第二話 同居者に吠える
なんとか教室に逃げ帰ると、教壇の上に先ほどまでいなかった女性が立っていた。明るい色の長い髪は毛先にパーマがかかっていて、新入生のぱりっとした制服とは異なるふんわりとしたシフォンワンピースを着ている。女性は、教室に飛び込んだわたしと時計とを交互に見て、子供のように頬を膨らませる。
「遅いじゃな~い、ホームルーム始まってますよ~?」
「すみません……ジェンガが倒れたことで学園長が怒っちゃって先輩たちと一緒に追い出されて罰として廊下のぞうきんがけをしなさいって言われたんですがスカート姿なのにやらせるなんて何を考えているのかって先輩方がかばってくれてもめているあいだに逃げてきました」
「うん? どういうこと?」
「ですよね……?」
事実を事実のまま並べてみると自分でも何を言っているのか分からなくなってしまった。わたしにとって難解なことは当然相手にも同じらしく、女性も首をかしげながらクエスチョンマークを浮かべている。しかし、ふいに合点がいったように目を輝かせた。
「あ~でも王子様はちょっと遅刻してくるくらいの余裕があってもいいのかもね~! むしろ余裕がないと娘役をリードできないもんね~、さすが~!」
「は……娘役?」
「とりあえずもうはじめるから席について~!」
よく噛み砕けない話を追求する前に、ぱんぱんと掌を打ち急かされる。とりあえずぽっかり空いた席に着席すると、女性は改めるように咳払いをして声を張った。
「ではまずは自己紹介からね! わたしがあなたたちのクラスの担任、千駄ヶ谷みちかです! 好きなダガラズェンヌは大星空煌さん! 彼女のことを考えたらなんでもできる気がします! 今年はダガラズカファン歴二十周年なのでいっそう――」
「二十年? ってことは年齢は……」
独り言のつもりで呟いたのだが、どうやら響いてしまったらしい。瞬間、クラスメイトの視線とともに千駄ヶ谷先生の大きな目がぎょろりと動いてわたしを射抜いた。そして先生はおもむろに教壇を降り、殺気をまといながら歩み寄ってくる。思わずわたしは、自主的に立ちあがり後ずさりをした。
「あ、あの……」
言い訳を考えているうち千駄ヶ谷先生の細い腕が伸び、ドン、と背後の窓に迫られてしまった。目の前で細くやわらかな髪が揺れ、その度立ち上る甘いフルーツのような香りに閉じ込められ、大きな瞳と顎に添えられた指に最後の逃げ道さえも塞がれた。そしてぷるりとしたピンク色の唇から、別人のものかと思われるような、色づけされた低い声が漏れた。
「お口が減らない子猫ちゃん、このお口は塞いであげなきゃいけないね?」
ぞわぞわぞわ! と鳥肌が立つ音が耳にまで聞こえるほど、肩も腕も足も頬も耳もすべてを違和感が通りすぎていった。からからの喉から声を絞り出す。
「す、スイマセンデシタ……」
千駄ヶ谷先生は鼻が触れあいそうな至近距離でにっこり笑い、教壇へ戻っていく。なにが怖いかと言えば先生直々の壮大な茶番はもちろん、それについてクラスのあちこちから零れた声だ。「かべどん……ずるい……」「わたしもしたい」「いやむしろされたい」「王子完全にびびってた写メればよかった」「ていうか一瞬ぱんつ見えた写メれば良かった」
聴力がずばぬけていいわけでもないのにごく私的な呟きが耳に入ってしまうなんて、みんな独り言のボリュームノブがフルテンになっているのかと思ったが、人のことなどまるで言えないので大人しく着席する。
「はーい、じゃあ今度はみんなの番ね~! じゃあ出席番号一番から~」
教壇に戻った千駄ヶ谷先生は何事もなかったかのように明るく微笑んで、わたしたちへの自己紹介を促す。出席番号一番は、わたしの前の席の彼女だ。美しい髪を揺らしながら立ち上がった彼女は、案外背が高い。
「はい。赤羽しの、五月六日生まれ、牡牛座のA型です。趣味は読書で、時代小説が好きです。得意教科は数学と理科、特に幾何学と物理分野。休日の過ごし方は図書館や科学館、美術館へ行くこと。好きな映画は――」
しゃんと伸びた背筋に気持ちのよい発声、さらに申し分ない内容。赤羽さんの振る舞いはあまりにも完璧で、途端にプレッシャーが湧き上がった。先輩方の追いかけっこ、先生との寸劇まがいなどふざけたことばかりやっていながら、わたしはどこかでまだ自分の見栄を消化できずにいた。自ら開示するはじめの情報、かっこ悪いことなど言えない――
「は~いありがとう。じゃあ次は綾織さん~」
自意識にがんじらがめになっているうち、赤羽さんの自己紹介はいつの間にか終わっていた。わたしは立ち上がり、約四十人のクラスメイトを見渡し口を開く。
「はじめまして、綾織なつです。よろしくお願いします。趣味はブランドコスメを集めること――」
咄嗟に出てきたのは多少の背伸びを隠しきれない言葉で、口にした瞬間あまりに分かりやすい見栄の張り方に自分でも痛々しさを覚えてしまった。しかしそこで言葉をつめらせたのはそれだけが原因でない。わたしが口を開いた瞬間、クラスメイトたちが一斉にペンを滑らせる音が響いたのだ。
「好きなハルキはハルキムラカミ――」
続く言葉にもペンの音は反応し、やはり勘違いではないことを確信した。例えるなら英語のリスニングテストにおいて、それまで皆静かに音声に耳を傾けていたのに、正しい文章が流れてきた瞬間だけコツコツコツとマークシートに印をつける音が響くので自信のない問題にもとりあえず解答してしまう、あの感覚。わたしが何か言うたび、皆ペンを走らせ、懸命にメモをとる静かな狂気に言葉はきれぎれになる。
「特技は相撲です。よろしくお願いします」
勤勉どころか何かの強迫観念さえ感じられる勢いでペンを握るクラスメイトに気押され、よく分からない言葉で強引に締めくくり着席してしまった。結局、はじめに用意したプライドなんて役に立たないまま、自己紹介はなお進行していく。
「こんにちは! 青梅ちかげです。子供のころからソフトボールをやっていて、将来はプロになりたいと思っています。この学園の設備の中でプレイするのが楽しみだったので、ソフトボールが好きな人はぜひ友達になってください!」
青梅さんの声は廊下まで響きそうなほどによく通り、剥き出しの首も鎖骨もきれいに焼けていて、しっかりとした肩や節々の筋肉も彼女の大きな夢に現実味を添える健康的な印象だ。
「えっと、葛西こはるです。ちかげとは幼なじみで……あ、でもわたしは運動はだめで、そのかわり読書が好きです。とくに児童文学は日本の作家さんも海外の作家さんも読みつくしているので、興味のある方と分かち合えたらうれしいです」
続いて立ち上がった葛西さんは対照に細い声をしているが、思慮深い人柄が滲む優しい空気をまとっている。自信なさそうにうつむいたとき、ずれる眼鏡をそっと持ち上げる指先がきれいだった。
こんな風に個性あるクラスメイトたちも声色や見た目でしか判断できないように、彼女たちにとってわたしもいまだ不明な点ばかりだろう。それなのに稚拙な見栄を張るまでもなく過大評価されている現状に、不安を抱かずにいられない。
そして各々の自己紹介や事務連絡が済むと、チャイムが鳴り響いた。
「とりあえずホームルームはこんな感じで、この後は寮の方へいって、各自荷物の点検と寮についての講習をしましょうね~」
休み時間に入ると赤羽さん、青梅さん、葛西さんとわたしは四人で連れだって廊下へ出て、各教室がならぶ講義棟から少し離れたところにある学生寮を目指した。
「は~、ついに憧れの寮生活がはじまりますねぇ」
「憧れなのですか? なぜですか?」
「赤羽さんは憧れない? みんなでわいわいご飯食べたり、好きなものを共有したり、同室の子と寝るまで喋ったり……」
「こはるは漫画の読みすぎなんだよなー」
「ちかげ! 漫画じゃないってば! 小説!」
「おんなじじゃん」
他愛ない話をしながら渡り廊下へ出たところで、中庭の開けたスペースに人だかりを見つけた。下級生上級生問わず入り乱れ、中心にいる誰かへ向かって掌を強く突き上げながらアピールしている。
「二千円! 二千円!」
「こっちは二千五百円!」
「わたしは三千円で買う!」
「じゃあ五千円!」
存在のアピールだけでなく、彼女たちが口ぐちに言い争っているのはなにかの金額のようだ。春の花々で彩られた美しい中庭で、この上なく現実的な争いが巻き起こっている。その光景から頭に浮かんだ言葉を、わたしは思わず口にしていた。
「競り……なの?」
「せり? ってなんですかあ?」
「あーマグロ競りってやつ? マグロに金かけて一番いい値段いった人のものになるってやつか、うちのじーちゃん昔やってたわ」
「何言ってるんですか、このあたりに海はないですよ」
はたから見ているだけではその集団の動機も目的も分からない。そのとき、生徒たちがぐるりと取り囲まれた中心人物が、決定的な一言を口にしたのが聞こえた。
「は~い、じゃあ五千円で落札~、みごと綾織さんの趣味と特技と好きなハルキ情報ゲットでーすおめでと~!」
中心から聞こえてきたのはわたしの名前と、あまりに特徴的すぎる間延びした声だった。嫌な予感に震えながら、いっそそんなもの勘違いであれと願っていたのに、人だかりをかきわけた真ん中には想像通りの人がいた。
「ちょっと!!」
「あ~、見つかっちゃったあ」
財布を握りしめた生徒たちに囲まれ競りを仕切っていたのはあろうことか、千駄ヶ谷先生だった。
「なにやってんですか!!」
「綾織さんがさっき自己紹介で言った内容を教えてってみんなに言われて~、それは個人情報だからできないって言ったんだけど~、みんな『金なら出す』って折れないし~」
「だからって生徒から金巻き上げて生徒を売るってなんなんですかほんと!」
「わあ~ごめん~今臨時収入が入ったら今月ダガラズカの劇場へ行く回数が増えるんだもん~」
「このクズ教師が……!」
千駄ヶ谷先生は悪びれているのかいないのか、「ごめんぽよ~!」とウインクをしてそそくさと逃げていった。わたしはその手に五千円札がしっかりと握られているのを見逃しはしなかった。
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ようやく寮に辿りつき、それぞれの自室へ向かう三人と別れわたしは315号室へ向かった。これから三年間、おかしな学園内で唯一のプライベートスペースとなる315号室――それは思ったよりも広く快適そうな部屋だった。まず入ってすぐにお手洗いと独立洗面所があり、それらは共有になるのだろうと思っていたわたしには嬉しい誤算だった。さすが、女生徒の希望や理想を叶えてくれる。奥のスペースにはベッドと学習用デスクの他、ラックや本棚などの収納スペースが向かい合わせにふたつずつ置かれている。
ぐるりと首を回し室内を眺めて、ようやくわたしは部屋のすみに目がいったのだ。
「ん? う、わ!」
あまりに静かで体温のない部屋だが、よくよく見れば片側のテーブルには数冊のノートや教科書がすでに置かれている。そしてその机の影に、人の気配があった。
青梅さんより短い、ほとんど男の子のようなベリーショートの髪、葛西さんよりも白く儚げな肌の色、赤羽さんよりも鋭く冷静そうな瞳。部屋のすみにいた少女は何も言わずわたしを見ている。彼女こそがルームメイトであることはすぐ分かった。
「こ、こんにちは。わたし、同室の綾織なつです。よろしく」
「……よろしく」
目の色も、眉も、色素という色素は薄くもっと言えば毛というものも生えにくいタイプのようだ。真っ白でうぶげも見当たらないような腕には、かみそりを滑らせた形跡もない。わたしたちはお互いをじっと見合い、しばらくして彼女が小さく呟いた。
「あなた、スピーチをやった人?」
「え、あ、え……? いや……あの」
「……心配しなくても、わたしは噂に興味がないから」
口ごもってしまったのは、肯定が「王子」にまつわる面倒事に繋がることを恐れたためだ。そしてそれを分かっていたかのような冷静な切り返しに、自意識過剰であったことを痛感して頬が赤くなった。それをごまかすためについ声を張ってしまう。
「なんかさ、ないのそっちの自己紹介とか! せめて名前くらい教えてよ!」
「汐留とうか」
「へー……」
「……」
「え、それだけ!?」
「なに? 名前を聞かれたから名前を答えたの」
人のこと言えないけれど、つっけんどんな人だ。とは言えプライベートスペースを共有する相手だ、なるべくなら仲良くなりたい。
「えー……じゃあ趣味は?」
「趣味?」
「好きなこととか、休みの日にやることとか」
「休みの日は、部屋の掃除をしているけど」
「ああ、きれい好きなんだ」
「好きってほどじゃない」
「あ、そう……」
必要最低限で済まされる会話は印象としては決して良いものではない。しかし、入学式が終わってから好奇の目に晒され続けていたわたしには、遠すぎるほどの距離感がむしろ心地よく思えた。ほんの少しだけ私物が置かれた汐留さんのスペースとは反対側のベッドに腰を下ろし、ため息をつく。
「あぁ、なんかこういう空気楽っちゃ楽だー。この学園来てからよく分かんない絡み方されるばっかりだったし……ていうか女同士でああいうノリってみんな違和感ないのかな? ねぇあんたどう思……」
顔を上げてぎょっとしてしまった。どういう脈絡か、いつの間にか汐留さんはシャツを脱ぎ、スポーツブラ姿をさらしていたのだ。
「ちょ、ちょっと何やってんの!?」
「何って、着がえていただけだけど。おかしいの? 『女同士』なのに?」
「そ……」
汐留さんは淡々と語り、脱いだばかりのシャツを畳んでいる。きれいな肩甲骨を見せるような角度なので表情は確認できず、言葉だけが取り残される。
「そう言われてみればそーね……」
「問題ないでしょう」
「ないね」
そして汐留さんはそのままするするとジーンズまで脱いでしまった。下着は上も下も黒の無地で、リボン型の飾りひとつさえもない。その素っ気なさは、期待とときめきに埋もれる新入生の中で異色そのものであった。
「今はみんな浮ついてるけど、よくも悪くも飽きやすいしすぐに自分の好きだったものなんて忘れていくわ」
そんなわたしの印象に答えるかのように、汐留さんは冷えたヴェールに包まれた心の内を、顔を見せないまま零す。背骨のラインを、どこか老成した独特な雰囲気が流れていく。
「へぇ……」
「……変なこと言ってごめん」
「え? いや、そんなことないよ?」
汐留さんは突然、不安そうな目で振り返り、ぽそりと謝罪さえ漏らした。確かに彼女は変なことを言ったのかもしれない。学園内の、いや、この年代の女の子すべてが常識として疑わない思想にヒビを入れるような発言だったのかもしれない。けれどそれは必ずしも悪い言葉ではないしましてや謝るようなことでは……
と、うまく言える自信がなかったので少々強引にも話題を変えるしかない。
「しっかし細い身体してるのねー。色もまっしろだし、でも筋肉はついてるね。なにか運動してるの?」
わたしはとにかく会話を逸らす術を探し、それを彼女の腰元に見い出した。背中も腹もすっきりとしていながら、うっすら腹筋の影が落ちている。立ち上がり、パンティのゴム部分へかかるなめらかな腰骨ラインをつつ、と指先で撫でた。ほとんど無意識のうちに。
「ひゃ……っ」
それは冷静さを持ち合わせた彼女の印象を変えてしまうような、事故的な声だった。息を吐くとも飲むともつかない隙間に零れた甘い声に、思わず顔をあげると、彼女は困ったように視線を遊ばせながら微かな抵抗を見せる。
「くすぐったい……から、触らないで……」
「ご、ごめん!」
「いえ……」
「あ、そ、そうだ講習いかなきゃ!」
思わず飛びのき、その勢いのまま飛びだした廊下にはもう誰もおらず、自分の心臓ばかりがうるさく鳴っている。階段を駆け下り、講習が行われる階下を目指しながら、先ほど触れた指先と頬だけが熱く、またその熱をうまく振りほどくことができなかった。ああいやだいやだ、ここにいたらわたしは変になる!