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脱出

 折原悠児は気を失っていた。

 突然、身体全体に激痛が走った。我慢できずに目を開けると、辺りは闇に支配されていた。

(一体、何が起きたんだ?)

 朦朧とした頭で記憶を辿った。

 身体がシートベルトで固定されている。どうやら車の中にいるのは間違いない。しかし意図しない方向に重力を感じる。

 視界が90度傾いている。

 そうか、崖から転落したのだ。ようやく記憶が追いついた。

 右肩から腕にかけて鈍痛を感じる。

 車が斜面を転がった際に、運転席が歪められた。右のドアが内側に大きく食い込んで、身体の一部を圧迫しているのだ。

 一方、両足は自由に動かすことができる。しかし横転した車内では、足は床につけることができず、だらりと宙に浮かんだ状態だった。

 闇の中で絶えず音が聞こえていた。水の音である。車内に水が流れ込んでいる。意識が完全に戻った今、足に冷たさが蘇ってきた。

 そうか、車は川に落ちたのだ。折原はようやく全てを悟った。

 開いたエアバッグのその先にフロントガラスがなくなっていた。車体が変形して吹き飛んだのだろう。おかげでそこから盛大に川の水が入ってくる。

 さっきよりも水かさが増している。もう膝の辺りまで上ってきていた。

 次に何が起こるのかを考えた。このままでは川に飲み込まれてしまう。一刻も早くこの場から逃げ出さなければならない。

 折原はシートベルトを外そうと、バックルに手を掛けたがびくともしない。しかし考えてみれば、外した途端に車内に溜まった水の中に落ちてしまう。

 頭が激しく混乱した。

(どうすればいいんだ?)

 折原は途方に暮れた。最早自分にやれることは、ハンドルをしっかり握ることぐらいしかない。

 水は容赦なくどんどん上がってきた。ついには身体の半分まで飲み込んだ。上流で降った大雨が川を氾濫させているに違いない。自然の猛威に為す術がなかった。

 いよいよ身体が埋没しそうになる。顔を斜めに向けないと息もできなくなった。もはやここまでか。死を意識した。

 その時である。

 突然、ふわっと身体が浮かび上がる感覚があった。何が起きたのか分からなかった。天の助けか。おかげで姿勢を変えることができた。身体を捻ってシートベルトの呪縛を解いた。破れたドアの窓から顔を出した。

 最後の力を振り絞って一気に身を乗り出した。

 折原は今、横転した車のてっぺんに登っていた。

 しかしのんびりとしてはいられない。闇の中、川の上流から黒い影が迫っていたのである。それは流木だった。この車に狙いを定めてぐんぐん近づいてくる。

 考えている暇はなかった。

 痛みも忘れて、車の上から飛び降りた。次の瞬間、耳をつんざく音とともに、大木が車の真ん中に突き刺さった。

 浅瀬に向かって無我夢中で転がった。途中、水を飲んで何度かむせた。それでも川岸まで辿り着いた。

 東の空が明るくなっていた。鬱蒼と茂る森の中、横を向いた車が大木を受け止めていた。それはまるで何かのオブジェのようだった。

 奇跡である。危機一髪で助かったのだ。

 折原は川岸から這い上がり、そして森の斜面を登っていった。骨の一つや二つが折れているのではないかと覚悟したが、身体が自由に動かせるところを見ると、それはなさそうである。ただし打撲による痛みを至る所に感じていた。

 道路まで戻って来たが、人も車も通らない。助けを呼ぼうにも、携帯電話がどこかに飛ばされてしまって連絡もできない。

 折原はずぶ濡れになった身体を乾かすため、休める場所を探した。

 自然と木造校舎が思い出された。

 ここからはそれほど遠くはない。朝になるまでそこで過ごそうと考えた。

 薄明かりを頼りに一人山道を歩いた。森の奥深くからフクロウの鳴き声が聞こえた。


 見覚えのある建物が見えてきた。

 折原は駆け込むようにして中へ入った。ずぶ濡れになったせいで、身体が凍えていた。木造校舎の中は暖かく感じる。

 心が落ち着いてくると、冷静な思考ができるようになった。

 車は崖から数十メートル谷底へ転落した。さらに川の水が迫ってきて、もうダメかと一時は諦めた。何しろ身動きが取れなかったのである。それなのに突然身体が宙に浮いた。

 あれは一体何だったのだろう。

 まるで誰かに引っ張られるような力だった。神様が手を差し伸べてくれたとしか言い様がない。常識では考えられないことが起きたのである。

 それはまさに奇跡と呼ぶに相応しかった。

 折原の足は廊下を進み、ある教室に吸い寄せられた。

 一夜を過ごした場所である。偶然とはいえ、また戻ってきた。

 そう言えば、思い出した。

 黒板には無難なお別れの言葉が書かれていたが、実は平和に見えたクラスも裏ではいじめが進行していた。その証拠に、ある机の裏側には悪意のある落書きが残されていた。

 折原はどうして自分がこの教室に立っているのか、不思議に思えてきた。何か深い意味があるような気がした。

 黒板に向き合って、生徒の名前を確認した。

 そこで戦慄が走った。

辻嶋つじしま景子」

 その名前には見覚えがあった。

 いつか遠い昔に出会った女の子がいた。白いブラウスの名札には、確かにそう書いてあった。もしかすると、夢に出てきた子なのかもしれない。

 彼女はおさげのよく似合う可愛い女の子だった。そう、誰かを探していた。そんな彼女を手伝った記憶がある。

 そして折原はさらに驚いた。

 もう一人、知っている名前に出くわしたのである。

 景子が探し求めていた人物だった。

 これは一体どういうことか。

 折原は居ても立ってもいられなかった。

 どうしても辻嶋景子に会わなければならないと思った。

 折原は校舎を飛び出すと、県道に出て車が通るのを待った。

 一時間ほどすると、工事用のトラックが一台近づいてきた。折原は大きく手を振って、道路の中央に立ち塞がった。

 坂道を登ってきたトラックはまるでスピードが出ていないので、すぐに停車させることができた。

 事情を説明し、携帯電話を借りて警察に連絡した。その後一日掛かりで車はクレーンを使って引き上げられ、同時に警察での事情聴取と病院での検査を受けることになった。

 折原はそんな時間ももどかしく、夕方には大学の図書館まで足を運んでいた。過去の新聞記事を調べるためである。

 該当する記事が一件見つかった。

 30年前のバス事故である。

 驚くべきことに、その発生現場は折原が転落した場所に近かった。

 運動会の朝、暴風雨の中をスクールバスが学校に向かっていたところ、土砂崩れに巻き込まれて谷底に転落したとある。

 犠牲者15名全員の顔写真と名前が出ていた。

 その内訳は、運転手一名と小学生、中学生が14名。

 一人を除いて全員の遺体が発見されていた。

 行方不明者というのは、辻嶋景子であった。

 彼女の顔には見覚えがある。記事の内容とは裏腹に、愛嬌のある顔で正面を見据えて写っている。自然と涙が出た。

 一方で、この事故には生存者が一名いた。

 バスの一番前に座っていた中学生が車外に投げ出されて、一命を取りとめたとある。

 折原はその女生徒の名前にも心当たりがあった。景子が探していた人物である。

 当時、この事故は衝撃的なものだったらしく、連日大きく取り上げられている。

 事故の原因は運転手の判断ミスとされたようだ。悪天候の中、彼は強引にバスを出発させたため、大惨事に繋がったと結んであった。

 折原はおやっと思った。

 その運転手の名字が辻嶋となっていたからである。

 ひょっとすると、彼は景子の父親ではないか。いや、きっとそうだ。このバス事故で親子が亡くなったのだ。

 折原は涙を拭いた。

 遺体が発見されなかった唯一の乗客、辻嶋景子はあの森の中に今もなお魂を宿しているのではないだろうか。そして偶然、同じ場所で転落した折原を助けてくれた。

 景子は無念であるに違いない。もちろん親子共々命を失ったせいもあるが、それ以上に事故の責任が父親にあると結論づけられたことは、到底受け入れられるものではないだろう。

 だからこそ、この事故の生存者に会いたがっていた。

 恐らく事故の真相を知りたがっているのだ。それは折原も同じ気持ちだった。

 しかし今となっては、その唯一の証人に会う術もなかった。

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