第五話 空腹よさらば
どうにか逃げだそうと腰をねじったが、露骨に引いた姿勢がかえって名古屋先輩のよくない心を煽ってしまったらしい。立ち上がるためにタイルに膝をつくとすかさず先輩に背中からのしかかられ、あろうことか後ろから耳をぺろりと舐められた。
「ひあっ!?」
素肌に張りつく先輩の体温、背中にぎゅむぎゅむ押し付けられる乳房のやわらかさ、そして耳元を通りすぎていったぬるい風。すべてがはじめてのざわめきを帯びていて、頭のなかが白く乾いていく。
「あ、今かわいいお声出たねぇ」
「ちょ、ほんとやめてくださ……」
「もっかい聞きたいなあ今のお声。どこ触ったら出るかなあ? ここかな? それともこっちかなあ?」
指さきが腰や腹や脇のしたを滑り、ついに胸へ辿りついた。先輩のてのひらが両胸をがっしりと揉みしだくと、行動や思想を封じ込めるために圧を込めているように感じられ、それは校舎裏へ呼び出されることより悪口を広められることより直接的な怖さを持っていた。
「お、おねがいほんっとにやめてくださ……」
「あれ、泣いちゃった? よしよし泣かないで? なぐさめてあげるからね」
名古屋先輩は慰めの言葉を吐きながらも遠慮なく胸をがしがし揉み、うなじへくちびるを滑らせていく。先輩の手や舌が動くたび、拒否のための声も震え力が抜けてていく。もう逃れる術はないのかもしれない、と降参の涙が溢れそうになる。
そのときガコンと音が響いて、のしかかっていた先輩の体温と重みが同時に剥がれていった。突然のことに混乱したまま、おそるおそる振りかえる。
「貴女、何を考えているの!?」
そこにはタオルを巻いた小倉先輩が仁王立ちしていた。名古屋先輩はと言うと、なんらかの衝撃に吹っ飛んでタイルの上に倒れている。近くには凶器と思われる桶が転がっていて、どうやら小倉先輩がぶん投げ名古屋先輩の頭にヒットさせたものらしい。
小倉先輩は細い眉をぐっとつり上げた厳しい表情のままつかつかと寄ってきて、名古屋先輩には目もくれずわたしの前で立て膝をついた。
「大丈夫だった? 綾織さん」
「あ、はい……先輩はどうしてここに……」
「あなたが大浴場へ向かっていくのが見えて、そのあとわたしも入浴しようと思って来たら清掃中だったから、間違えて入ってしまったのかと追ってきたら……」
視界の隅では名古屋先輩が頭を押さえながらゆっくりと身体を起こしていた。すぐさま気づいた小倉先輩は、持っていた固形石鹸を振りかぶって投げ、再び名古屋先輩の頭に命中させた。
「麗しの王子様に自らの肉欲をぶつけるなんて……恥を知りなさい!」
小さくも重量感のある石鹸の衝撃に顔を歪める名古屋先輩を指さし、小倉先輩ははっきりと言い切った。その様はむしろ王子の称号をお受け頂きたいほどに勇ましいものであったが、名古屋先輩が言い返したことによりその印象はすぐに打ち砕かれることになる。
「きさきちゃんこそ綾織さんのあとを追って入ってくるなんて下ごころ剥き出しのくせに偉そうに言わないでよ!」
「な、なに言ってるの! そんなわけないわ! 王子は遠くから眺めてその制服の内側を想像するのが醍醐味でしょう!?」
小倉先輩は頬を染めつつも力強く否定をした。否定を、したのか、わたしにはよく分からなかったが、ともかく二人は強い口調で言い合っている。
「よく言うね、きさきちゃんが悪趣味な人形に『アヤオリ』って名前つけて悪趣味な宝石と悪趣味なドレスで飾り立ててにやにやしてるの知ってるんだからね! ヘンタイ!」
「なっ……なんてこと言うの! あれはフランスですごく評価されているドールなのよ!? 王子の分身を作ることくらい、本人を自慰の対象にするよりよっぽど健全じゃない!」
行き交う暴言の中から零れてくるのはなんだか不穏な言葉ばかりだ。それでも話題の中心にいるのは自分だということだけは分かり、音を立てないようにそっと視界からフェードアウトしていく。
「なんなのよこの~!」
「きゃああ、なにすんのよ!!」
キャットファイトに夢中のふたりは、わたしが静かに逃げていくのにも気づいていないらしい。名古屋先輩ははじめて出会ったときの穏やかさも数分前に突如醸し出した母性も忘れ、眉をつり上げ小倉先輩のタオルをもぎとった。小倉先輩の豊満な胸、華奢なくびれ、形のいいおしり、すべてがあらわになり、頬を染めた小倉先輩は再び桶を手にとり振りかぶって投げる。いい音が響くときどさくさにまぎれ、脱衣所へ逃げた。
「あれっ、綾織さんは!?」
その後もしばらく続いていた争いの様子は脱衣所ですばやく身体を拭きながら聞いていたが、ふいに気づいたらしい名古屋先輩が声をあげたので、死に物狂いで服を身につける。
「あ、ちょっと待って頂戴!」
「いや、あの……っ、失礼します!!」
着がえている間に浴室とを隔てるドアが開き、顔を出した小倉先輩と眼があった。もはや裸の身体を隠す素振りもなく追いかけてくる先輩たちを振り切って、廊下へ飛び出した。
そのまま自室へ戻ろうとしたが、もし二人がこのまま追いかけてきた場合真っ先に目指すのは当然部屋だろう。名古屋先輩とばったり会った場所が三階ロビーだったということは名古屋先輩の部屋もおそらく3階にあるのだから、順に回っていけば315号室に張り出された「綾織 なつ」の名前なんて容易に見つけられるはずだ。どうすればいいか分からず、とにかくここから遠ざかりたい一心でばたばたと階段を降りていく。
「ゴラァ、新入生! 走るんじゃねぇ!」
「あ……」
「待ちやがれ問題児!」
そんなわたしを見つけたのは氷見さんだった。すさまじい速さで迫ってくる氷見さんの目はさながらサバンナの重鎮に君臨する肉食動物のようで、「走るんじゃねぇ」という言葉に対しての説得力のなさもうやむやにさせる生命力だった。
「あの、大浴場で先輩方が乱闘してます!」
「なに!? 本当か」
「はい。止めてもらいたくて氷見さんを探していたんです、すぐ行ってください!」
「ああ、分かった!」
氷見さんは大きな事件の気配に煽られるまま、わたしの横をすり抜け階段を二段飛ばしで上っていく。アップリケつきエプロンをはためかせ、竹刀をぶんぶん振り回しながら、足音は遠ざかっていった。
「つ……つかれた………」
静けさが舞い戻るとともに一気に緊張が抜け、わたしは思わずその場にへたりこんでしまった。段差に足をまかせ、壁に身体を預ける。ああなんだか色んなことがあった、名古屋先輩とはなんだったのかあの行為はなんだったのか、でもとにかく――
「はらへった……!」
ばたばたしている間に忘れていた空腹感が、大浴場へ向かう前の何倍もの凶悪さを持って再来していたのだ。
「あ、綾織さん」
そこへ通りがかったのは赤羽さんだった。先ほどまでのきっちりとした制服姿から一変、「I LOVE FISH BONE」と書かれた詳細不明のグレーTシャツにジーンズというラフな格好に着替え、髪もクリップでアップにしていたために、印象もがらりと変わっていた。
「ちょうど良かった。今お部屋へ行ったところだったんですが、いらっしゃらなかったから探していたんです」
「え、なにかあった?」
「わたし、実は間食用に自宅から菓子を持ってきていたんです。三人ともお腹が空いているだろうと思って、さきほど青梅さんと葛西さんにも差し入れしたのですが、綾織さんだけお会いできないからどうしようかと。こちらどうぞ」
「もらっていいの……!?」
「ええ、そのつもりでした」
赤羽さんはそう言って茶色の紙袋を差し出した。外国映画の中で果物がいっぱい詰められているような紙袋はずっしりと重く、受け取っただけで空腹に響くようだった。
「じゃあさ、これ一緒に中庭のテーブルで食べようよ」
そしてわたしたちは、講習前に通りがかったあの中庭へ足を運んだ。猫足のカフェテーブルや薔薇のアーチはそのままだが、日が落ちているために昼間の印象とは少し違って見える。芝へ足を踏み入れると、瑞々しく若い草がくしゃりと鳴った。
「か、勝手に入ってしまっていいんでしょうか……」
「いいんじゃない? どの道氷見さんはしばらくこのあたりには来ないだろうから大丈夫だよ」
「え、どうしてです?」
「さあ」
中庭は等間隔に外灯がともり、人目を盗むいけないわたしたちをも照らしている。チェアーに向かい合って腰を下ろし、紙袋をテーブルに載せた。
「お腹空きすぎてしにそうだったから助かったわ、寮の食事は美味しかった?」
「ええ。今日が初日だからかもしれませんが、立食形式でローストビーフやサーモンマリネや苺のタルトが振る舞われました。しかし今ごろ御三方が空腹に耐えていると思ったら自分だけ食べるなんて気が引けてしまって、食事が終わったあとみなさんの部屋を回ってこれを差し入れていたんです」
「ほんとうにありがとう。じゃあ、遠慮なく……」
優しい赤羽さんの好意を受け取るべく、茶色の紙袋に手を入れる。菓子はビニール袋に詰められているらしく、てのひらにビニール越しの菓子の感触が触れた。かりんとうか何か、こつこつした質感をビニールごとテーブルの上に引っ張り出す。
「ひあぁっ!?」
そしてテーブルの上に登場したものを見て、わたしはチェアごとひっくり返りそうになった。ビニール袋の中には、黒っぽいような茶色っぽいような小さなものがぎっしりつまっていて、よく目を凝らせば固体一つ一つに段々模様が入っており、動いていなくともうじゃうじゃと集合する様を連想させるようなグロテスクなものだった。
「これ……なに!?」
「えっと、蚕を甘辛く煮付けたものですね」
「か……かいこ……かいこって……蚕!?」
「はい、蚕です。すごく身体にいいんですよ、食べたことありませんか?」
「あるわけないでしょこんなの!」
思わず強く言い返すと赤羽さんは一度驚いたように目を見開き、そして悲しそうに伏せた。
「そう……ですよね……」
「いや……」
「当たり前ですね、そんなの」
「いや……ほら、菓子としか聞いてなかったから、チョコとかポテチとかそういうものだと思ってたのよ。だから驚いちゃって……」
いやきっと、「蚕を食え」と言われていたって実物を目にしたときには同じ反応をしてしまうだろう。わたしは蚕がつまったビニール袋の上に茶色の紙袋をかぶせ、その姿を視界に入らないように封じ込めながらしどろもどろのフォローをする。
「あの……ポテチとは『ポテトチップス』ですか?」
「他になにがあんの」
「いえ、すみません。わたし『ポテトチップス』を食べたことがないので」
「え!?」
「あ、いや、さすがにじゃが芋料理だということは知っていますよ?」
「料理……なのかな」
「あと『チョコ』も……『チョコレート』ですよね。それは一度くらいはあったかもしれませんが、いかんせんあまり縁が無いもので」
「いやいやそんなめずらしいものじゃなくない? スーパーでもコンビニでも買えるし」
「コンビニ、行ったことがないんですよ」
「え? お腹空いてなんか買いに行ったりしないの?」
「小腹が空けば祖母が身体にいいものを差し入れてくれました」
「……じゃあ友達にもらったりとか!」
「友達いないんです」
「……」
「……おかしいですよね」
自虐的に、力なく笑う赤羽さんの頬に月と外灯が混ざり合った、やんわりとした影が落ちる。確かにおかしいのかもしれない、少なくとも人生で出会ったことのない人だ。それでも変な奴だと一蹴することができないのは、例えば制服の着こなしと私服のギャップであったり、空腹のわたしを探してくれる律義さであったり、なんだか興味を惹かれるところがいくつかあって、その上自分が世俗離れしていることに本人が自覚的でまた謙虚な姿勢を見せるから、この人面白いな、と思ってしまうのだ。
なにかを諦めたかのような淋しさを持って微笑む赤羽さんを見て、どうしたらこんなに大人びた人になれるのだろうと考えてみるが答えは出ない。
「でもわたし、あなたのこともっと知りたくなったよ」
「……え?」
赤羽さんは数秒目を丸くしたあと、じわじわと頬を染めていき、そこで初めて自分の発言こそが変なものだったと気づいた。気づいてしまうと頬の熱が伝染し、わたしたちはどういうわけだか、互いに頬を染めたまま見つめあうことになってしまった。