第十八話 独白するユニバーサル母メルカトル
「あ、王子だ!」
「ほほほほんとだ……! 授業前に一目見かけることができるだなんて有り難き幸せ……!」
「ぶ、無礼は百も承知だけど、は、話しかけていいのかなあ」
「デュフッそれは名案! ……でも具合悪そうだね? どうされたのか……わたくしどもが話しかけるなんてとんでもないのでは……」
「あ、わたし生理痛用の薬持ってるんだ、差し入れチャンス来ちゃった感じですかこれー」
「神かよオイイイイイイ」
校舎内を走れども走れども気が晴れることはなく、先に体力の限界が訪れた。足か本能かまたはその両者かが拒否をしているらしくうまく教室に辿りつけず学園内で迷子になってしまったわたしは、寮へと続く庭でもう一歩も動けずしゃがみこみ膝のあいだに顔を埋めうずくまるだけ。
「あ、あの~……」
そこへ声をかけてきたのは眼鏡をかけた二人の生徒だった。案の定わたしは知らない生徒だが、相手はわたしのことを知っているらしい。
「体調悪いんですか?」
「いえ……」
「無理なさらないでください。よかったらこれ、どうぞ。飲んでください」
立ち上がり目線を合わせると、小さなポーチから取り出した錠剤を渡された。普段、彼女の不調を手助けしているであろう二錠の小粒を静かに受け取ってすぐ、わたしは地面にそれを叩きつけさらにかかとでグリリと踏みしめた。
「いりません」
呆然とする二人と、地面で土にまみれていくみじめな錠剤を残しその場から立ち去る。
小倉先輩にしても、接点の薄い生徒たちにしても、わたしが受ける恩はいつでも物資の形をしている。丁重に断ることもあれば、部屋の前に積まれてるなどして受け取らざるを得ない場合もあるけれど、その裏には当然ながら常に差出人の姿があったのだ。たくさんの人に囲まれてしまうと一人ひとりに目を向けられなくなってしまうが、そうした振る舞いが彼女たちの「せっかくやったのに」「調子乗ってる」を引き出すのであればもう何も要らないし頼んでないし構わないで欲しいし、わたしはその旨を伝え歩かなければならない。今朝の風は肌を刺すほど冷たい。
「およ、王子!」
その声は上空から聞こえ、数秒後木の葉とともにポニーテルの少女が木の幹を滑り降りてきた。目の前で華麗な着地を決め、赤チェックのスカートについた草や葉や小枝を払いながら一回転を決めたあと、もう一度向き直って敬礼のポーズをとる。
「お久しぶりでやんす! ちょうど今王子ウォッチしに来て、でも会えなかったしもうすぐ授業始まっちゃうから中等部へ帰らなきゃなーって思って木登りしてたとこですのでラッキー! フッフー!」
「……」
「あり? どうしたです? あ、このあいだおパンティーを風の速さで持ち逃げしたことをまだ怒ってるです? ちゃんと返すですから許して! ちょっとはみはみしちゃったけど」
「……」
「……ほんと、なにかあったですか? そーいやさっき中庭で先輩たち泣いちゃってましたですよ?」
「……知らない。関係ないもの」
「よくないですよー! あんまり人を泣かせたり悪いことばっかりしてるとポイントもどんどん減っちゃうますですからね!」
「だからなんなの、そのポイントって。どこで集計されてるの? 溜まったらどうなるの? 0ポイントになったらどうなるの? 退学させるとか? もうどうなったっていいよ。どっかで誰かがわたしたちの行動見張ってるんでしょ? こんな気持ち悪い学園辞めさせられたってなんにも未練ないし」
「えー、でも0ポイントになったってやめさせられるなんて誰も言ってないと思うですますよ?」
「知らない。そもそも0ポイントになった人なんて身近にいないし、いたとしたって別にどうだっていいんだけどね」
「いるじゃん」
「……は?」
「0ポイントの人、いるじゃん。綾織さんのすっごく近くに」
「……なに、誰のこと?」
「わたし一応中等部二年生なんで、この学園のことには綾織さんより先輩だからいろいろ知ってるんでありまして、しかも若さで頭がキレッキレなもんでありますから謎解きとかって大得意なんですましてね!」
「意味わかんないんだけど、何が言いたいの?」
「綾織さんは寮の個室を特別に利用してるって噂は流れてきたんですけども、部屋に不法侵入したとき明らかに人の気配がありましたですから、名探偵七里はすぐ閃いたでありますよ。都市伝説になってる、消えた学園生のこと!」
理解までに時間のかかるわたしの頭上でチャイムが鳴り、七里さんは「ひょわああ遅刻しちゃうですますから行くますのでー!」と走り去っていった。混乱が落ち着くまでの数秒立ち尽くしたあと、吹き上げる風に急かされながら、わたしは講義棟へ背を向ける。
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いつか差し入れてもらった薬や栄養ドリンクが並ぶ自室のデスクには、わたしの昨日までの行いが数値化され映し出されている。アヤオリ ナツ 9pt――しばらく、どんな行いをしようにも変動のなかったポイントが少しだけ増えていた。なんとなく、どんな行いをしたかということより自身がどんな心境でもって生活しているのかということが重視されている気がした。根拠はまだまだ確実でないのだけれど。
寮内は風で窓が震えるそんな微かな物音さえ聞こえてこないほど静まり返っていた。ホームルームも授業も、もう始まっている時間だろうから当然のことだ。わたしは締め切った部屋の中で、自分の足音にさえ気を配りながらそっと対面にあるデスクに近付いた。顔を寄せ、そこに映し出されているポイントを見つめる。
「なにやってるの」
図ったようなタイミングだったので一瞬にして七里さんと汐留さんが手を組んでわたしを陥れたのではと邪推しかけたが考えてみてもその陥れに意味があるとは思えない。わたしはたったの数分で、ずいぶん疑心暗鬼になってしまったようだ。
「……ごめん、勝手にデスク見た」
「別にいいけど」
「あなた、先輩だったんですね。自己紹介してくれなかったから知らなかった」
皆、制服に着替え講義棟にいるはずの時間帯、汐留さんは無地のシャツにスキニーパンツというシンプルな私服で部屋へ戻ってきた。わたしが何を言っても、汐留さんの表情は変わらない。相変わらずどこかで感情を落としてきたかのような、冷静な、いや冷血な雰囲気をまとっている。
「聞かれたら答えていたわ。あなたから年齢については聞かれなかった」
「……聞いたらなんでも答えてくれるの?」
「わたしに答えられることであれば」
「あなた、何年生?」
「入学からの年月を単純に数えていいのなら……五年生。高校五年生」
「さっきパソコンをみたら、0ポイントって表示されてた。いつ0ポイントになったの?」
「一年目」
「それからの年月、どうしていたの?」
「なにもしてない。あなたは見ているでしょう。部屋で読書をして、夜は早く寝て、朝は早く起きるの」
「授業は?」
「受けてない」
「食事は? カフェテリアでも見たことないけど」
「別室でとっているの。中学のときとかいなかった? 保健室登校の子。学校へはとりあえず来るんだけど、保健室とか教室じゃない場所で隔離された生活を送るの」
「なんで、学園を出ていかないの?」
なんでも答えるはずの汐留さんは、その質問には答えなかった。わたしは質問を変える。
「……0ポイントになったら、どうなるの?」
部屋の入口に立っていた汐留さんは、うつむきがちに自分のベッドへ近付きそこへ腰を下ろした。わたしは彼女と正面から向き合えるよう、同じく自分のベッドに座って薄いペンでなぞったように精悍な彼女の顔をじっと見る。改まって向き合うのは、はじめてのことだった。
「わたし、入学するまでポイント制度のことも含めてこの学園のことはよく知らなかったの。今でこそインターネットの裏掲示板や噂話を集めたようなサイトでこの学園の情報はパンフレットに書かれていないことさえ調べられるみたいだけど……その頃は今ほど主流じゃなかったから。王子の伝説、ってやつもまったく知らないし、そもそもこの学園に入るつもりはなかったから」
「どういうこと?」
「入りたい学校があったの。都内のある大学の付属高校。残念ながら試験結果がひどいものでかなわなかったんだけどね」
この学園に飛び込んでから出会ったどんな人とも、汐留さんは違った人だった。はなからまるで別の人だったのだ。その理由がようやく分かりはじめてきた。最も人間味がなく、かつ最も親近感を覚える存在であるのには明確な理由がある。
「母はすっかり受かるものだと思っていたみたいで、不合格の通知を受け取ってから大慌てで入学を受け付けてくれる学校を探して、この姫百合学園を見つけ出してきたの。受験が終わった段階でやめてしまっていた勉強を数日間寝ずにやり直して受験をして、無事受かってそれから学費の工面や寮生活へ向けて引っ越しの準備、そんなことをバタバタこなしていたから、落ち込む暇なんてなかったのよね。春が来て少し落ち着いたところで、一気に現実がのしかかって潰されちゃったの、母が」
「んえ? お母さん? 汐留さん自身じゃなくて?」
「わたしなんて楽なものよ。何ひとつ分からないまま入学した学校にどうにか馴染もうと四苦八苦して、決められたルールも何も知らないままもがいていたから、入学するはずだった学校のことなんてろくに思い出しもしないままばたばた過ごすことができた。夏休みが来て久しぶりに寮を出て清々しい気持ちで家に帰ったら――あちこちにゴミは散乱しているし、食べかけのものもそのまま、挙句何をしようとしていたのか、溜めこんだ効力の強い薬が見つかって、母に問いただしたらお前が受験に失敗したことでわたしの人生まで狂ったんだどうしてくれる、って怒鳴られちゃって追い出されたの」
「他の家族は?」
「もともと母子家庭の一人っこなの。だからこそ母は、わたしに期待をかけることしか生き甲斐がなかったのね。わたしの受験が失敗したら生き甲斐も失われて責任をとれとさえ言われたわ」
「ひどい……親なのに」
「でも寮生の悲しいところは帰るべき場所があるってところ。母から拒絶されて死にたいくらい落ち込んでいても、寮には自分の部屋っていう帰る場所があって、母には言ってもらえなかったおかえりも、ルームメイトが変わりに言ってくれる。幸せだし悲しいことよ。少なくとも一人きりの母より」
「……わたし汐留さんにおかえりって言ったことないかも……」
「期待してないから平気」
「な、なにそれ」
「王子は忙しいみたいだからね」
「ちょ、ばかにして!」
「ばかになんてしてない。分かるの、わたしもそうだったから」
シャツの胸元にはくっきりとした白い鎖骨が覗いている。あまりに細く華奢だから、男性らしい印象を与える人だ、と丁度感じていたところだった。
「入試の前後がバタバタしていた理由のひとつにそれもあるの。大雪も大雪で、寮に入るから引っ越ししましょう、って言ったって降雪作業がスムーズに進まなくちゃどうにもならないわよね。やっとの思いで入ったら、学園長に『新入生スピーチをやってほしい』って頼まれて。『新入生スピーチをやると、その後の学内での生活が変わるかもしれない、注目されることも多いだろうし、あとへ続く大切な任務だから拒否してくれてもいい』って言われて」
「え、佐和さんそんなこと言ったの? わたしそこまで丁寧な説明受けてなかったんだけど……」
「あなたなら、きっと大丈夫だと思われたのよ。わたしがここへ入ってきたときは誰の目にも不安なくらい覇気がなかっただろうし、そもそも学園長も他の人へ振るつもりで声だけかけたんだと思う」
「でも結局引き受けたんでしょ? 覇気がなくなんてないじゃん、すごい前向きな……」
「わたしじゃなくて、母がね。母は名声とか責任とか、そういうものがとにかく好きだからわたしへの説明もなく勝手に承諾しちゃったの。当日になって『新入生スピーチよろしく』って言われて、聞いてませんって返したときの学園長の顔がいまだに忘れられないわ。母とわたしが別離しながら一体になっているこの関係について、本当に驚いていたんでしょうね。スピーチはどうにか即興で考えたんだけど壇上の明るさで頭が真っ白になって、何を言ったのかいまいち覚えてないの。そんなぼろぼろのスタートだったのにスピーチをやったっていうだけで生徒からは慕われて、今思えば特別扱いも沢山受けたと思う。期待に応えなきゃとも思って頑張ってはいたんだけど、夏休みが終わったらすべてが一気に破綻したわ」
陰りの落ちる表情から、汐留さんの苦しさを垣間見た。今、汐留さんのお母さんは、わたしたちの状態をどこかから見ている気がする。
「学園へ戻ってルームメイトやクラスメイトと普段通りの挨拶をして、授業を受けて食事をして同じように過ごしていたんだけど、夏休み明けは周りの人にも変化があるの。一学期よりも熱心に勉強する人がいたり、部活動に打ち込んだり……周りに置いていかれないよう必死になるほど、母の様子が呪いみたいにまとわりついて身動きがとれなくなって、母に首を絞められる夢を見たり、目が覚めたら母が枕元に立っていて殺されるんじゃないかって思うようになったり、そうしている内に授業にも集中できずテストの点数も落ちて、周囲の人とも距離が生まれて、焦るあまりにカンニングや不正行為へもためらわなくなって」
「ちょ、ちょっと待って。情緒不安定になるのは分かるけど、テストの点数なんてそんなに気にしなくていいんじゃないの?」
「そうね。今となってみればそう思えるわ。でも当時は、母がわたしに期待しているものも、周囲の生徒たちがわたしを慕ってくれるのもすべて勉強という一点のみだと思っていたのよ。他に自信のもてる長所がないというのもあったけど、だからこそどんな手を使っても勉強のできる優秀な人、というイメージを保ちたかったの」
「カンニングなんてしたら、すぐばれるんじゃないの?」
「不思議と先生やクラスメイトにはばれなかったわ。王子っていう色眼鏡を、こんな形で有効利用するのも気が引けたけれど『王子はそんなことしない』っていうイメージにずいぶん助けられてたの。でもデスクのポイントはどんどん削られていって、必死にボランティアや清掃活動に取り組んでポイントを稼いだって定期テストや小テストの度に減って、気が付いたら残り数ポイントになっていたの。でもわたし、ポイントがひと桁まで減ってしまったら妙に安心して」
「安心? どういうこと?」
「これで家に帰れる、って思ったの。今もそうだと思うけれど、あの頃ポイントが尽きることを皆恐れていて、その実尽きたときどうなるのかは誰も知らないから退学させられるんだっていう噂だけが独り歩きしてたのよ。だからいっそ退学させられてしまえば、家へもどって母と話し合って、もう一度母の望む学校へ挑戦するチャンスがもらえるだろうって。逃げるための言い訳でしかないんだけど、当時のわたしには名案みたいに思えたの。最後の数日は授業へも出ず本当に自堕落に過ごしたわ。そうしたらあっという間に最後の数ポイントも尽きて、学園長室へ呼び出されたの」
「佐和さんに、なんて言われたの?」
「……何も言われなかったわ。むしろ聞かれたの。『どうしようか?』って。すぐ辞めさせてもらえると思っていたから拍子抜けしたけれど、向こうから決定打を与えられないのであれば自分からやればいいや、って安直に考えちゃったのよね。翌朝学園を抜け出したの。バスもないような朝早くに」
「え? バスのない時間に抜け出して……どうするの?」
「ずーっと歩いて下っていくの。ふもとの駅まで」
「え!? いやいやあり得ないでしょ、どう考えても歩いて行ける距離じゃないよね!?」
「何時間もかかったと思う。ようやく駅について、そこから電車に乗って地元の駅についたときにはもうすっかり真っ暗だったから。すごい疲労感だったけれど、それ以上に解放された喜びで浮足立っていたからまったくつらくなかったの、不思議なものね。駅から家までも全速力で駆けて、インターホンを鳴らして、聞こえてきた『どちらさまですか?』っていうノイズ混じりの母の声を聞いただけで涙が出そうなくらいうれしかった。『ただいま、とうかだよ。帰ってきたよ』って言ったらもう一度『どちらさまですか?』って返ってきたの。聞こえなかったのかなと思ってもう一度口を開きかけたら『うちの娘は寮生活をしていますので、こんな時間にこの場所にいるはずがありません』って。ずいぶん用心深いからインターホンへ向かって一から説明をしたら今度は『それならもっと家に入れる必要はない』って」
「ど、どういうこと?」
「妥協して入った学校でさえ卒業できないのであれば、我が家の娘として迎えることはできない、っていう意味よ。そのときのわたしもあなたと同じ反応をしたわ、どういうことなのか分からないし、外は寒いし疲れが一気に噴き出てパニックになって、何度もインターホンを鳴らしてドアを叩いて声をかけたけど出てこない。近所の人も、おかしな家庭に巻き込まれたくないのか見て見ぬふりするばかりで誰にも声をかけられない。でもとにかくどうにか家に入れてもらいたくて裏口に回りこんだの。裏口の窓から電気がついた居間の様子が見えて、そこに母がいるのが見えたわ。顔を見せれば実の娘だってやっと分かってくれるだろうと思って、窓を叩いたの。目が合った母はやつれていたけれど、以前と同じ母だった。窓に近づいてきて、わたしをじっと見て、そして、カーテンを閉めたの」
汐留さんの語り口はシンプルで、それゆえ今この瞬間疑似体験をしたように背筋が震えあがった。大好きな、唯一のよりどころである母がカーテンという薄く軽いもので、軽々と自分との境界線を引いてしまう瞬間――汗が噴き出て、喉がからからになった。
「そこまで拒絶されれば、察するしかないでしょう。母にとって出来の悪い娘は存在しないの。わたしなんて、もう母の娘じゃないの。気付いたけど呆然として何もできなくて、でもとにかくもう一度玄関に戻ってドアの前でしゃがんで、明日の朝になるか夜になるかもっと時間がかかるのか、それは分からないけれどきっとどこかのタイミングで母が外に出るだろうから、そのときにちゃんと顔を合わせて話し合おう、インターホン越しじゃなく窓越しじゃなく、ちゃんと話して中に入れてもらおうと思ったの。すごく寒い日だった。秋も深まっている時期だったんだけど、薄着で飛び出してきていたから。そうしたらね、迎えに来てくれたの」
「……誰が?」
「学園長――佐和さんが」
「え? な、なんで……?」
「それはいまも分からないの。それでも薄手のコートを着た、ちゃんと大人の佐和さんが我が家の門に立ってるのを見たとき、何かを考えるより先に涙が出てその場で泣き崩れちゃって、佐和さんに抱かれながら帰ってきた」
「佐和さんはそこまでどうやって行ったの? バス?」
「軽トラックで来てた」
「なんで!?」
「あとで聞いたら、免許は持ってるけど車がないから山の中で農作業していたおじいさんに貸してもらったみたい」
「ほ、ほんとにちゃんと借りたのかな……あの人のことだから盗んだとかじゃないでしょうね……」
「でも、佐和さんには本当に助けられたのよ。玄関に座っていたときにはわたしには家も寮も、帰るべきところは何ひとつないんだって認めるしかなくて、でもそうした極限の状況で最後に手を差し伸べてくれるのは母ではなくて佐和さんだった。見張られてるって考えるとすごく気持ちが悪いけど、見守られていたのよ。多少のカンニングやもつれであれば見逃してもらえて、ポイントっていう形で自らを省みる時間を与えながら。それでも決定的なタイミングにはすぐ飛んできてくれる」
「……案外、頼れる人なのかな」
「さすが学園長、って感じでしょう。帰りの軽トラの中で大声で泣いて、泣き疲れて眠って起きたらいつもの寮の部屋にいたの。当然肩身は狭くて授業へもカフェテリアへも行きづらくなって佐和さんが用意してくれた部屋で生活をして」
「ああ、それが別室ってやつ……」
「そう。直接言われたわけじゃないけど、佐和さんは他にも色々手を尽くしてくれていたんだと思う。母にかけあったりだとかね。ひとつだけ言われたのは『この学園はあんたの居場所だから、あんたさえ悪くなけりゃどれだけいたっていい。そのあいだに、自分がどうすべきかを、自分で考えなさい』ってこと。母はね、いまだにこの学園へ学費を納めているみたいなの。何年かかってでも卒業しなさい、って意味でしょうね」
汐留さんは投げやりに行って、窓の外へ目を向けた。窓の外には広がっていない、地元の風景を見ている。
「0ポイントになれば即退学ってことであれば、どんなに楽だったかって今も考える。怖いのは、辞めさせてもらえることも怒られることもなく、ただ静かに自分自身と向き合う時間を与えられること。何日、何カ月、何年経っても答えが出なければ、同じ生活を引き延ばしながらさらに何日でも何カ月でも何年でも、あるかどうかも分からない答えのためにひたすら考え抜くのよ」
身体中の体温が足元へ向かって滑り落ちていく感覚に襲われ、座っていながら貧血を体感した。汐留さんへの同情とも、自身の未来への不安とも違う。恐怖。ただただ純粋な恐怖で、身体中の震えを抑えきれずにいたのだ。