30年前の真実
あの不思議な出来事から1年が過ぎた。
折原は命を救ってくれた少女の話を胸の内にしまっていた。たとえ話したところで、信じてもらえるかどうか分からなかったからである。
しかし辻嶋景子という中学生のことを一日たりとも忘れたことはなかった。
今、自分が生きていられるのは彼女のおかげである。しかし感謝しようにも、彼女のことは名前以外、何一つ知らないのであった。
折原は、事故が起きた日の同じ時刻に現場を訪れたいと思っていた。せめて景子の命日に花を手向けたいという気持ちからである。それは今の彼にできる最大限のことと言ってもよかった。
それにあわよくば、彼女が再び現れるのではないか、そんな期待もどこかにあった。
一年前と同じ道を辿っていた。
あの時の転落事故で、買ったばかりの中古車は廃車になってしまった。そのため今日はレンタカーを借りてきた。
夜中に自宅を出て、森の中で夜明けを迎えた。朝日が目に眩しかった。鮮やかに色づいた山肌がドライバーを飽きさせることはなかった。
ブラインドカーブが続く。
折原はハンドルの操作に集中した。どうしてもあの日の事故が思い出される。現場が近づくにつれて緊張感が高まった。
それにしても、彼女はまだこの森に生きているのだろうか。もしそうであるなら、事故に遭っても助けてくれるだろう。折原はそんな不謹慎なことを考えた。
きっとお節介な景子のことだ。人の温もりを忘れられずに、きっと森の守り神を続けているに違いない。そう思うと、ふっと笑みがこぼれた。
カーブを曲がったところで、谷を挟んだ反対側で何かが動いた。
すかさずブレーキを踏んだ。車は横滑りしながらも停車した。
身体を捻って後方を確認すると、確かに人影が見える。人気のない山中で一体何をしているのだろう。
折原は反対側に渡りたかったが、ここに来るまで橋の類いはなかった。仕方なく車を先へと走らせた。しばらくすると、ようやく吊り橋が見えてきた。
待避所に車を停めて橋を渡った。駆けていくと橋は大袈裟に左右に揺れた。下にはごつごつした岩とそれを縫って流れる川が見えた。水の音も聞こえてくる。
反対側は車が通ることのできない小径だった。なるほど、これではカーナビに出ていない筈である。
折原は駆け出した。
もたもたしていたら、さっきの人影はどこかに消えてしまうかもしれない。そんな不安から自然に足を速めた。
遠くに女性の姿が見えた。今まさにその場を立ち去ろうとしている。どうやら間に合ったようだ。
「すみません。ちょっと待ってください」
思わず声を上げた。
中年の女性は気づいてくれた。ぼんやりとした顔で佇んでいた。
折原は吊り橋からずっと走り続けていて、心臓が飛び出しそうだった。女性の前に来てもしばらくは言葉が出なかった。
「大丈夫ですか?」
女性が声を掛けてくれた。
「失礼ですが、こちらで何をされていたのですか?」
息も途切れ途切れに訊いた。
彼女はゆっくり背中を向けると指をさした。その先には小さな石碑が立っていた。
「これは?」
「その昔、ここでバスの転落事故がありまして、犠牲者をまつってあるのです」
折原は膝をついて、石碑と向かい合った。
事故の日付と犠牲者の名前が彫られている。確かに辻嶋景子の名前もあった。
本当なら、私の名前もそこに刻まれる筈だったのですよ」
女性は淡々と語った。
「ということは……?」
「私は事故の唯一の生存者なのです」
折原は相手の名前を口にした。その通りですと、彼女は頷いた。
ようやく探し求めていた人に会うことができた。景子の望みがついに叶った。
「毎年事故が起きた日がくると、ここへ来て祈りを捧げているのです。当時あれだけ多くの人が亡くなったというのに、私だけが助かってしまって本当に申し訳なく思います」
折原は黙って聞いていた。
「私は運転手さんに助けられました。たまたま一番前の席に座っていたからです。何という運命のいたずらでしょうか、運転手さんの娘も同じバスに乗り合わせていたのに、彼女は帰らぬ人となりました。いまだに遺体すら見つからないのですよ。川を下って海に出たのかもしれません」
女性はいつしか涙声になっていた。
「実は僕も去年、30年の時を隔てて転落事故を起こしました。信じてもらえるかどうか分かりませんが、事故直後、彼女が僕を引き上げてくれたおかげで助かったのです」
女性は真剣な眼差しで聞いていた。折原の言うことに何の疑いも持っていない様子だった。
「ひょっとして、彼女は生きているんですか?」
答えに窮したが、
「僕の心の中では生きています」
と言った。
「景子さんとは話をされましたか?」
「はい、夢の中なので、はっきりとは思い出せませんが、いろんな話をしましたよ」
「私のことを何か言っていませんでしたか?」
女性は勢い込んで訊いた。
「あなたのことを探しているようでした。会いたがっていました」
「たぶん景子さんは、私のことを恨んでいるでしょうね。私は唯一の生存者として、警察に嘘の証言をしてしまったからです。事故の原因は運転手の判断ミスだったと。
しかしそれは真実ではありません。当時私はただ怖くて、正しい証言ができなかったのです。今にして思えば、命の恩人である運転手さんの名誉を著しく傷つけてしまった」
「それに景子さんをいじめていたのではないですか?」
女性は驚いた顔をした。
「はい、おっしゃる通りです。私たちは都会から転校してきたばかりの彼女をいじめていました」
折原は教室で見た机の落書きを思い出した。
「この世に生き残った私は、あの親子にどう詫びればよいのか。毎日そればかりを考えています。せめてもの罪滅ぼしにと、ここで祈りを捧げているのです」
彼女はうな垂れた。
「景子さんはあなたのことを恨んではいないでしょう。そんな弱い人間ではありません。勇気ある父親を誇りに思っている筈です。その証拠に、事故に遭った僕を助けてくれました。もし彼女が人間不信に陥っているなら、こんな見ず知らずの人間を助けることはなかったでしょう」
彼女は黙って聞いていた。
「本当にそうでしょうか?」
「きっとそうです。僕が会った少女はとてもいい子でしたよ」
折原はいつしか涙ぐんでいた。それを悟られないように空を仰いだ。
(景子、きっとそうだよね。この女性はあの日の罪をずっと背負ったまま生きている。それを知ったら、もちろん君は許してくれるだろう?)
折原はむせび泣く女性の肩に優しく手を掛けた。
「あなたが罪の意識にさいなまれ、僕に真実を正直に語ってくれたことで、きっと景子は満足していると思いますよ」