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ずぶ濡れの少女

 夕方出勤して店長と顔を合わせたが、昨夜のことは報告しなかった。

 そもそも彼は少女のことなどすっかり忘れていた。わざわざ寝た子を起こす必要はないだろうと思った。

 さすがに二日連続で彼女が店に現れたと知れば、どうして警察に連絡しなかったのかと責めるに決まっている。私は何事もなかったような顔で引き継ぎを済ませた。

 夜になると雨が降り出した。

 果たして彼女は今夜も現れるのだろうか。3日連続となれば、さすがに黙って放置する訳にもいかない。

 彼女には申し訳ないが、やはり警察に通報することも視野に入れておかなければならなかった。

 壁の時計は3時を指していた。

 夜が更けるにつれて、雨はますます強くなっていた。一応傘の用意はしてきたが、明け方までに止まなければ濡れて帰ることになりそうだ。

 深夜に、しかもこんな土砂降りでは、当然客足は遠のく。あの女子中学生も姿を見せなかった。私はやや肩透かしを食った気分で店内を巡回した。

 店内は激しい雨音に支配されていた。

 そんな騒音をかき分けて、何やら子どもの泣き声がしたようだった。短く甲高いその声は小動物なのかもしれない。私は足を止めて、雑誌の上から顔を出して外を窺ってみたが、暗闇を強い雨足が覆っていて何も見えない。

 ドアを開ければ、雨が吹き込みそうな勢いである。しかし声の正体を突き止めるため、ゆっくりとドアを開いてみた。

 私は心臓が飛び出るほど驚いた。

 何と軒下にあの少女がいたのだ。

 小さな背中を丸めてうずくまっている。すぐ隣にはダンボール箱があって、中から白い子犬が顔を出していた。

「お客様、どうかなさいましたか?」

 雨に濡れるのも構わず飛び出していた。

「この子、お腹が空いているみたい」

 おさげの髪から雨水が滝のように流れ落ちていた。そして白いブラウスがすっかり身体に張り付いている。

「君、びしょ濡れだけど、大丈夫かい?」

 子犬のことより、まずは彼女のことを案じた。

「こんな所では何だから、とりあえず中に入りなよ」

「この子はどうしましょう?」

 彼女はダンボールを大事そうに抱えた。そこには子犬の悲しそうな顔があった。

 店舗内に動物を入れることはできない。それはさすがに規則違反である。

 しかし今は彼女の味方をしてやりたかった。恐らく子犬と一緒でなければ、ここを動かないつもりだろう。

 子犬を連れて裏口へ回るように言った。彼女はすぐに立ち上がると、雨に打たれながらもスキップをするように向かった。

 私は一旦店に引っ込み、カウンターを抜けてバックヤードへ急いだ。そして裏口の鍵を外した。

「済まないけど、犬はそこに置いて。心配は要らないさ。雨に当たらない場所だし、廃棄する弁当をあげるから」

「ありがとうございます」

 濡れた頭でお辞儀をすると、水滴が飛び散った。

「さあ、中に入って」

 彼女は素直についてきた。歩くそばから床が水浸しになっていく。

「全身、びしょ濡れじゃないか?」

「これぐらい平気です」

 私は流し台のタオルを彼女に渡した。

「何か温かいものでも飲むかい?」

「いいえ、結構です」

 私は店に出て、売り物のバスタオルを二つ掴むとレジに現金を入れた。それから袋を破って中身を取り出すと、彼女の頭にふわりと載せた。

 どう話し掛けてよいのか分からず、

「君はこの近くに住んでいるの?」

 と訊いた。

「いいえ」

「でも、昨日も一昨日も来ていたよね?」

 彼女は頷いた。

「君は中学生だろ。こんな夜遅くに出歩いて、お家の人は何も言わないのかい?」

 そんな説教くさい言葉が気に障ったのか、彼女は口を真一文字に結んだまま黙っていた。自分が濡らした床をじっと見つめていた。

「別に君のことを責めてるんじゃないよ。警察から家出人を見掛けたら連絡するように言われているんだ。もし君が家出してきたのなら、通報しなければならない」

「違います。家出じゃありません」

 意外にもその声ははっきりとしていた。

「それならいいんだけど。いや、ちっともよくないよ」

 私は彼女の小さな身体を眺めた。

「だって中学生でしょ。こんな時間にうろうろしていたら危ないよ」

 しばらくそんな話をしていたら、後ろのモニター画面に激しい光の点滅が映っているのに気づいた。

 慌ててカウンターに出ると、窓の外には真っ赤なランプが見えた。警察のパトロールである。何とタイミングの悪いことだろうか。

 バックヤードに身を潜めている少女をどうしようか、そう考える間もなく店内に警官が入ってきた。

 適当に挨拶を交わした。

 もしここで彼女の存在がバレたら、厄介なことになるのは明らかだった。

 そこで予期せぬ事態が起きた。

 彼女が奥でくしゃみをしたのである。

「おや、誰かいるのかい?」

 すぐに警官は訊いた。

 わざとカウンター付近を忙しく片付ける振りをしながら、

「ええ、新人のバイトです。ちょっと体調を崩してしまって、中で休ませているのです」

「ふうん」

「何でしたら呼んできましょうか? ぐっすり寝ていますので、起こすのに時間が掛かるかも知れませんが」

 あくまで警官とは目を合わさなかった。胸の鼓動が高鳴って、相手に聞こえてしまうのではないかと、それだけが心配だった。

「いや、別にいいよ。お大事に」

 そう言って、警官は店内を一周すると帰っていった。パトカーの赤色灯が行ったのを確認してから、大きく息をついた。

 危なかった。もし今度誰かに見つかったら、実は彼女は妹で、雨の中迎えに来てくれたという話で押し通すことに決めた。


 徐々に外が明るくなってきた。いつの間にか雨は上がっていた。

 私はしばらくレジに立って客の相手をしたり、トラックで届けられた商品を搬入したりしていたが、時々バックヤードを覗くことは忘れなかった。

 彼女は眠くないのか、スチール椅子に腰掛けて、両足をばたばたと動かしていた。風邪を引かないかと、それだけが心配だった。

 バイトの交代時間になった。

 引き継ぎの同僚はバックヤードに女子中学生がいるのを見て驚いたようだったが、私は落ち着いた調子で、

「実はうちの妹でさ。ちょっとここで待たせてもらったよ」

 と頭の中で練習していた通りの台詞を言った。

「さあ、もう帰ろうか」

 着替えてから、優しく声を掛けた。

 彼女は突然立ち上がると、子犬のことを思い出したのか、慌てて裏口のドアを開けた。

 そこには空になったダンボールが残されていた。子犬の姿はどこにもない。どうやら腹一杯になって、どこかへ出かけてしまったらしい。

 彼女は放心していたが、

「あの子は独りで生きていかなければダメなんだよ」

 横顔に語りかけると、

「そうですよね」

 彼女は少し残念そうに答えた。

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