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少女は永遠の命を手にするか

 スクールバスはガードレールを突き抜けると、今度は妙な角度で浮き上がった。フロントガラスの風景がゆっくりと回転を始める。

 最後部の長いすに座っていた景子は、反射的に前席の取っ手を掴んだ。

 彼女の居た場所からは、車内の様子が見渡せた。バスが回転する度に、子どもたちの身体が宙に上がっては落下する。それを幾度となく繰り返した。車内は外からの圧力でどんどん歪みを増していく。

 不思議と悲鳴は聞こえなかった。

 バスが次々と木をなぎ倒す凶暴な音が、それら一切をかき消しているのである。経験したことのない恐怖が子供から悲鳴を奪っていた。景子も初めて死を意識した。

 かなり長い間バスは回転し続けたように感じられた。しかし実際はほんの数秒のことだった。最後に地響きがして最大の衝撃を受けた。ようやくバスの動きが止まった。

 辺りは静まりかえっていた。今バスの車体は左側面を下にして川床に受け止められていた。

 静寂が満ちていた。

 景子は恐怖のあまり目を開けることすらできなかった。自分が生きているのか、死んでいるのか、それすら分からないのである。

 それでもゆっくりと目を開いてみた。

 薄暗い空間が広がった。頭上には変形した窓が並んでいた。どれもガラスは打ち抜かれている。

 車内のどこかでうめき声がした。自分の他にも生存者がいるのだ。景子はそれを確かめようと身体を動かすのだが力が入らない。神経が抜き取られたみたいだった。

 意識がはっきりしてくると、水の音が異常なほど大きく聞こえてきた。そうだ、バスは川に転落したのである。やっと思い出した。

 だらしない格好をしたまま、すでに身体の半分が水に浸かっていた。不思議と冷たさは感じなかった。感覚が麻痺しているのだ。

 何とか姿勢を変えたいのだが、思うように動けない。どれだけ強い意志を注入しても、筋肉が言うことを聞かない。額から生暖かいものが流れ落ちた。どうやら出血している。

 しかしこのままでは死を待っているだけだ。景子は朦朧とした頭で考えた。

 もう一度身体に力をこめた。

 何とか顔だけ動かすことができた。シートの間から前方に向かって視界が開けた。至る所に不自然に折れ曲がった生徒の身体が散乱している。まるで動く様子はない。彼らはみんな死んでいるのか。

 いつの間にか、全身が水に浸かっていた。どんどん川の水が侵入している。ようやく身体が凍るほど冷たく感じられた。おかげで失いかけていた意識が戻った。次に起こる事態に備えなければならない。

 突如、クラクションが二度鳴らされた。それは瀕死の象の泣き声のようだった。運転手が生きていたのだ。

 景子の暗い心に一筋の光が差し込んだ。ひょっとしたら自分は父親に助けてもらえるのではないか、わずかな希望が生まれた。

 しかし川の水はもうあごの辺りまで迫っていた。これでは呼吸ができない。陸に上がった金魚のように何度も口を動かした。

 まだ死ぬ訳にはいかない。無理矢理上体を伸ばして運転席を見た。

 運転手はハンドルを握っていた。横転した車体で運転台は高い位置にある。そのため彼のところまで水は達していない。必死に身体を揺すっていた。シートベルトを外そうと奮闘しているのだ。

 景子は何とかして、父親に無事であることを伝えたかったのだが、それは無理な注文だった。身体は動かないばかりか、声は喉に張り付いて出ないからである。

 しかし父親は何かを悟ったのか、バックミラーの位置を調整してこちらに目を向けた。

 景子は前方を凝視した。今、鏡の中で親子の目が合った。父親は娘の存在に気づいてくれたのだ。

 もう水は顔の半分をすっかり覆っていた。それでもミラーからは目を離さなかった。

 彼は下に手を伸ばして何かを取ろうとしていた。

 一番前の座席に寄りかかっている女子生徒の腕である。何度か挑戦していたが、やっと掴むことができたようだ。ぐったりした身体を片手で一気に引き上げた。そして何かを叫ぶと、割れた窓から外へと放り出した。

「お父さん、助けて」

 ようやく発した言葉も水流によってかき消された。景子はついに水に飲み込まれた。最後の声は父親に届けることはできなかった。

 しかし幸運なことに、車内が水で満たされたことで身体が浮き上がった。

 再びバックミラーを通して父親と目を合わせた。彼は口元に笑みを浮かべると、安らかな表情で目をつぶった。

 それはこれから起こる事態に覚悟を決め、身を捧げた瞬間なのであった。

 その直後、前方から猛烈な勢いの水が襲ってきた。一瞬で息ができなくなった。バスはその水流で浮き上がるほどだった。車体を震わせて一気に下流へと押し流された。


 折原は最後に一つ女性に尋ねた。

「景子さんのお父さんは、あなたに何て言ったのですか?」

「それは今でもはっきりと耳に残っています」

 彼女の頬を大粒の涙が伝った。

「君が、景子の分まで生きてくれ、と」



 折原は大学卒業後、春から実家近くの中学校で教鞭を執ることになった。心を入れ替えて学業に専念した結果、念願の教師になれたのである。

 4月、入学式を終えて教室に入った。

 新入生が固唾をのんで見守る中、自己紹介で新人の教師であることを伝えた。みんなは一様に笑った。教師になって最初に受け持つ生徒である。この子たちのことは一生忘れないだろう。

 チャイムが鳴って、すぐに駆け寄ってきた女子生徒がいた。

「折原先生」

 妙に馴れ馴れしく話し掛けてくる。

 彼女の姿を見て驚いた。

 そこにはあの日の少女と瓜二つの少女が立っていたからである。まさかと思って、名札を確認した。やはりまるで違う名前がぶら下がっている。辻嶋景子ではなかった。

「先生、新人だからといって心配は要りませんよ。私、しっかり応援していますから」

 折原は苦笑すると彼女の顔をじっと見つめた。

(僕は教師になったよ。これも君と出会えたおかげだ。いつか君との不思議な体験を生徒たちに語ろうと思っている。信じてもらえるかどうか分からないけれど、いじめがない学校にできたらいいと思ってる。いつまでも見守っていてくれよ)


 目の前の少女の顔は、どこか得意げに見えた。



     完

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