第十九話 存在の耐えられない家族
線路を進む際の心地の良い揺れとともに、窓の外の景色は独特な白いヴェールをまとって流れていく。街路樹も、川の上を横断して対岸にかかる橋も、鮮やかな光を弾いて揺れる。子供のころ通っていた文具屋がつぶれている。たった数週間離れていただけなのに、生まれ育った街の変化や、夏の気配が忍び寄っていたことも知らなかった。それもそのはずだ、何もかもを変えてしまった数週間だった。
「汐留さんちって母子家庭の一人っ子なんだね、びっくりした。うちもまったく同じだから。うちの親ってさ、何か言いたいことがあっても直接言ってこないの。でもこれみよがしに近くでため息ついたりして」
「あぁ……分かるかもしれない」
「ほんと? なんか汐留さんは似てるところが多くてうれしい。だから佐和さんも同じ部屋に割り当ててくれたのかも」
同じ場所で過ごしていながら共有できなかった時間を埋めるように、わたしたちはとにかく話をした。自分が王子という特殊な役職を一度でも望んだことなどないこと、甘んじていた部分は確かにあれど、常に戸惑いがついてまわっていたこと、なによりもそうした思いを吐き出せずにいた時間に辛さを覚えていたこと。次から次へと零れる愚痴の湿り気をもつ言葉たちに汐留さんは具体的なアドバイスをするでもなくただ頷いて聞き入れ、時折思いついたように共感を示す。はじめての友人に興奮してはしゃぎまわる産まれたての猫のように、うれしさに身を任せしばらくあれこれと話し合っていた。
そのとき、ドアのすぐ向こうで物音が聞こえわたしたちは同時に素早く口をつぐんだ。
「王子の部屋ってここだっけ?」
「うん、確かそうだった気がする。前にお見舞い持ってきたときもここに置いたんじゃなかったけ」
「そうだよね。っていうか、前とまったく一緒で飲み物とお菓子の差し入れなんだけどこんなんでいいのかなあ」
「いいんじゃない? だいたい王子くらいの人になればこういう授業休んだ日って余るくらい差し入れ届くだろうし、いちいち誰から何が届くかなんてチェックしてないでしょー。もしかしたら確認せずに捨てられちゃってるかもしれないしさー」
「やだー、なにそれぇ」
そしてドアに何かが寄りかかる音、遠ざかる人の気配、小さくなっていく声と足音。汐留さんはドアの向こうに確実に人がいないことを時間をもって確かめてから、そっと呟いた。
「きっと一時間目が終わったのね。前のときも、休み時間のたびにああして誰か来ていたから今回も同じかもしれない」
「汐留さん」
「うん?」
「……家へ帰ろうかな、と思うんだけど」
地元の私鉄は平日昼間ということもあってか乗客はほとんどおらず、わたしの脳から洩れてしまった無意味な考え事が車内を濡らしていた。
心地よいリズムに眠たくなる、けれど頭の中はだるく重く熱い割には鮮明で、目を閉じていようと開けていようと一向に眠れる気がしない。だからまた意味のないことばかりを弄んで、少しずつ近づいてくる我が家へ過度の期待を持ちそうになるから怖い。
家へ帰ろうかな、というのは、なぜどうしてと深追いされたら自分でも説明ができないような突発的な思いつきで、短期なのか長期なのかも決まっていなかったのだけれど、心の形が似ている汐留さんはそれさえも分かっているのか「いいと思う」とあっさり答えた。
「でも、氷見さんにばれたらすぐ連れ戻されると思う。どうやって見つからずに寮を出るかが難しいわ」
「そうね。でも平気、後輩のまねするから」
「後輩?」
首をかしげている汐留さんの前で簡単に身支度を整える。と言っても荷物なんてほとんどないので、動きやすい服に着替え財布をポケットに入れる程度の身支度だ。準備が整うと窓を開けた。身を乗り出せば頑丈そうな木の幹に手を伸ばせる。下は一切見ないようにしながら、「せーのっ」の声とともに意を決して飛び移る。その行動はきっと思ってもみなかったものだったのだろう、汐留さんは部屋の中で目を丸くしていた。
「いってらっしゃい」
しかしすぐ、窓から身を乗り出して手を振ってくれた。日陰を渡って学園の門から飛び出すと全速力でバス停まで走って、やってきた下りのバスに飛び乗った。
今朝のことなのにそうした記憶はもう遠い昔のことのようだ、なんて考えているあいだに無事目的地に辿りつき電車を降りる。駅から自宅までの道を歩くと汗が背中を流れていった。海に近い場所特有の、強度の高い日差しのせいでもあるだろうし、緊張のせいもあるだろう。そう、緊張していた。家の前に着いたときには、心臓の音で他の何も聞こえないくらいにひどく。
「……ただいまぁ」
なんと言えばいいのか分からず、とっさに「ごめんください」と言いそうになったけれど、すんでのところでせき止めてきっと正しいはずの挨拶に切り替える。玄関からまっすぐに続く廊下はリビングにつながっていて、微かな物音のあとリビングとを隔てるドアが開き、背の高い人が顔をのぞかせる。
「……なにしてるの」
まず、汐留さんのお母さんのように追い返されることがなくて安心した。若いころバレーをやっていたという母は、いまでも背が高く姿勢がいい。なぜか緊張してしまう原因のひとつだ。予想通り今日は仕事が休みの曜日で、人に会うことを想定していなかったであろう母は、わたしとの再会にもまず眉を寄せる。
「なにって、帰ってきたんだよ。寮に入ってから電話とかもしてなかったし、ママさみしがってるんじゃないかなって思って帰って来ちゃったの」
「……授業はないの」
「あー、あるよ? あるけど、別に何日か休んだってすぐ追いつけるから大丈夫」
街は季節もうつろいこんなに変化しているのに、リビングは出て行ったときのままなにひとつ変化がない。壁にはわたしが家を出るまさにその日まで着ていたコートがかかったままで、荷物になるからと置いていったものに対して、母が関心さえ持たなかったことが分かる。ソファに腰をかけると、すぐ脇のマガジンラックには初カレ特集のティーン誌が刺さったままで頬が熱くなった。きっとそれにも興味はないだろうけれど。
「なんなの、どうしたのよ」
「んー……実はさ、学校辞めちゃおっかな、って思ってるの」
「……そんな話じゃないかと思った」
「ああ、ばれてた? いや、やっぱりねぇ。寮生活ってわたしの肌にはあんまり合わないみたい。勉強のレベルもそこそこって感じだし、魅力的な活動があるわけでもないし。先生もすごくいい加減な人ばっかりで、担任だって授業サボって自分の好きなDVD見るような人なんだよ。もう学校なんてやめて働いたほうが何倍も身のためになると思うんだよねぇ。ほら、手に職をつけるのとかいいと思うんだよね。職人の世界は若ければ若い方が有利って言うし」
「あんたはまたそうやって無責任なことばっかり考えてるのね。あんたが行きたいって言った高校なのに、結局途中でリタイヤしてるんだからどこの世界に行ったって同じよ。職人の世界なんてもっとハードに決まってるんだから、あんたは絶対同じように途中で諦めて投げ出して『自分には向いてない』って人のせいにするのよ」
「……わたしが行きたいって言った高校じゃないよ。ママがそこにすればって言ったんでしょ」
「ほらまたそうやって人のせいにして。あんたが『ここでいいかな』って言ったから『そこにすれば』って言ったんでしょ? 選んだのも決めたのもあんた自身じゃないの」
「なんでママはそうやって適当なことばっかり言うの」
「都合が悪くなったからってすぐに話をすりかえるのも悪いくせよ」
「わたしは勉強がすごくよく出来るわけじゃないし、おしゃれなわけでも美人なわけでもないしなんにもいいところがなくて、一生懸命勉強したって運動したって評価されるどころかクラスメイトに感じ悪いって嫌われる一方で、愛想のふりまき方も分かんないしどうやって生きていけばいいのか分からなくて途方に暮れることばっかりなのにママはなんでも『いいんじゃない』とか『ああそうなの』とかそんな返事ばっかり」
「わたしのせいであんたの出来が悪くなったって言いたいの? あんたが出来損ないだなんてこととっくに気づいてるわよ」
「うそだ、気付いてないよママは。わたしママの前ですごく演技してるの気付いてないじゃない。わたしがママの前で、ママママって子どもっぽく振舞って、感情的に泣いたり笑ったりしてるの気付いてない、わたしを本当にただの子どもだと思ってる」
「話が支離滅裂でよく分からないわ、伝えたいことがあるならもっと簡潔に喋ってくれない?」
「学校を辞めるとか辞めないのとかそんなのは本当はどうでもよくって」
「どうでもいいってなんなの? 学校に入ることだってタダじゃないんだしあんたの思いつきの受験にも当然お金がかかっているのよ。お金は湧いて出てくるわけじゃないのよ?」
「わかってるよ」
「分かってないじゃない、あんたはいつもそうやって――」
「心配してほしいの」
伝えたいことが、簡潔に漏れた。
「ただ、ママに、大丈夫? って、心配してほしいだけなの、わたしに興味を持ってほしいだけなの」
わたしと汐留さんの似ているところは数え切れず、たったひとつの違いは、お母さんの期待に応えるために身を削ったのが彼女であり、そしてわたしはママの気を惹くために自主的に奉仕していたということ。その事実は非常に近くかつ絶対に交わらない。ママは最後まで、表情を変えなかった。
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夕暮れを越え夜に差し掛かる時間帯、海に近い街は寂しい匂いに包まれる。海に生息する生物の生っぽい匂いが潮風に混ざって肺がやわく圧迫される。田舎街なので涙を浮かべて歩いていても、人とすれ違うことさえめったにない。街灯の少ない道をあてもなく歩いていると、行く先、目立つランドマークもないような道に五、六人の団体がいる。もちろんめったにないことだ。
「あ、いたあ!」
「え、どこどこ!?」
「うわ、ほんとだ!」
「あーっ!」
そしてその団体は、薄暗闇の中でどうやらわたしを見つけたことで何事か騒いでいる。指をさして声をあげている人もいる。声の調子から想像するに、きっと若い女の子の集団だ。
「……え?」
その中の三人がこちらへ駆け寄ってきた。近付くにつれ身なりや表情が徐々に明瞭になり、かつ見覚えのある人物に違いない。
「なっちゃああああん!」
「あっぶねー、会えてよかった。僕もう無理かと思ったよ!」
「信じれば叶うのですね……!」
「な、なにしてんのみんな……!?」
半泣きで抱きついてきたこはるちゃんを抱き止めながら、混乱を隠しきれない。ちかげちゃんやしのちゃんもさっぱりとした表情で、いつかと同じようにこはるちゃんごとわたしを抱きしめた。
「あのねなっちゃんがね放送のあと教室に全然来ないから心配で部屋まで様子見に行ったのそしたらルームメイトさんが出てきてなっちゃんは家に帰ったっていうからもしかして何かあってもう学園に戻ってこないんじゃって心配で心配でもうなっちゃんのばかあああ!」
「お、追いかけてきてくれたってこと? わざわざここまで? っていうか、どうやってここが分かったの?」
「デスクに置かれていた私物のボールペンが、武将小野乃氏没後四百年を記念してゆかりの地であるA市民に配布されているはずのものでしたので、いちかばちかA駅に足を運んでみてはどうかと提案したんです」
「いやー、そのヒントだけじゃどうにもなんねぇんじゃねぇかなって思ったんだけどかと言ってほかに手掛かりはないし、こはるは錯乱状態だしでとりあえず飛び出してきたはいいものの当然そのヒントだけじゃすぐ手詰まりになってさ。一時はどうしようかと思ったんだけど、まさか会えるなんてほんと奇跡みたいな確率だよなあ。しのさまレキジョさまさまだよ。ソフトボール部より史学部のほうがよほど社会貢献できるよなあ」
「うえええ~なっちゃあああん会えてよかったよおおお」
顔をあげると、泣きつくこはるちゃんの頭ごしにいる他の面々の姿が確認できた。後ろにいる他の三人も、やっぱりと言っていいのか、よく知っている人たちばかり。
「と、とりあえず良かったわ……。こんなにたくさん歩くことになるならフランス製の質のいいパンプスでなくトレーニング用のシューズを履いてくればよかった……」
「なんですそれ? トレーニング用って、イトウヨウカドウの一階で売ってるやたらぐにゃぐにゃ曲がる素材のやわらかいスニーカーもどきのことですますか?」
「あぁ、売ってるよねぇあれ。なんて名前なんだろうね? うちのバカオヤジもコンビニ行くときよく履いてる~」
「ちがうわよ失礼なっ!」
いまや妙な安心感さえ覚える気軽なやりとりに、つい笑みがこぼれてしまう。この面子が山の中の学園でなく潮風が吹きつけるこの街にいることはあり得ないことなのに、だからこそなんだかおかしくてたまらなくなって、あとはやっぱりうれしくて、笑ってしまうのだ。
「七里さんも来てくれたの?」
「へい、高等部のみなさんがなんだか不思議な動きをしているのが見えたもんですから、すぐさま後を追ってついてきたですますですから!」
「小倉先輩も」
「以前、わたしが下品なことを言ってしまったから……あ、いや、だからって心配してたわけじゃないけど……その、旅行も兼ねてね。たまには外へ出るのも悪くないかなって思ったそれだけの話なのよ」
「名古屋先輩も」
「ん。なつちゃんがお外で迷子になってるって聞いたからこれでも心配でしょうがなかったのよぉ。小倉ちゃんとは違ってねぇ」
「なっ!?」
「だいじょうぶ? なっちゃん、わたしのおっぱい飲んで一休みしたらどぉ? ほらほら遠慮しなくていいんでしゅよ~?」
「こんなとこでセクハラしてんじゃないわよ変態ビッチ!」
「……ごめんなさいみんな、心配かけちゃって。先輩方もすみません。わたし、別に学校を辞めるとか、そういうことじゃないから」
「そうなのおぉ? ふぇえ良かったよお~なっちゃあああん」
「うん、ごめんごめん。帰ろう」
「なぁ、なっちゃん、『帰る』って学園の寮へ、ってことだよな?」
「うん。もちろん」
「……そっか。なっちゃんがそう決めたなら、そうしよう」
わたしたちはぞろぞろと暗い道を渡って駅まで向かった。小倉先輩の足首が限界突破しかけたころようやく到着し、時刻表を確認したところで絶望が圧し掛かった。
「終電出てるうううぅ!!?」
「あ……そうか……ごめんここ田舎すぎるから終電めちゃくちゃ早いんだった……久しぶりに帰ってきたからその感覚忘れてた……」
「え、ど、どうしよなっちゃん……?」
「え~、それならそれで最悪野宿でもすればいいんじゃない~?」
「ひええ名古屋先輩どうしてそういう怖いことをさらっと言うんですかあ!」
「え? なんで野宿が怖いですますか!? この時期なら風邪を引く心配もないし気軽で楽しいですけれどますよ!?」
「あ、あなた中学生なのに野宿の経験があるのですか……!? マンガによれば夜中に外にいるとチンピラにお金をとられて殴られるのでは……!?」
「なにそのマンガ面白そうだね? なんてタイトル? 僕にも貸してよ」
「わたくしはせめてセミダブル以上の大きさのベッドでしか寝たくありませんからね?」
皆あまりにも自由で自由すぎてまとまるものもまとまらない。土地勘のある人間はわたししかいないのだからわたしが責任を持って今後の案内をすべきなのだろう。しかしこのあたりは駅前と言えど、もうすぐ閉店時間を迎えるファミレスが一軒と、わたしたちの経済力では到底相手にしてもらえないしっかりとしたホテルが一軒、それしかない。一番シンプルな解決法は、安全で金銭も発生しない我が家へ案内することなのだろう。分かっていながら、今のわたしにすぐ実現できることではなさそうだ。逡巡しているとふいに、半泣きだったこはるちゃんが何かに気づいて突然歓喜の声をあげた。
「ああ! ね、見てみて! ちかげちゃん見てよあれ!」
「え? あー……ラッキーだな。どうにかなりそう」
「え、なに? こはるちゃん、ちかげちゃん、なに見つけたの?」
「すぐそこにホテルあるだろ? あれの大本の会社、僕の実家が経営しているんだ」
いやまさかそんなわけないじゃないのそんなタイミングがいいわけないじゃないの、と、少なくともわたしは思ったし、わたしとこはるちゃん以外の全員はそもそも「僕の実家が経営」の意味自体うまく噛み砕けないようで呆然としていたがともかく先を行くちかげちゃんについていくしかない。
「お嬢様!」
「おお、せんちゃん! しばらくうちに顔見せないなーと思ったらここに勤めてたの? 久しぶりだなー元気にしてた?」
「おかげさまで、責任ある役職につかせていただきました。お嬢様も会わないあいだにずいぶん立派になられて、お友達も沢山いらっしゃるんですね」
「あ、そうそう。ちょっと明日の朝までどうにかして時間潰さなきゃいけないんだけどさ、この人数でどっか野宿できるとことか知らない?」
「なにをおっしゃってるんですかお嬢様! 野宿なんてとんでもない! 本日は予約に空きもありますので、ぜひご宿泊ください!」
「え、いいのー? 悪いねー」
「お友達の皆さまもぜひ! 申し遅れました、わたくし支配人の仙台と申します。宜しくお願いいたします。すぐに部屋を手配いたしますので、もう少々お待ちくださいませ」
わたしたち六人は、大げさすぎるシャンデリアの下で横一列に整列し、「あ、はい……」とつぶやくのが精一杯だった。
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「な、なんなんですかこの広すぎる部屋は……! マンガでも見たことがないですよ……!?」
「おわああ、こっちにも部屋があるですますよ!? それからこっちにもー! ちかげ先輩は一体何者でやんすので!?」
「ちかげ、これってあれだよねいわゆるスイート的な……!?」
「ふ、フン……このレベルの部屋なんてぜんっぜんゴージャスじゃないし全然すごくないんだから……ぜんぜん……!」
「わ~お風呂広~いこの広さならお風呂の中でひともんちゃくできるねぇ」
仙台さんの案内で通された部屋は、突然の団体客を迎えるには親切すぎる大部屋だった。野宿という選択肢がちらついていた数分前とのギャップに、皆高ぶる気持ちを抑えきれずほとんど悲鳴のような声があがる。
「おっと? 名古屋パイセン今のは聞き捨てならないでやんすけれども!? ひともんちゃくの際にはぜひ仲間に入れてほしいですからね!」
「おっけー。なつちゃんは甘えん坊だからわたし一人じゃ手がかかっちゃって満足させてあげられないかもって不安に思ってたの~」
「お黙り腐れど変態ビッチが! そっちのクソガキビッチ予備軍も、間違っても変な気を起こすんじゃないわよ! なにかしでかしたら締め上げるから覚悟しなさいな!」
「や、やっぱりタムロセンパイは後輩をシメるんですね……! 少女マンガの通りだ……」
「しのちゃんやっぱりって何!? 小倉先輩となにかあったの? 聞きたい聞きたい!」
「もーっ! ちょっと落ち着けあんたら!!」
耐えきれなくなったわたしは思わず怒鳴ってしまっていた。ベッドに飛び込んだりソファに飛び込んだりそこここの棚を目につくまま片っ端から開けて回ったり、子どものようにはしゃぐ先輩と後輩と同級生は、皆動きを止めてわたしを振り返った。
「はしゃぎすぎでしょ時間考えて! ちかげちゃんと仙台さんのご厚意なんだから迷惑ないように……!」
「まあなっちゃんの逃亡騒動がなければここに来ることもなかったんだけどね……」
声を荒げた瞬間真横から聞こえた正論に、思わずちかげちゃんを見る。ちかげちゃんはつんとした表情を浮かべながら、唇の端には不敵な笑みも滲んでいる。何も言い返せず、もう一度大きな声を上げることもできなくなったわたしの消沈っぷりが予想外だったのか、ちかげちゃんは笑いながらフォローを入れるようにわたしの背中をばしばし叩いた。
「はは、うそうそ。冗談だよ。でもなっちゃんが元気そうで良かった。なんかやっといつものなっちゃんが戻ってきたって感じ。おかえり、なっちゃん」
「あ、わたしもちかげに賛成~! なっちゃんはそうやってわたしたちにビシバシ言ってくれるほうがいい」
「そうですね、わたしも同じ思いです。なつさんがいると、やっぱり安心しますね」
小倉先輩も名古屋先輩も七里さんも、同意するように頷いている。わたしは素直でない人間で、慈しむような頷きさえ強制されたものなのでは本心でないのではなどとつまらないことを考えてしまう。
「……わたしのそういうとこ、むかつかない? 偉そうだな、腹立つなって思わない?」
「なんでですのか? むかつくなんてそんなわけないじゃないですますか!」
「そうよ。偉そうなんかじゃないわ、綾織さんはいつも正しいことをきちんと言える人だってだけじゃない」
「そうそう~、もーっと偉そうな人が近くにいるからそんなの可愛く見えちゃうよ~」
「ちょっとゆるビッチ、誰のこと言ってるのよ」
「わたし案外ゆるくないよ~? こう見えてけっこうキツキツ」
「黙んなさい!!」
なにそれ、と言いながら笑ったつもりだったのに、目からは涙が零れていた。悲しいのではなく、寂しいのでもなく、寮から抜け出し自宅のある街の中、自宅ではない場所で寮の友人と時間を共有するその不思議に、訳もなく胸が痛み訳もなく涙が溢れるのだ。無色透明の純粋な涙だった。