第三話 私の前にある竹刀と乙女と燃える少女と
もうまもなく一階の北側にある広いカフェテリアで、寮の管理者によるルールや一日の活動スケジュールについての講習が始まる。先ほどまでぴかぴかの制服を着た新入生が溢れていた廊下や階段にはもう誰もおらず、きっと皆とうにカフェテリアへ行ってしまったのだろうと思いながら階段を駆け降りていく。
「あ、きたきた。綾織さーん」
「ごめん! 待っててくれたの?」
降りた先の広いスペースに三人が立っていた。それぞれの自室に荷物を置いたあとすぐ集合し、わたしを待っていたなら申し訳ないことをしたと駆け寄ると、それどころでない興奮気味の葛西さんに二の腕をつかまれた。
「綾織さん! 見てください、この寮中庭があるみたいです!」
「え?」
「白い猫足のテーブルとチェアー! 薔薇のアーチ! 素敵じゃないですか!?」
指をさされたほうに目を向けると、ガラス戸の向こうに中庭が広がっている。確かに、華奢な白テーブルやアーチといった、講義棟の中庭とはまた異なる趣の乙女な装飾が施されているようだ。
「へぇ、すごいね。おとぎ話の世界みたいだ」
「夢だったんです、こういうところで午後のお紅茶を飲むの……! ね、ね、ちかげちゃん今度一緒にお茶会しよう!」
「えー。わたしはパス。そういう柄じゃないし」
「ええー!」
「あ、王子様が付き合ってくれるんじゃない?」
見ると、青梅さんがニシシ、とたくらむような笑みを浮かべてわたしを見ている。
「いやわたしこそ柄じゃないでしょ……。もうこの学園の上品すぎる雰囲気にちょっと具合悪くなってきてるもん。もっと落ち付いてて大人っぽい人のほうが……、あ、赤羽さんのほうが似合うんじゃない?」
「わ、わたしですか!?」
赤羽さんはまさか自分にふられるなんて思ってもみなかった、というように過剰に反応した。けれどもわたしは、三人に合流したときすでに、赤羽さんの視線が中庭に釘付けになっていたことに気づいていた。
「わたしなんか似合うわけないじゃないでしょう! ふざけないでくださいっ」
「いやいや、似合うって。ハーブティーとかスコーンとか苺ジャムとか」
「そ……そんなの絶対似合わないし……」
「持ち寄ったサンドイッチとお手製パイと」
「そんなの……」
「レースのナプキンと果物のつまったバスケット」
「全然好きじゃないですから!!」
天井の高い廊下に響くような強い否定を残し、赤羽さんは歩を早めてひとりカフェテリアの方へ消えていった。小さくなっていく背中を見ながら、青梅さんが三人の心中を代弁するように呟く。
「分かりやすいなー……」
そのとき、先を行ってしまった赤羽さんと入れちがいに、ひとりの先輩がこちらへ近付いてきた。その人が先輩だと分かったのは、わたしたち含め新入生がまだ制服姿でいる中、その人は胸元の大きく開いたニットにペンシルスカートという私服姿だったからだ。明るい髪色や人形のようにはっきりとした目鼻立ち、豊満なバストが威圧的なほど華やかな彼女は、どうやらわたしを待っていたらしい。
「あなた、綾織なつさん?」
「はい、そうですけど……」
頷けば、大きな瞳が高圧的に見おろす。これはやばい。女子高名物「先輩に目をつけられる」だ。人差し指と親指で顎をくい、と持ち上げられ、先輩はわたしの顔を多方向からしげしげと眺める。
「す……すみません……チョーシ乗ってないです……」
「そうね……お肌の色はホワイト寄りの002番ってところかしらね」
「……は?」
「良かったわ、用意しておいて。これよろしければ受け取って?」
解放されると同時に細長い小瓶を差し出された。よくよく見ると、それは某国内有名コスメブランドのロゴが入ったリキッドファンデーションだった。
「こ、これすごく高価なものですよね……!?」
「いえ、いいのよ。パパの友人の会社のものだからよく頂くの」
「えっ、そうなんですか!?」
「わたくし、三年の小倉きさきという者よ。あなたコスメを集めることがお好きらしいから趣味が合いそうで良かった」
「誰から聞いたんですかその話」
「誰から、って。もうとっくに学園中のみんなが知ってるわよ? ねぇ?」
彼女は当然のように言ってのけると、友人を呼びとめ同意を求めた。声をかけられ近付いてきたのはつるりとしたボブヘアで、小倉先輩とは対照的に背丈もスタイルも親しみやすく笑顔の穏やかな、正直に言えば地味な先輩だった。
「あー、この子が綾織さんかあ」
「そうよ。お噂通りのお嬢さんでしょう」
「こんにちはぁ。わたしは三年の名古屋ふみですー。みんな新入生? 入学したばっかりで不安が多いと思うけど、なんでも教えてあげるから困ったら声かけてね。じゃあまたね」
そして二人は去っていき、わたしは掌に今なお収まっている、自分のお小遣いでは到底買えるはずもない代物をそっと見た。
「なんか綾織さんと一緒にいるだけでどんどん知り合いが増えていく気がします……」
「ほんとだよなー……」
そして始終を黙って見ていた青梅さんと葛西さんがぽつりとつぶやき、いよいよ誰もいなくなった廊下に余韻だけがしんしんと残った。
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わたしたちがカフェテリアに着いたとき、既に席は集まった新入生たちによって埋まっていた。そして皆の視線の先には、赤いエプロンに掃除当番さながらの三角頭巾をした女性が立っている。保育士のような格好とは裏腹に、なにか不穏な空気が拭いきれないのは彼女の細すぎる眉と三白眼と、右手の竹刀のせいだろう。
「遅い!!」
彼女は遅れて入って来たわたしたち三人を見るなり、バチイと激しい音を立てて竹刀を床に打ちつけた。不穏な予感が的中したことにどこか納得しているわたしの横で、葛西さんは「へ……? へ……?」と蒼ざめている。
「午後は寮の講習だって聞いてなかった?」
「あ、はい……」
「知ってたのになんで時間通りに来ないの?」
「あ……、えっと……」
「ぐずぐず喋んな! 三人ともそこに正座!」
竹刀で指し示されたのは、皆の視線がぐさぐさささる女性の足元で、三人とも互いの顔をみながら恐る恐るしゃがみこむ。ひざをつくと綺麗な床の冷たさが骨に響いた。
「王子が……床に正座させられるだなんて……!」「ああ……代わってさしあげたい……」「毛あしの長いふかふかのクッションをご用意したい……」「クッションになって踏みつけられたい……」
どこからともなく漏れはじめた言葉はわたしたちを心配してくれているのか、それにかこつけて妄想を垂れ流しているのか、なんだか呪術めいている。
「静かに!」
それをぴたりと止ませたのは、再び響いた竹刀が床を打つ音だった。一気に静まり返った学生たちを見回し、女性は口を開く。
「わたしがこの寮の管理人、氷見あずさだ。この寮にいる限り毎日寝るとこ困んねぇしうまいもん食えるし面倒な家事も自分でする必要がない。その代わり甘ったれたやつは叩き直します。わたしのやり方に文句があるなら即刻退去してもらって構いません。とは言えこんな山奥行くところもないし自力で下山もできないし野宿しかないけどな」
右隣の葛西さんは拳を握りしめてうつむき正座したまま「薔薇……お紅茶……レース……」と乙女系名詞を呟き、幻想の効力を保とうとしている。左隣の青梅さんは対照に、竹刀の響きに体育会系闘争心を煽られたのか食らいつくような瞳で氷見さんを見上げている。
「女学園と聞いて華やかな女の園ってイメージを持ってくるやつがいるんだけど、そんなに甘くねぇからな。女だって腹減りゃかつ丼かっこむし眠くなったらよだれ垂らして寝るしそのためには先にやるべきことこなさなきゃいけないわけ。あそこのゆるふわみたいに『憧れの女性は排泄もしないの!』みたいな幻想はとっとと捨ててください」
あそこのゆるふわ、の言葉とともに氷見さんが指さした先には、千駄ヶ谷先生が立っていた。
「ちょ! ちょっと~! わたしのことはいいけどズェンヌのことは言わないで! 煌さまは劇団員からもお手洗いに行く場面を見たことがないって有名で~……!」
「うるせーその分ご自宅で毎日快便なんだよ」
「やめてええ!」
なぜわたしたちは正座させられ便の話を聞かされているのか……? 氷見さんと千駄ヶ谷先生の言い合いと、その合間に耳に入る生徒たちの「お膝痛くないかしら」「やっぱり座布団を」「座布団さしあげるから使用済みティッシュください」などを聞きうつむいていると、氷見さんがふいに口を開いた。
「まあ細かいルールはこれからしっかり説明するとして……とにかくあんたたち三人は今晩夕食抜きだから」
「え!? なんですかそれ!?」
「あ? なに、時間も守れないのに文句? それとも即刻退学する?」
立ちはだかる先生の圧倒的な影と、いまだ耳に残る竹刀を打つ音。右隣では葛西さんがぶるぶる震えながら「や、やだよう……たいがくはやだよう……」と嘆いていて、左隣では青梅さんが青白い顔で「やばい……もうめちゃくちゃ腹減ってるんだけど……今夜越せるかな……」と呟いている。
そして、初めての長い長い夜がはじまっていくのだった。