第八話 私のうちなる俺
きりきりと緊張した空気が耳もとで神経質な音を鳴らし、周囲の会話や雑踏がそっと遠のいていく。葛西さんは怒るでも泣くでもなく、渦巻く感情をまぶたの内側に溜めこんでまっすぐ私を見ている。
「こはるー! いきなり飛び出すなよお、せっけんで手洗ってるときだったから泡びしょびしょだったのにさー!」
背後から駆け寄ってきた青梅さんはまだ指先に水滴をしたたらせながら困ったように笑っている。追いかけっこを楽しむ海辺の少女のような彼女は、対峙するわたしたちの特殊な空気に気づいて足を止めた。
「へ……どうした? こはる?」
青梅さんが名を呼ぶと、読みとりづらい色が染み込んでいた葛西さんの表情がふと楽になった。まあるい目をぱちくりとさせ、この二日で早くも馴染みの存在になった、優しい表情を取り戻したのだ。
「ご、ごめんなさい綾織さん……なんでもないです! ちかげもごめんね。授業はじまっちゃうし、教室行こう?」
「あ、うん……」
身を翻し講義棟へ向かっていく葛西さんが最後に見せた表情は、それまでの印象通りの穏やかでやわらかなものであったために、夢とは考えにくい数秒前の表情がかえって恐ろしい記憶として残ってしまう。
「青梅さん、トイレでなにかあったの?」
「んー……? 個室にいるとき綾織さんの隠れファンみたいな人たちが話してた声が聞こえてきて、急にこはるが飛び出して行っちゃって……でもなんであんな必死になってるんだろうな?」
結局謎は謎として残ったまま教室へ向かうこととなった。葛西さんの後に続いて入った教室にはすでに千駄ヶ谷先生の姿があり、着席してすぐチャイムが響いた。それを合図にして、寝起きの耳には暴力的すぎる明るい声が響いた。
「はーい、みんなおっはよ~! 昨日はよくねむれた~? ホームシックで眠れないって人は手をあげてね~さみしい気持ちを紛らわすために特別にわたしの秘蔵ダガラズカDVD貸してあげるよ~! さて。王子は一日目、どうだった!?」
「わたし、ですか!? えっと……初日から氷見さんに怒られてしまって夕飯を抜かれてしまったので今日からは注意されることのないように……」
思ってもいないタイミングで話を振られ過ぎ去った前日について考えたとき、やはり氷見さんの名前は外せなかった。共感を得られるだろうかと口にした名前に、千駄ヶ谷先生はマイペースな笑みをあとかたもなく消し、トラウマをほじくり返されたように微かに震えさえしながら、俯きがちに口を開く。
「あの人は……鬼よ。とにかく曲がったことが大嫌いで自分が間違っていると思うことは相手の意思を折り曲げてでも矯正させるの。昔、逆らった生徒が行方不明になったっていう都市伝説があるくらいだからね……」
「そ、そんなにひどい人なんですか」
「わたしも昔、私物のダガラズカDVDを叩き割られて窓から捨てられたことがあったの……」
「ええ!? 生徒だけじゃなくて先生にもそこまで厳しいんですか!?」
「そう。何カ月も前から待ちに待ったDVDの発売日、手に入れた瞬間嬉しさで涙がこみあげるようだったの……。その日は授業も全部自習にして寮のロビーでこっそり鑑賞していたら氷見さんに見つかって……」
「授業サボって見てたんならそれは怒られるでしょ」
思わず口にしてしまった言葉に、千駄ヶ谷先生が言葉を失った。あ、やべ、と今さら唇を噛むわたしの周りで、クラスメイトたちがひそひそと呟く声が聞こえる。「王子それはだめです」「それを言ってしまったらこじれるだけなんです王子」「とつぜんの正論わらた」――そして皆、固唾をのんで千駄ヶ谷先生の返事を待つ。
「……はい! そろそろ授業がはじまりますからね~! 学生の本分は勉強! 無駄なおしゃべりはしないで、授業の準備をしましょうね~!」
千駄ヶ谷先生は嘘のように明るい声で嘘のような「良い先生」のコメントを残し、尻尾を巻いて教室を飛び出して行った。一時間目が始まるまでまだまだ時間の残る教室に、青梅さんの爽快な笑い声が響き渡る。
「うはははは! あの先生相手に正論言うのってなんかめちゃくちゃ面白いなー!」
「しかし、誰がどう聞いても綾織さんが仰られたことが正しいはずです」
青梅さんは片腹を押さえながらひいひい笑っている。赤羽さんは静かに頷きながら共感を示している。葛西さんは、かろうじて口もとに微かな笑みをくっつけながら、俯いて黙っている。
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「んあああ腹減ったー!」
にぎやかなカフェテリアに、一層大きく響いたのは青梅さんの声だった。わたしは箸を握ったまま、思わずため息をついてしまう。
「昼ごはん食べたそばからそんなこと言うの?」
「だってこんなもんじゃ足りないんだよー……なんで朝飯は食べ放題なのに昼飯は量が決まってんのかな……あー……朝もっと食べておけばよかった……」
12時を回り午前の授業が終わると、皆いちど講義棟を離れ寮へ戻ってくる。朝食や夕食と同じく昼食もまた寮のカフェテリアでとるためだ。バイキング形式の朝食と違い、ランチタイムはトレーに主食・主菜・副菜・汁物・果物がバランスよく並べられた定食がメニューを彩るため、青梅さんのようにスポーツをする人には物足りなく感じるのかもしれない。
「あ、そうだ赤羽さんあれないの?」
「あれ、ですか?」
「昨日持ってきてくれたやつ」
「ああ。部屋へ戻ればまだ沢山ありますよ」
「まじで! それもらってもいい?」
「ええ。沢山ありますのでどんどん食べてください」
青梅さんは先ほどの空腹に耐えかねた苦しげな表情から一変、目を輝かせ「あれ」へ思いを馳せる。まさか、まさか、と思いつつ、わたしは唯一の心当たりについて尋ねた。
「ひょっとして……蚕?」
「あ、綾織さんももらった!? あれさー、赤羽さんにもらってはじめて食べたんだけどめっちゃうまくない!? 見た目とかちょいグロいのに食べたら美味しくてハマっちゃってさー! あんな美味しいもん食べたことないわ!」
何故『まさか』はいつも的中してしまうのか。口に運ぶことはおろか、見た目だけでギブアップしてしまった差し入れは、実は青梅さんに大好評の一品だったらしい。
「では、部屋に取りに行ってきますね」
「え? 後でもいいよ」
「そんなこと言ってたら昼休み終わっちゃいますよ」
「じゃーわたしも行くー! ごめん、二人とも先に教室行ってて!」
食べ終わったトレーを持って立ち上がった赤羽さんを、青梅さんがよく懐いた小型犬のような無邪気さで追いかけていく。「二人とも」というのはつまり。
「じゃ、じゃあ……いこっか、葛西さん」
「……はい」
朝の一件以来会話を交わせていない葛西さんと、教室まで二人きりであるということだ。トレーを片付け教室を目指すあいだも互いに会話はなく目も合わない。廊下には誰もおらず広く綺麗なあまりに二人の距離感を誇張し、会話なしに歩くには足音ばかりが響きすぎる。
「あ、あのさー……」
「……」
「葛西さんももらった? 蚕。わたしあれもう見た目が無理で食べなかったんだけど、食べたら案外美味しかったのかなーなんて……」
空虚を埋めるための会話は妙に白々しく、黙っていればよかったと思っていたとき、葛西さんが予想に反した明るい声で返事をした。
「わたし、持ってますよ?」
「え?」
「このあいだ赤羽さんが配っていたものと同じもの、今持ってます」
「あ、そうなの? あれってそんなにみんな持ってるものなの?」
「いりますか?」
「え、いや……そういうわけじゃ…点」
「食べさせてあげますよ。目、閉じてください」
葛西さんは穏やかな表情で足を止めた。あくまで話題のひとつであり本当は食べたくなんてないんだ――と言い出すことなどできず、いやむしろ食わず嫌いに耐えればこじれかけた友人関係を修復できるなら安いものだ、と意を決して目を閉じる。
「――ッ!?」
くちびるに触れたものは蚕よりもっと繊細で、密やかな熱を帯びていた。
この感触は、不本意ながらもすでに一度知るきっかけのあった感触だ。顔を背けたわたしを追うように葛西さんはさらに距離をつめ、わたしはいつの間にか廊下の壁に追いこまれていた。
「な、なにすんのいきなり!」
「だって先輩とはしたんでしょう? 赤羽さんとも」
「はぁ!? してな……」
「なんでだめなんですか、先輩や他の方々とは仲良く楽しくしているのにどうしてわたしとはだめなんですかなんでこそこそするんですかわたしだってわたしだって仲良くなりたいもっともっと綾織さんと……なつちゃんと、仲良くなりたいのもっと近くなりたいの近くにまで入り込んじゃいたいの」
迫りくる葛西さんの闇をはらんだ表情に、咄嗟に覚えたのは身の危険だった。それは名古屋先輩に迫られるときよりも切実な、危害を懸念する類のもので、ふんわりと優しい雰囲気を失くした葛西さんが内側に潜む攻撃性を表出させはじめたことに足が震える。
ほとんど衝動的に葛西さんを突き飛ばしていた。よろめいた葛西さんはその場に尻を打ちつけ顔を歪めた。わたしは追いうちをかけるように、彼女を見おろして怒鳴りつける。
「あんたには関係ないでしょ!」
たとえ真実であっても言うべきでないことというのはたくさんあり、多くの場合取り戻せなくなってから気づく。
遅れて教室にやってきた葛西さんと、その後会話を交わすことはなかった。午前と同じように授業がはじまり、授業が終われば昨日と同じように夜が流れる。今日は夕飯を抜かれなかったし、入浴中にトラブルに巻き込まれることもなかった。眠れば朝が来て、起きれば前日の行いが数値化され、ボードに映し出される。
「……どうすりゃいいのよ……」
朝の光が差し込む部屋で、頭を抱えてしまったのは、思い当る節がただひとつしかなかったからだ。
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