けてくれたんですか。あなたは、誰ですか。
黒い人は何も答えない。困ったように首を傾げたかと思うと、ぽんと手を打って静かに立ち上がった。部屋の隅に移動し、箪笥から何かを取り出す。低く心地よい声が紡がれ、黒い人の手のひらが小さく輝いた。その人は私の傍に座り、そうっと手を差し出す。そこには、淡く光る小さな石。とても綺麗だった。私がおそるおそるそれに触れると、黒い人の唇が動く。
「僕の言葉が理解できますか?」
低く、優しい声だった。私が頷くと、黒い人の唇が弧を描く。「良かった。言葉が解らないと不便だからね」
そう言って、黒い人は被っていたフードに手を伸ばした。ぱさりと灰色の髪が現れ、髪と同じ色の瞳が私を映す。黒い人は、黒い衣服を纏った灰色の大人の男性だった。外国人だろうか。目鼻立ちの整った美しい顔をしている。青白い肌に色素の薄い瞳と髪。まるで幻想小説の登場人物のようだ。じろじろと凝視する私に、男性は小さく笑んだ。
「質問に答えよう。僕の名はヴィルヘルム。ここは、ナトゥールラント東の森にある僕の家。森で薬草を摘んでいると、空から君が降ってきたんだ」
この人は綺麗だけど、頭が残念な人だ。私は痛ましげな瞳で男性を見つめた。
懐疑心を露わにした私に、ヴィルヘルムは怒ることなく穏やかに、いろいろと教えてくれた。ヴィルヘルムのこと。この国のこと。何もかもが、私の知っている日本とは違っていた。この国には電気も車もない。けれど、魔法があった。ヴィルヘルムは目の前でいくつかの魔法を見せてくれ、驚く私に、嘘じゃないでしょうと笑った。最初に渡された光る小石は、あらゆる言語を翻訳する魔力を込めた魔石なのだという。石に触れると互いの言葉が理解できる優れもので、そのおかげで私はヴィルヘルムと言葉を交わせるらしい。試しに石を床に置いてみると、彼の言葉は外国語のように耳を通り過ぎ、全く理解できなかった。
私は体調を崩して学校から家へ帰る途中だった。気が付いたらここで寝ていた。元の場所に戻るにはどうしたらいいのかと尋ねると、ヴィルヘルムは困ったように眉を下げた。
「君は、異なる世界から来たんだろうね。珍しいことだけど、異世界からの来訪者の話は聞いたことがある。残念ながら、元の世界に戻る方法は解らない。…君さえよければ、部屋も余っているし、ここに住んでも構わないよ。これも、何かの縁だろうしね」
というわけで。私はこの日から8年間、18歳になった今も、この異世界で暮らしている。
*******
「ヴィル! ヴィルヘルム! そろそろ配達に行ってくるね」
玄関を開けると、広がる薬草畑。そこに蹲る黒い塊に声をかけると、塊の頭部分がこちらを向いた。初対面のあの日と同じようにフードを目深に被ったヴィルヘルムが、ひょいと片手を上げる。
「もうそんな時間か。気を付けて行っておいで、リッカ。村の人達によろしく」
はーいと答えて私は鞄を抱えた。中にはヴィルヘルムが処方した薬草が入っている。それを森の麓にある村まで配達するのが、私の仕事だ。この世界に来てから得た、私のお役目。薬師ヴィルヘルムの薬はとてもよく効くと評判なのだが、本人が人前に出るのを嫌うので、依頼人は森の奥にある家まで足を運ぶしかなかった。依頼人はご老人が多く、足場の悪い森に入るのは困難だと聞いた私は、薬の配達員に名乗りをあげたのである。私が配達を始めてから、依頼も貯えも増えていいこと尽くめだ。
この8年間で自分の庭と化した森の中を歩きながら、私は胸元で揺れる魔石を見下ろした。ヴィルヘルムの翻訳魔力が込められた魔石はペンダントに加工してもらって、肌身離さず大切に持っている。私の宝物だ。
緑鮮やかな木々をすいすいと避けながら歩いていると、いくつもの小さな光がふわりと寄ってきて、私の周囲を舞う。精霊だ。『リッカどこいくの』『お仕事?』『村へ行くんだね。力貸そうか?』幼児のような可愛らしい声が頭に響く。「大丈夫だよ、ありがとう」笑顔で告げると、精霊たちは残念そうに離れていった。
この世界には、魔法が存在する。魔法というものは精霊の力を借りて使うのだとヴィルヘルムが教えてくれた。精霊の存在を感じ、精霊に愛される者だけが魔法を使えるのだという。私は精霊が見えるだけでなく、話すことも出来るので、精霊の愛し子という、とても稀有な存在だと驚かれたものだ。
魔法が使える者を、この世界では魔導士と言う。魔導士の数は少なく、国の有事の際には重宝されるので、魔法が使える者は魔導士協会に登録しなければならないらしい。表向きは薬師であるヴィルヘルムも、登録済の魔導士だ。幸い、彼は既にお役目を担っていて、余程のことがない限り国から招集されることはないらしい。それを聞いたとき、ヴィルヘルムの身が安全ならば良いと安堵した。
『精霊の愛し子』である私には魔導士の素質があるらしい。魔導士は魔法を使う為に、呪文を唱えて精霊に助力を乞う必要があるが、愛し子である私に呪文は必要ない。魔法を使いたいと願えば、精霊の方から寄ってきて、力を貸してくれるからだ。愛し子は、魔導士になる為に存在するようなものだとヴィルヘルムは言った。
彼は、私に魔法の知識を与えた。ヴィルヘルムの翻訳魔力は強いもので、口語だけでなく書籍まで私の理解できる言語に翻訳してくれたのだ。そのおかげで、私は優秀な魔導士と書棚にある大量の魔術の本からたくさんの知識を得ることができた。その実力は、師匠であるヴィルヘルムを遥かに凌駕する腕前だという。
けれど、私は『魔導士』ではなく『薬師ヴィルヘルムの弟子』である。
魔法が使えるのなら、魔導士登録をするのかと尋ねる私に、ヴィルヘルムは言った。「人というものは、自分と違う存在を恐れるものだ」と。
魔導士という存在は、人々から恐れられるものなのだという。幼い頃は魔物憑きだと罵られ、化け物と呼ばれ、住処を追われることもあるのだと。魔導士が平和に暮らせるのは、魔導士協会のある城下町くらいらしい。森の奥に住むヴィルヘルムも、魔導士の素性を隠している。彼の表向きの職業は『人嫌いの薬師」なのだ。
異世界から来た、精霊の愛し子。私の存在が魔導士教会に知られたらどう扱われるかわからない。だから、ヴィルヘルムは決めたのだ。私にこの国と魔法の知識を与え、決して人前で魔法を使わないようにと。
元よりヴィルヘルムから離れるつもりなどなかった私は、一も二もなく頷いたのだった。
8年前のあの日、空から降ってきたという私を保護してくれたヴィルヘルム。彼は容姿が美しいだけでなく、とても優しい人だった。事態を飲み込めず、呆然とする幼い私を見捨てることなく、毎日話しかけてくれた。夜中、故郷を思って泣く私の背中を優しく撫でてくれた。慣れない庭仕事にまごつく私に呆れることなく丁寧に指導してくれた。彼の紡ぐ魔法はとても美しく、故郷を懐かしんで落ち込む私の気持ちを浮上させてくれた。
8年間。彼は私の成長を見守り、時に厳しく、私を導いてくれた。優しさも厳しさも兼ね備えたヴィルヘルム。魔導士である素性を隠し、薬師として人里離れた森の中に住む、人嫌いのヴィルヘルム。いつも真黒な外套を身に着け、フードを目深に被り、容姿を隠す彼。フードから覗く涼し気な口元。室内でだけ見せてくれる、灰色のさらりとした髪と、柔らかい優しい灰色の瞳。薄い唇から紡がれる心地よい声音。
惹かれないわけがなかった。12歳も年上の彼を想う感情が、親愛から愛情に変わったのはいつだったか。
私は、ヴィルヘルムを愛している。
*******
「リッカちゃん、今日も配達かい? いつもご苦労様」
「ありがとうございます! あ、チーズとそのパンを2つくださいな」
「はいよ、毎度どうもね」
薬の配達を終えたら、村の食料品店で買い出し。これも、私に与えられた立派な仕事だ。代金を支払い、品物を受け取る。芳しいパンの香りが鼻を擽り、私の頬はふにゃりと緩んだ。この店のパンは美味しいのだ。
「そういやさ、リッカちゃん。あんた知ってるかい? 海向こうの話。大変らしいじゃないか」
「ああ、聞いたことあります。ゼーラントのことでしょう?」
「そうそう! 嫌だよねえ、魔王と戦争するって話じゃないの。こっちに影響ないといいけど」
「そうですねぇ、嫌ですねぇ」
噂好きの奥さんと世間話をして、私は森に向かって歩き出す。荷物をよいしょと抱えなおし、私は茜色の空を見上げた。今日は少し遅くなってしまった。日暮れまでに戻らなければ。私は足を速めて、ヴィルヘルムの待つ家へと向かった。
ナトゥールラントの隣国、ゼーラント。海を挟んだ向かい側に位置するその国は、大変な状況だという。
魔王が、魔獣を連れて現れたのだ。
魔王は気まぐれに魔獣をけしかけ、村を襲うのだという。国を蹂躙され、怒ったゼーラント王は、騎士を集めて魔王討伐に動き出したそうだ。
魔王といえば、勇者。私の世界ではお馴染みのこの図式。この世界も例にもれず、そういった伝承があるのだ。こちらに来たばかりの頃、眠れない私にヴィルヘルムが話してくれた寝物語のひとつがそれだった。
魔王が、人々を恐怖と混乱に陥れて国が乱れると、強い力を持つ勇者とその仲間達が、魔王を倒すべく現れるという物語。ヴィルヘルムが話してくれたのは、この世界の伝承を素に作られた童話だった。が、現実に魔王が現れて、悪さを働いているのだ。そのうち勇者が出てきて魔王を倒してくれるのだろう。
なんせ、精霊がいて魔法があって、異世界から人間までやってきちゃう世界なのだ。勇者のひとりやふたりくらいいるだろう。
所詮、離れた隣国の問題。私には関係ない。
そう思いながら、私は薄暗い森の中を駆け抜けた。
隣国のことなんて、関係ない。隣国と魔王の戦争、魔王討伐。私には全く関係ない話だった。
そう、私には。
けれど、魔導士であるヴィルヘルムは、無関係ではなかったのだ。
「リッカ、よく聞くんだ。魔導士協会から招集命令が下った。魔王討伐のため、僕はゼーラントへ向かうことになった。魔王を討つまで戻って来られないだろう。…君は薬師の弟子。僕は、君を一人前の薬師として生きていけるよう指導してきたつもりだ。いいかい、リッカ。僕がいなくとも、君なら大丈夫だ。君は太陽のように明るく、愛らしい女性だ。村の人々にも愛されている。ひとりじゃない。だから、大丈夫だ」
何がどう大丈夫だというのか。魔導士協会? 招集命令? 魔王討伐? ヴィルヘルムが、戦争に行くというのか。どういうことだ。彼は先に担った任務のため、余程のことがないと招集されないと言っていたのに。隣国の魔王討伐は、それほどに重要なのか。
ああ、いやだヴィルヘルム。そんな静かな瞳で見つめないで。ちゃんと、帰ってくるんでしょう? 魔王を倒して、また、この森で。私と一緒に。
私は、あなたがいないと、大丈夫なんかじゃない。
目を瞠ったまま動けない私を優しく抱きしめ、ヴィルヘルムは自室に向かった。遠征の準備をするといって。旅立ちは、翌朝。
私は胸元に揺れる魔石を握りしめ、心を決めた。
ヴィルヘルムを戦地になんて行かせない。彼を、ひとりになんてするものか。彼は、私が空から降ってくるまで、この地にひとりで暮らしていたのだ。顔を隠すように、目深にフードを被って。
彼の過去に、何があったのかはわからない。人を避けるようになる何かがあったのかもしれない。けれど、彼は私を拾って育ててくれたのだ。優しさも、愛情も、たくさんもらった。ヴィルヘルム。私は、あなたと過ごす毎日がとても大切で、失いたくないほど幸せなの。
だから、私は。
「全力で、魔王を潰す」
魔王を倒しに、行ってきます。
*******
私は『精霊の愛し子』
私が望めば、精霊は力を貸してくれる。
風の精霊、シルフ。私を魔王の所まで連れて行って。ふわりと身体が浮遊し、風を切って宙を舞う。
夜の闇に浮かびあがる、紅い髪に禍々しく輝る瞳。魔獣を従えた魔王の紅の瞳が私を捕らえた。
私は空から魔王を見下ろして、にこりと微笑む。「こんばんは、魔王さん。この国で暴れるの、やめてもらえませんか? そちらにも事情があるかもしれないけれど、やめないのなら、私、本気出す」
魔王の纏う瘴気が膨れ上がり、ばさりと大きな翼を羽ばたかせて空に浮かぶ私と対峙する。視線で射殺すように睨みつけられても、私は恐怖を微塵も抱かなかった。魔王なんて、怖くない。
私が一等怖いのは、ヴィルヘルムを失うことなのだから。
魔王が逞しい腕を伸ばし、手のひらに魔力を集め始める。みるみるうちに大きく膨れる光球を細目で眺め、私は小さく呟いた。「交渉、決裂ね」
「火の精霊、サラマンダー! 大地の精霊、ノーム! 水の精霊、ウンディーネ! 風の精霊、シルフ! 四大精霊よ、私に力を! あの魔王を! 泣いて許しを請うまで痛めつけてやってちょうだい!!」
*******
翌朝、ヴィルヘルムの許に魔導士協会からの伝書鳩がやってきた。
そこには、招集命令が撤回された事と、速やかに先の任務に戻るよう記されていたという。