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第六話 蚕と6ペンス


 虫の音が響く冷えた夜のふちで、わたしたちは口がきけなくなった者のように見つめ合い、ふいに我に返って時間が再生をはじめる。


「な、なに仰るんですか……!?」

「ほんとね、何言ってんのかなわたし……」


 少なくともやましい意味合いはなかったはずなのに、一度意識してしまうと取り返しのつけられない失態を犯したかのような気持ちになる。ああきっと先輩方に、「変な気」を注入されてしまったのだ。


「わたし今まで友達もできたことないし、面白いことも言えないですし、ほんとうにつまらない人間ですから……」

「そんなのわたしだって同じだよ」

「え、でも綾織さんは冗談言うじゃないですか」

「は? 言ったことないよそんなの」

「だって、好きなハルキはハルキムラカミとか……」

「ごめんお願いだからそれ忘れて今すぐ忘れて」

「……羨ましいんです、わたし」


 密やかな言葉を皮切りに、ヴェールにつつまれていた赤羽さんの素性が表出しはじめる。


「両親がすごく厳しくて、禁止されていることも多く交友関係にも口出しをされていたので、人生経験も極端に少ないし皆さんのように特別に好きなものや誇れるものがないんです」

「ああ、青梅さんや葛西さんは好きなものがはっきりしてるもんね」

「はい。この学園への入学も、中学一年生の冬から何度も何度も両親に頼みこみ、反抗期だなんだと騒がれながらようやく許されたんです」

「そこまでしてここに入りたかったの? なんで?」

「学校にあったパンフレットを見て、ずっと憧れていたものがここにならある、と思ったんです」

「葛西さんみたいにまんがの世界に憧れてたの? あ、ちがうか。まんがじゃなくて小説だっけ」

「いえ。我が家では漫画も小説も俗物として扱われていたので、母の目を通して事実に基づいた健全なものだと判断された一部の学術書しか与えられていませんでした。中学に入り、同じ審査の末一部の歴史小説が許された際にはこんなに面白いものがあるのかと興奮して鼻血を出したくらいです」


 脳内に今よりも少しあどけなさの残る赤羽さんが歴史小説を読みながら鼻血を出して卒倒する映像が浮かび、コミカルさに笑ってしまいそうになったが赤羽さんはなおも真面目な表情を崩さず淡々と話すのでぐっと堪える。


「わたしにとって、最も心惹かれる本は教科書でした」

「きょうか……え? 教科書? 学校でつかうやつ? 国語とかの?」

「そうです。社会科の資料集だとか、地図帳だとか。でも一番楽しかったのは美術の教科書ですね」

「楽しかった、っていうのは……」

「まず絵や図が入っている本っていうもの自体、買い与えられたことはありませんでしたし、その上写真で、しかもフルカラーで、こんなに面白いものはなかったんです。毎日暇があれば眺めて、祖父母宅へ泊まりに行くときも持っていきました」

「へー……」

「そこで見つけた西洋の建築デザインに胸が高鳴りました。だから姫百合学園のパンフレットを見たとき、教科書を見ては妄想していた世界をついに見つけたと思いました」


 言葉は末尾に向けじわじわと熱を含みはじめ、最後には今まで常に同じ正しさを手放さなかった赤羽さんの声が、当時の興奮を取り戻したように震えた。きっと初めてこの中庭を見たときも、こうした昂りを内側に押し込めていたのだろう。


「なによ、葛西さんたちと話してるとき『興味ない』みたいなふりして、ほんとうはこの学園に一番興味津々だったんじゃないの」

「そ……それは……すみません」

「別に謝らなくていいけど」


 夜が深みを増すごと、草の匂いがたっぷりと広がっていく。静かな風の中、ふいに赤羽さんはかしこまって背筋を伸ばし、うっすらと汗をかきながらわたしを見た。


「綾織さんにお願いがあるんです。すごく、重要なお願いなのですが……」

「な、なによ」

「わたし、憧れの姫百合学園に入学したら、憧れの学園生活のために絶対に友達を作ろうと思っていました」

「う、うん……」

「でも友達の作り方なんて分からないし、どうすればいいか分からないので、とにかく後ろの席になった子と仲良くなろうって決めていたのです。『赤羽』はいつも出席番号1番なので、出席番号2番の子と仲良くなろう、って」

「……うん」

「あなたにこんなことを言うのは、おこがましいと分かっています。でも……綾織さん、わたしと友達になってください」


 その真摯な願いによって思い起こされたのは中学時代の自分の姿だった。やりたいことは色々あって自尊心も高いが、いつもどうにも人付き合いがうまくいかない。その上彼女のように素直な気持ちを曝け出すこともできなかったし、きっとこうして頼まれようとも応じなかっただろう。そもそも蚕を差し入れてくるような女の子なんて、やっぱりおかしいし気持ちが悪い。


「……変なこと言わないでよ」

「えっ。あ、すみ……」

「そんなこと言われちゃうと、少なくともそれまでの時間は友達じゃなかった、ってことになっちゃうでしょ。そんなの悲しい」


 なんて演技っぽい言葉だろう、と口にしながら思ったものの、本当に言いたいことは大抵映画でもドラマでも使い古されている内容だから仕方がない。テーブルの上、彼女のきれいな指先は震えていて、それが寒さによるものではないと当然分かっていながらなんだか暖かいものでくるんであげたい衝動に駆られたとき、彼女の瞳から滴が零れた。


「は、はい……はい」

「ちょ……なんで泣くの!」

「す、すみ……すみません……」

「謝んないでよもー!」


 言葉は赤羽さんへ届き、むしろ響きすぎてしまったようだ。映画じゃないしドラマでもない、しかもテーブルの上には不気味な蚕の菓子が乗っかっていてロマンのかけらもない。それでもわたしの言葉によって目の前で女の子が泣きだしてしまった、という事実は変わらないのだ。


「あ……」

「なに、どうしたの?」

「綾織さん、見てください」


 ふいに顔をあげた赤羽さんが指さす方向には寮の廊下があった。ちょうど、講習前に葛西さんたちと通りがかったあたりには今、人だかりができておりどうやら皆こちらを伺っているらしい。ガラス越しのため互いの声や音は響かないものの、容赦なく向けられる目が不本意ながら有名人になっている自分を思い出させた。


「赤羽さん、わたしがせーの、って言ったら立ち上がって」

「え? はい」

「いくよ? せー……のっ!!」


 わたしたちはタイミングを合わせて立ち上がり、手を取り合って走りだした。好奇の目から逃れるためのダッシュはどたどたと野暮ったく、ちっとも軽やかさがない。


「あっ、ちょっと待ってください!」

「なに!? 立ち止まったら襲撃されるよ!」

「お菓子を落としそうです!」

「ちゃんと持ってきてんの!? 律義!」

「当然です! 大事な食糧ですから! なぜ綾織さんは食べないのか理解できません! 早く食べてください!」

「いや! この空腹状態で食べて不覚にも美味しいと思っちゃったら困るからいやだ!」


 握り合ったてのひらから汗が移る。中庭の影部分を渡って寮へ逃げ込んでからも、より暗くより人のいないところを目指して走る。しかし運動不足のわたしたちの足はすぐに根をあげ、誰もいない廊下の隅で脇腹を押えながら立ち止まる。息を切らし、時には早朝のおじさんのようにむせこみながら。


「うえ……っ、み、水……」

「はあ……はあ……蚕ならありますが……」

「だからいらないって蚕!」


 廊下に背中を預けずるずると座り込みながら、かっこ悪すぎて笑いがとまらなくなってしまった。赤羽さんも口を大きく開けて笑い、涙はもうあとかたもなく乾き切っていた。 



-----------


 静かな廊下で赤羽さんと別れ、315号室へ戻ると電気が点いておらず部屋は真っ暗であった。ルームメイトはきっと風呂にでも行ったのだろうと、壁に手を這わせ見つけたスイッチを遠慮なく押す。秒針の音さえ響かない部屋で急にベッドのシーツが持ちあがり、中から血色の悪い女子が顔を出した。


「うわあっ! ね、寝てたの!?」

「……」

「そ、それならごめん」


 ベッドの上で、毛布にくるまって無言で座る汐留さんが無表情、無言をぴくりとも変えないので、慌てて電気を小玉に切り替える。目を焼く昼白色の

光が消えた部屋に、汐留さんのかすれた声が響いた。


「……どこへ行ってたの?」

「え?」

「お風呂行く、って言ったまま帰ってこなかったから」

「あー……」


 改めて反芻してみると、寮に入ってからだけでなく朝からひっくるめて恐ろしいほどに濃密な一日だった。学園へ向かうバスの中では過度な期待も緊張もなく非常にフラットな気持ちでいて、決して上手いとは言えないスピーチのあとから思いもしない展開になっていった。


「先輩に風呂場で襲われたり、そのまま喧嘩になったり、蚕を食べそうになったり、友達を泣かせちゃったり……」

「そう……大変だったのね」

「いや、全然!? このくらいなんにも大変じゃないけど!」

「でも、心配だわ」


 やわらかな橙色の灯りに包まれた汐留さんは長いまばたきをしたあと、ゆっくりとした動作でふたたび布団にもぐりこんだ。寝息のひとつも響かないけれど、彼女がすでに深い眠りの中にいることは分かる。


 洗顔や歯磨きを済ませ、わたしも同じようにベッドに潜り込んだが、目を閉じると本日交わした多くのやりとりがまぶたの宇宙を駆け廻り、最後に汐留さんが「しんぱい」と呟く。心配ってしんぱいって、なにが? なにが心配かまったくわからないけどともかく心配させてしまったらしく、その事実に心臓が痛む。断ち切るように強引に目を瞑り、宇宙に身を投げると少しずつ身体が重くなっていく。


 こうして、学園生活一日目が終わっていく。学園の『変な部分』に少しも触れないまま――




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