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第十六話 僕ってダミー

「綾織さんが例のトイレにご来場されたらしい」

「まじか」

「え? 例のトイレって?」

「あれ、知らない? 視聴覚室横のトイレ」

「なにそれ? っていうか視聴覚室ってどこだっけ」

「視聴覚室のトイレってあれだよ、ラブトイレットってやつ」

「なにそれ」

「ネーミングセンスの塊か」

「まあラブホテルと同じニュアンスだろうね」

「え? あ、例のトイレってそういうこと? そこに綾織さんが!? くわしく教えて」

「わたしも噂でしか知らないんだけど、なんかクラスメイトの子と一緒に来たとかなんとか」

「うわーまじかー」

「やっぱ同クラ有利だよね」

「綾織さんが今つるんでるメンツって同クラの席近い子たちばっかなんでしょ?」

「なにそれずるくない? 運ゲー要素強すぎかよ」

「もーわたしたちとかどう頑張っても接点ないし無理じゃん」

「部活とかで無理やり関わるしかないよね」

「てか部活って結局なんなんだろうね?」

「綾織さんって部活入ってるの?」

「しらなーい。なんか入ってるらしい、って噂だけは聞いたけど、何部かとかの情報全然入ってこない」

「ねーそろそろ情報共有グループ作ってそこに流して?」

「あーそうするかぁ」

「情報集めるのも楽じゃないんだよね。SNSで検索すんの時間かかるし」

「わかるー」

「あー綾織さんと一緒にお茶会したーい」

「わたしの作ったブラウニー食べてもらいたーい」

「あんたが作ったやつとか危なそー。なんか入ってそー」

「わかるー」

「なんでよー!」


 普段は静かなラウンジには、今日に限って先客があった。三人組の女子はポテトチップスの袋をシェアしながら口ぐちに好き放題言い合っている。よりによって中心にあるトークテーマはわたしのようで、せっかく彼女たちの関心がポテトチップスに向いているのに自ら気づかれにいくことはわたしにはできない。振り返って後ろにいた人に、そっと声をかける。


「ご、ごめん……やっぱ中庭に場所変えてもいい?」

「別にどこでもいいけど」


 青梅さんはすっかり落ち着いている。中庭の猫足チェアに腰掛けて正面から表情を見たときでさえ普段通りの印象を受けるだけだったので、つい数分前先輩に怒声を浴びせたままトイレを飛び出したので追いかけて学園中を探しまわると、雨上がり間もなくのグラウンドでスニーカーが汚れることもいとわず50mダッシュに明け暮れていた鬼気迫る人とは別人なのではないかと思ってしまう。必死につかまえちょっと話をしようよ、と誘い出したものの、場所選びも話題選びもなにひとつスムーズにできない。


「金があればそれはいいことだ、っていう考え方ほんとに嫌いなんだよ」


 そのため、真理めいたその言葉を吐いてもらうまでにも時間がかかった。


「中庭すっごいきれいになってる、あの辺の花とか前はなかったよね? 誰かが植えたのかなすごいな、なんか暑いね、っていうか湿気すごいよねやっぱり雨降ったからかな。あっ赤羽さんはまだトイレ掃除やってくれてるみたい、ちゃんと最後までやり抜きたいんでわたしのことは気にせず、って言ってたあと小倉先輩はなんかフランス語みたいなよく分からない言葉でいろいろ言いながらどっか行っちゃった。あーなんかお腹すいたねそんなことない? 赤羽さんはまだ蚕持ってるのかなわたしまだあの美味しさ実感できてないから試しにまた挑戦してみようかなって話を前に葛西さんともして……」そこまでずらずらずらずら一人で喋っていたのだが、青梅さんは「葛西さん」というワードでようやく張りつめていたものを解き、先ほどの言葉に至ったのだ。


「あのさあ、さっきの、なんだっけ、なぐら先輩?」

「小倉先輩ね」

「そのねくら先輩も結局金があれば幸せになれるみたいなこと言うでしょ。そんなはずないんだよ。着たくもない服着させられて食べたくもないもの食べさせられて、嫌がれば誰のためにやってると思ってるのよ、とか、価値あるものを嫌がるなんて贅沢恥知らず、とか、言いたい放題言われてそれを見ていた姉からは容量が悪いって嘲笑われてやりたいことなんかなんにもできないしねくら先輩が言ってるような幸せなんてあり得ないし普通あんな風にひけらかそうと思わないはずなんだよ」

「……小倉先輩ね。でも今の青梅さんはスポーツとか、やりたいことを活発にやってるイメージだけどな」

「昔は全然ちがったよ、泣き虫でいじめられっこで。でもこはるみたいに嫌なことはぜったい嫌だ! って泣いて暴れてでも主張できるような子と一緒にいたからようやく、家族にもおしゃれよりもソフトボールがやりたい、って言えるようになったんだよ」

「お母さんもお姉さんも、すぐ許可してくれたの?」

「まさか。スポーツなんて男がやることだとか散々反対されて、隠れてやりはじめたんだよ。まだ小学生だったし隠しごとなんてしてるだけで震えるくらい緊張したんだけど、それでもソフトボールが死ぬほど楽しかったから幸せで幸せで、ああそっか自分のことを女の子だと思って言われた通りにしなくちゃいけないから苦しいんだ、男の子になればいいんだ、僕は男の子なんだって思ったら一気に気持ちが楽になったんだ。でもきちゃったんだよね」

「なにが?」

「生理」


 さっぱりとした彼女のパーソナリティのその内側に潜む、抱え込んだものものは親密度に合わせ少しずつ露呈していった。そして最も明確な女性らしさが青梅さんの口からさらりとこぼれ、独特のぬるい熱を受け取ったわたしはとっさに返事ができなかった。


「かっこ悪いけど結局、抗えないものにはどうしたって抗えないし、少なくとも僕みたいなヘタレには無理なんだなって思ったよ。それでも家にはいたくなくて親には『女性らしさを思い出すため』とかなんとか色々言ってここに入学したんだけど、もちろんそんなつもりはないし、でもお金は出してもらって中途半端な反抗して……こういうのほんとダッセェなって自分で思ってるんだ。だからこはるが、綾織さんにうちの実家のことを話しちゃった、って聞いてついカッとしちゃって」

「いや……こはるちゃんが好き勝手べらべら喋ったわけじゃないよ。前にサンドイッチ買ってきてもらったとき、財布の中に入ってた写真を見ちゃったのはわたしだし」

「ああ、やっぱり」

「ごめん……」

「いや、いいんだよ。本当に見られたくないものだったら自分の部屋にでも保管しとくでしょ。財布なんかにいれて持ち歩いてた時点で、たぶん僕も誰かに本当のことを知ってほしくて、こういう弱みみたいなのを見せて甘やかされたかったんだと思う。……でも綾織さんの前だけではかっこつけたいって思ってたからそれで八つ当たりみたいにこはるにいらいらして、ほんと勝手だよ」

「そんなことないでしょ。まあわたしもはじめはこはるちゃんの写真なのかなって思ったけどね」

「はは、あの格好ぜんぜん似合ってないでしょー? 僕とは思わないよね」

「でもきれいな髪だなあって思った」

「長い髪もスカートも全部全部いやだったんだ。だからお母様に挨拶をして家を出てから、駅のトイレで急いで着替えて、持ってた図工用のはさみでポニーテールちょんぎったんだ」

「ええ!? もったいない!」

「こはるにも怒られて、入学式の直前にきれいなショートヘアになるように整えてもらったんだけど、でもそんくらい自分の中では大きな決別だったんだ。だからって家族への恩がないわけじゃないから、あの写真だけは持ち歩いてる。そのくせ全部忘れて、お姉様ともこはるとも言い争っちゃったんだけどさ」

「ふぅん……」

「あれ、そういえばさっきこはるちゃんって言った?」

「え、あ。ほんとだ。なんか耳にしながら自然に言ってた」

「はは、いいじゃんいいじゃん。僕、苗字にさん呼びってすげー苦手。なんか距離感じるんだよ」

「こはるちゃん、いい名前だよね。……もちろんちかげちゃんも」


 夕暮れの中庭に、湿気を含んだ草の青い匂い。ゆるく舞い込む風にちりちりと葉がこすれて鳴る。青梅さんはとつぜん、胸元に手を当ててぐっと身体をかがみこませた。


「うっ……」

「なに? どうしたの?」

「いや……大丈夫。心臓痛くなっただけ」

「なんで、持病かなんかなの?」

「天然でやってんのか……さすが王子は違うなぁ……僕も学ばせてもらわなきゃ」

「なにが?」


 青梅さんは眉をハの字に垂らし、口をいーっと横に広げた不思議な表情をした。冗談めいているのにかわいい、不思議な表情だ。


「あ、綾織さん、青梅さん」


 そうしているあいだに夕食の時間が近づき、わたしたちはずいぶん穏やかな談笑に終止符を打って立ち上がった。校舎に戻ると後ろから声をかえられ、振り返るとそこに赤羽さんがいた。隣には葛西さんの姿もあり、わたしたち二人の姿に気づくと困ったように視線を泳がせた。


「あぁ、赤羽さん。ごめんね、途中で抜け出しちゃって。トイレ掃除ありがとう」

「いえいえ。通りがかった葛西さんが手伝ってくれたおかげで思っていたよりも順調に進んで、先ほど区切りがついたんです」

「いや……、じゃあ、わたしはこれで」


 あまりに不自然に話を切り上げ、葛西さんは背中を向けてしまった。今までのわたしならそこで、面倒だとため息をつくだろうか。勝手だと非難するだろうか。どちらにしても、去るものへの興味など持てなかったに違いない。


 今まで。たった数時間前が単純な言葉の内側に押し込められる。契機はいつの間にか訪れている。


「こはるちゃん!」


 ああしまった声が裏返った。去っていく背中を引き留めたいという気持ちばかりが先走って裏返ったなんだこれだっさい。でもそんなことを気にしている場合じゃない。


「い、一緒に夕飯食べないの? ……食べようよ。食べて。ね? ちかげちゃんもその方がいいでしょ?」

「ああ、うん。一緒に行こう」


 隣にいたちかげちゃんは、そんなわたしの意図をすぐに汲みうなずいてくれた。こはるちゃんはと言うと、足を止め、振り返り、胸でもつまさきでもわたしたちを見て、一瞬の空白のあとすべての思考や言葉を超え、まんまるの瞳にぶわりと涙が浮かんだ。


「ちょ……なんで泣くの!」

「う……っ、だ、だってうれしくって……! あ、綾織さんが……なっちゃんが、わたしの名前呼んでくれるなんて……もう死んでもいい……っ!」

「情緒豊かすぎでしょすごいな!」

「なっちゃん……! ねぇ、抱きしめさせてもらってもいい?」

「は!? え……ちょっ……」


 許可をとるような謙虚な姿勢を見せながら、結局わたしがなにか答える前にこはるちゃんは両手を広げて走り出していた。行き先はわたしで、もう逃れる暇も答える暇も与えられないままとりあえず迫ってきた彼女をしっかりと抱きしめる。目の前で揺れる髪からぶわりと甘いあまい匂いが舞い上がり、手のひらにおさまった身体のやわらかなラインと厚みに、ばかみたいだけどどきどきしてしまって何も言えなくなっているところへほかの二人の笑い声が聞こえた。


「なになに、相撲? 僕強いよ、参加していい?」

「や、やめて!」

「そういえば以前、自己紹介で相撲がお好きだとおっしゃっていましたよね。では、わたくしも参加させていただきます」

「よく覚えてたなそんなこと! ちょ、ほんとにやめ」


 最後まで言い切るより早く、ちかげちゃんとしのちゃんが飛び込んできた。一度に二人分の寄り切りに対応することができず、胸にこはるちゃんを抱えたまま足元がふらついてしまった。軸になるわたしがぶれることで、四人分の体重は居場所をなくす。


「あぶな……っ!」


 声を漏らしたときには遅かった。ぐらりと背中からその場に倒れこみ、いちばん下にいたわたしは三人に潰されてしまった。広い廊下に短い悲鳴と笑い声と、ぶっ倒れる衝動の音が響く。


「お、おもた……っ!」

「はははっ!」

「わ、笑ってないで早くどきなさいよ!」


 涙が出るほどに笑っている三人が順に立ち上がりようやく解放される。わたしがずるずるとにぶい動きで上半身を起こしたちょうどそのとき、ほかの三人もまったく同じタイミングで、まったく同じことに気づいたのだろう。


「……あ」


 わたしが倒れこんだ床のすぐ隣に、背の高い観葉植物が寝そべっている。植物の根を支える土は一瞬の衝撃をいまだ残すように広域に散らばり、その土には鉢が割れて欠けた破片が混ざっている。ゆっくりと自分の腕あたりを撫でてみるとそこにもぱらぱらと乾いた土がこびりついている。皆、言葉はないまま互いの目を順番に見て、あっこれあれだよねわたしたちが倒したんだよねそうだよねもとからこの状態でここにあったなんてそんなわけないもんね、と確かめ合う。


「お前らァ!」


 当事者たちにもうまく処理のできな不穏を、どこからどうしてどうやって嗅ぎつけてくるのだろう。竹刀の音が響き渡り、恐れていた人の登場はあまりにも早かった。


「なにやってんだ、こんなとこで暴れてんじゃねぇ! 挙句なんの罪もない植物を傷つけやがって!」

「す、すみません氷見さん……いやでも前はこんなとこに観葉植物なんてなかったし……」

「あァ? 生徒が景観のために自主的に持ち込んでくれたその気遣いを邪魔モノみたいに扱うつもりか?」

「い、いやそういうわけでは……」

「とにかくお前ら全員夕飯抜き! すぐにここ片づけておけ! いいな!?」


 怒鳴り声を残してまた竹刀の音はカフェテリアの方へと遠ざかっていく。氷見さんが去って行った方向からは食事をとるため徐々に集まってきている生徒たちのにぎやかな声が響いていて、だだっぴろい廊下で土まみれで尻もちをついたまま唖然としているわたしたちはあまりにもみじめだ。でも今日は、皆笑っていた。


「では、こはるさんは用具入れから土を掃くためのちりとりとほうきを持ってきてくれませんか。わたしは水ぶき用のぞうきんを用意してきます。ちかげさんとなつさんのお二人は、協力して植木を元に戻しておいてください」

「は、はいぃ」

「ういっす」

「はい……」


 目の色を変えてきぱきと指示を出したしのちゃんと、煽られるまま行儀よく働き始めたこはるちゃんの背中を見送ってから、ちかげちゃんと協力し合いながら倒れてしまった背の高い植物を持ち上げる作業にうつる。


「あ、案外重たいなこれ……」

「いいよ、僕ひとりでやれるよ?」

「だ、だいじょうぶ! ばかにしないで!」

「……なんか前にさー」

「うん?」

「僕、こんな学園たのしくない、みたいに言ったと思うんだ。校舎裏でサンドイッチ食べながら」

「ああ、言ってたね」

「でもやっぱ楽しい。家にいるより五億倍楽しい。腹減らしてへろへろになりながら力仕事とか掃除をすることでも、むちゃくちゃ楽しい」


 ちかげちゃんの表情は爽快そのものだった。「むちゃくちゃ」というラフな言葉だって、きっと彼女の母や姉の前では叱られ強制的に正されるものなのだろう。指先に土をまとわせながらけらけらと笑う彼女を見ていると心地よい脱力感が自らへも返ってくるようだった。


 わたし自身もこの学園に馴染んできていることを自覚しはじめている。かつてのプライドや進学校への執拗すぎる執着を思い出し、恥ずかしくなることさえある。もっと時間が経てばそれらの記憶を鼻で笑うようになり、そしていつかは懐かしんで眼を細めるのだろう。そう思っていた。



 まだ平和だったから、そんな幻想を気軽に抱くことさえできていたのだ、この頃は。




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