第九話 チカンガール・ノート
「どこなのよここ……」
森の何が怖いかと言えば足を踏み入れるまで深く恐ろしい場所であるということに気づけないことだ。生い茂る草木の陰に本質など簡単に隠され、安全な場所にいながら背伸びして覗きこもうとも、確認できる部分などたかが知れている。軽い気持ちで歩を進め、引き返せないところに来てから後悔がはじまるのだ。
「いたっ……!」
あてもなく歩きまわっていると突然二の腕に痛みが走り、見ると小さな傷口がうまれていた。小枝かなにかに引っかけてしまったのだろう、と合点しかけたとき、茂みががさりと鳴った――誰かいる。刃物のきらめきが、茂みに、潜んでいる。
「うあ……っ!」
気づくなり駆けだしていた。右も左も分からない森を右でも左でもいいからとにかく安全なほうへ。たった一歩でも逃れるため、自分の準備不足を恥じながらもとにかく前へ前へ。追いかけてくる何者かの指先が届かない場所へ。傾斜があり小石や木枝が転がり決して走りやすいとは言えない場所を駆けながら、敵の数が徐々に増えていることにも気づいていた。それでもとにかく前へ。放たれた弾丸が脇をかすめようとも前へ。光が見えた。
「ママぁ……っ」
森を抜け辿りついた自宅には母の姿があり、やっと抜けだしたのだという実感に胸が鳴った。
「ママただいま! わたしねもうだめかと思ったんだけど、ちゃんと無事に帰って……」
「なにやってんのあんたは」
「え……?」
「なんで勝手なことをしたの!? 家にいなさいとあれほど言ったでしょ!?」
「ご、ごめんなさ……」
「いくら言ったってわかんないんならそこに入ってなさい! 泣いたって出してやらないからね!」
「あ、ま、待ってよママ。ごめんなさ、ごめ、だ、だして、出して! ママ、ママ……ねぇママ……まだそこにいるの、返事してよ……」
そもそもどうしてわたしは家を出たのだろう、どうやってあの森へ行ったのだろう。思い出せることはひとつもなく、母の吊りあがった眉の形ばかりが暗闇に残る。涙がこみ上げる。胸が苦しい。胸が――
「あ、起きちゃった」
苦しさと圧し掛かる重みに目を覚ます。わたしは自室で、可愛らしい装飾のベッドにあおむけに寝ていた。ぼやける目をこすると、腹の上に重みの正体――くりくりとした目、はっきりとした口や鼻を持つ、ポニーテールの華奢な少女が乗っていることに気づいた。しかも少女はあろうことか、馬乗りの状態でわたしの胸をわしづかみにしていたのだ。気づいた瞬間悲鳴をあげてしまった。
「なっ、なに、なにっ!? 誰っ!? はなして!」
「センパイおはようございますです! わたくしめは姫百合学園中等部二年、七里みうと言うです! 以後おしりおき……お尻? あーえっと……仲良くしてください!」
「ちゅ、ちゅーとーぶ……? なんで中等部の子がここに……?」
「わたしの部屋も中等部寮の三階なので、窓から渡り廊下の屋根に降りて高等部寮まで見つからないように走ってこっちの庭の木に飛び移って窓から入ってここまで来ましたのです!」
指差す方向には部屋の窓、そして窓の向こうに、わたしたちの寮や講義棟よりも一回り小さな建物がある。学園のことなど知らないことばかりでかえって気にとめずにいたが、どうやら学園には下級生が生活するエリアが存在しているらしい。よく見ると彼女は、わたしが日中着ているものとよく似た制服を身につけているが、プリーツスカートがどこかあどけない赤チェックであることなどディテールが異なっていた。
「いやそういうことじゃ……っていうか木!? すごいね!? なにそれ!?」
「ふっふーん真正面からじゃ入れないと思ったからですぜ! 基本的に中等部の人間は高等部のおねーさま方にソソーないように不要な面会を禁止されていますですので、ここへ来るにも一苦労であったです」
「そんであなたは何の用があってそこまでしたの……?」
「会いたかったから!」
ほとんどふんぞり返るように自信満々に言われてしまうと、多少の疑問などぶん投げざるを得なくなる。いまだ腹部に重みを感じたまま、顔を引きつらせながら寝起きの頭を強引に覚醒させる。
「窓から侵入ってありえないと思うんだけど誰かに見つからなかったの? うちのルームメイトとか何も言ってなかったの」
「へ? 誰にも会わなかったですけどです」
「っていうかあなた、外国の方?」
「あー生まれはブラジルです」
「ブラジル!?」
「うん。でもそれはお母さんが臨月迫ってるのに無理して海外行ってむこうで出産したからですぐ日本に帰ってきてるし両親日本人だからゴリッゴリの日本人でおま!」
「そ、そうなの……? 信じられないんだけど……」
「なんで? 顔がくどくて日本人離れしてるっていうのはよく言われるけど」
「いや外見もだけど……ことば……」
「あ、わたくしめはただただ頭が悪くて、とくに国語は大の苦手教科なので失礼があったらだめなのでいっぱい敬語勉強してきましたのです!」
「あー……そうなの……」
「なので今のところ、失礼はまだないとジフしてますです!」
「ああ……うん……」
人目を盗んで部屋に侵入し寝込みを襲って乳を揉む、なんて失礼の極みであるような気もするが、自信に満ちた表情で自負されれば頷かずにはいられない。
「でもとにかく、会いたいってだけならもっと方法があったでしょ? 段階っていうかさあ、次からはいきなり部屋に侵入なんて絶対しないで」
「……」
「あっ、ちょ、ちょっと!? なんなのいきなりどこ行くのよっ!?」
大切な話をはじめてすぐ、七里さんは突然わたしの身体から飛び降りベッドも降り、その勢いのまま窓枠に手をかけるとひらりと軽い所作で三階の窓からさえも飛び降りてしまったのだ。マイペースなそれまでが嘘のように思える俊敏さをなぜこのタイミングで思い出したのか、それから三階の窓から飛び降りるという大胆すぎる行動の結果は。というより何がしたかった胸が揉みたいだけなのか。聞きたいことが多すぎて「待ってよ!」と叫びながら立ち上がろうとするも、寝起きの足はもつれ、そうしているあいだに今度は廊下とを隔てるドアが開いた。
「よう寝ぼすけ王子。なーにをひとりで騒いでんだ? 朝食の時間だってのにちっとも起きてこないで騒ぎたてやがって」
そしてそこには、氷見さんが立っていた。ここでようやく時計を確認したのだが起きるべき時間をとっくに過ぎ、寮で決められている朝食の時間も終わりホームルームがはじまろうという時間に差しかかっていたのだ。
「いや違うんです! わたしじゃなくてー……」
「あァ? 言い訳か?」
「いや! さっき女の子がいて、そこの窓から……!」
「……なんだ? 誰もいないじゃねぇか」
蒼ざめながら必死に窓を指さすと、氷見さんはずかずかと部屋に入り窓から身を乗り出した。が、そこにお騒がせ者の姿は見つからなかったらしい。
「あ、あの、氷見さん……つかぬことをお伺いしますが、中等部ってありますよね」
「あぁ」
「中等部の寮は、誰が管理してるんですか?」
「わたしだよ」
「え!? この広い寮だけじゃなくて中等部のほうまで氷見さんが!?」
「まあ、ひとりで全て管理ってのは確かに無茶だけど、だからこそポイントシステムっていうのがあるしな。とは言えやっぱり、お前らの悪行はこの手で成敗したいと思ってるよ。特に寝坊とか遅刻とか、そういうルーズな人間はなァ」
開け放したままの窓から差し込む爽やかな朝の陽を浴び、笑う氷見さんは狂気をまとっている。まさかあの子は、氷見さんの足音に気づいて逃げだしたのではないか。さては常習犯か――
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「お、お腹空いた……」
当然朝食を食べる時間もなく、それどころか午前の4時間授業のあいだの10分休憩の度に氷見さんに呼び出され、監視下でトイレ掃除や中庭の草むしりといった罰を受けていたのだ。すれ違った人たちははじめ「王子何してるんだろう……?」と遠くから眺めていたが、次の休み時間には「王子の庶民的な姿が見れると聞いて」などと言いながら増殖し、最終的には廊下で膝をついて雑巾かけしている姿を四方八方から写真を撮られるという精神的な苦痛を味わった。
ようやく昼休みがやってきて授業と掃除の繰り返しから解放されたとき、空腹は凶悪な魔物になって内側から襲いかかっていた。幸い「昼食抜き」は免れたものの、教室からカフェテリアまでの道がはるか遠く感じ、ふらふらと歩くことしかできない。
「だらしないなー、朝メシちゃんと食っておけばいいのに」
「うわあ青梅さんには言われたくない……」
「大丈夫ですか? 蚕なら部屋にありますがとってきましょうか?」
「いや大丈夫ですほんとに大丈夫です」
いつもの四人でカフェテリアを目指すも、慣れた会話の中に葛西さんは入ってこない。思わず突き飛ばしてしまったあの日から、葛西さんとはまともに話が出来ていなかった。とは言え普段青梅さんや赤羽さんが行動を共にしてくれるため特別気まずくなることもほとんどないのだ。
「え、赤羽さんまだ蚕ってあるの!?」
「ありますよ」
「じゃあ昼飯終わったあとのデザートにしていいかな!?」
「はい。ではカフェテリアに行く前にとりに行きましょうか」
「そうする!」
「は!? ちょ、ちょっと待ってよ二人とも!」
……こういう場合を除いては。蚕という言葉にすかさず反応する青梅さんは、時々二人で抜けだしてしまうのだ。取り残されたわたしと葛西さんは、寮へ続く渡り廊下で立ち尽くしてしまう。
「……あの」
「……」
「葛西さん、このあいだは……」
いつまでもこの気まずい空気を引きずりたくはないので、謝るための言葉を用意しながら背筋を伸ばして向き合った。ちょうどそのとき。
「綾織さんっ! お腹空いてませんか?」
「え……え?」
声をかけられ振り返ると、大人しそうな女生徒がふたり立っていて、胸に抱えた紙袋を差し出してきた。
「よかったらこれ食べてください……今カフェテリアで買ってきたベーグルです」
「え、いいんですかありがとうございます」
「あと、ベーグルだけだと栄養バランスが良くないのでこのシーザーサラダも食べてください」
「あ、ありがとうございます」
「今日朝食の時間にいらっしゃらなかったから心配してたんです!」
「そうだったんですか、それは嬉し……」
い、の言葉をきっちりと発音するより早く、その言葉を聞きつけた生徒たちがどこからともなくぶわっと集まり、いつの間にか囲まれてしまった。
「王子! 校内の掃除ありがとうございます! 空腹でしょうからメンチカツパンをどうぞ!」
「あ……あの……」
「王子喉は乾いていらっしゃいませんか!? 南アルプスの天然水をご用意しましょうか、それとも香り高い紅茶の方がよろしいでしょうか!?」
「い、いや……」
一体どこから湧き出たのか、と言いたくなるほど一気に膨れ上がった生徒たちに囲まれ、もみくちゃになりながら食べ物や飲み物を差し出される。空腹を心配してもらえるのは有難いのだが、それぞれ主張する影と声とが重なり合い視界も悪ければ言葉も聞きとれない。数分前まで一対一で向き合っていた葛西さんの姿も飲みこまれてしまった。混乱の中、後ろから伸びてきた手がどさくさ紛れに、むんず、と遠慮なくわたしの胸をわしづかみにした。
「ひあああっ!?」
慌てて首だけを回して振り返ると、背中に赤チェックの刺客、七里さんがしたり顔で張り付いていた。
「……てへっ」
「ちょ、あ、あんたまた……! なにやってんのよ!」
「オネーサマに会いたくてまた来ちゃったです! この感触が恋しくなってしまって……まだあたち子どもだから乳離れできないのもしょーがないですわこれ」
「また中等部から抜けだしてこっちに忍び込んだわけ!?」
「それは人聞きクソ悪ーい! 今回は人波に紛れて堂々と正面突破したですから不法侵入等ではないですので!」
「いいから手をはなしなさい!」
「えーどうしよっかなー」
七里さんは呑気にとぼけるばかりで、そのあいだにもてのひらはもにもにと容赦なく胸を揉みしだく。ふと顔をあげると周囲に集まっていた生徒たちのあいだに異様な空気が漂っていることに気づいた。皆、照れるとも喜ぶともつかないなんとも言えない表情でわたしの胸元に目を向けている。何が悲しくて、生徒に取り囲まれ胸を揉まれる姿を至近距離から見つめられなければならないのか。
「ちょ……っ、や、やめ……いい加減に……」
不健全に途切れる言葉を必死に紡いで抵抗しようとしたとき、耳をつんざく甲高い声が響いた。
「いい加減にしてえええ!」
わたしも、七里さんも、その場にいた全員が動きを止め声の主に目をやる。そこには目を血走らせた葛西さんが、体中から殺気と熱気を立ち上らせながら仁王立ちしていた。