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第十四話 時の果ての便所

 変化はあまりに些細なたとえばトイレの一番奥の個室にも平等にもたらされるので面食らうことがある。


「綾織さん、どうされました?」

「いや……個室んなかになんかあの、いい匂いのする棒があって……なんて言うのあれ」

「ディフューザー、ですね」

「そう、それで用足しながらすごいいい匂いに包まれてびっくりしちゃって……」


 氷見さんの放送が学園内に響き渡って以来、目に見える変化が続いている。秩序なく貼り出されていたポスター類は氷見さんの眉がつりあがる前に剥がされ、ついでに周りの窓も床も綺麗になっていた。廊下だけでなく教室、トイレ、寮のロビーなどにも皆の手が加わり、時には清掃にとどまらずこうして誰かが持ち込んだ芳香剤が添えられることさえある。皆、やみくもに部活動勧誘をすることより、いかにして学園内の環境をよりよくしていくかということへ意識が流れたようだ。


 手洗い場で赤羽さんと肩を並べていると、額に汗を浮かべた明るい表情の少女が飛び込んできた。


「綾織さん赤羽さんおはようございます~!」

「葛西さんおはよう。なんか疲れてる?」

「へへ、実は空き教室の窓磨きをしてきたの。ちょっと疲れたけどピカピカになって気持ちいいですよ~」


 手を洗ったわたしたちと、汚れた雑巾を絞った葛西さんは廊下へ出た。白い光が差し込む朝、ホームルームが始まるまでにはまだ余裕があり、今までなら皆カフェテリアで談笑したりぎりぎりまで自室にこもって眠ったりしていたのだが、講義棟には葛西さんのほかにも清掃活動に取り組む姿があちこちに見られる。


「いやー! 掃除は気持ちいいなー! わたしなんか昨日の夜からずっと拭き掃除して雑巾八枚ボロボロにしたよ!」

「へぇー! すごいね! わたしは水場を何時間も洗ってたから手の皮膚ズッタズタ!」


 通りすがり、生徒たちが黄金の視線とともにちらちら飛ばす言葉はどうやらわたしに向けられているようだが、結局聞こえないふりをして教室を目指す。


「あ、綾織さんおはよ」


 角を曲がったところで、青梅さんに出くわした。目が合ってごく自然にわたしの名を呼び、口角もあげかけたところで黒目がくらりと揺れ彼女の意識がわたしの周囲を舐めたあと、すぐ背を向けられた。


「あれ、青梅さん教室行かないの?」

「いや、部活のミーティングの途中なんだ今」


 青梅さんはあまりにも不自然な所作で来た道を戻っていく。そして間髪を入れず葛西さんが白々しく声をあげる。


「そうだ! わたしも部活で提出する作品仕上げなきゃ!」


 前までは食事も休み時間も暗黙の了承のもと共有していたのに、ああ部活とは便利。ぺりりと剥がれるように二人が去っても、喉にからい空気だけがわたしと赤羽さんを囲うように残っている。


「なんかこっちまで気ぃ張っちゃうなー……」

「青梅さんと葛西さん、ずっと仲良くしていたのに……どうされたんですかね」


 ちょうど氷見さんの放送があったあたりから、どうにも青梅さんと葛西さんの様子がおかしいのだ。どちらも一対一、もしくは赤羽さんを含む二対一で顔を合わせる分には普段となにも変わらない穏やかな対応をしてくれるのだが、青梅さんと葛西さんが顔を合わせると途端にギクシャクした空気に変わる。


 もーめんどくせーなけんかならけんかで気が済むまでやりあえばいーじゃんそんな気ないならちゃっちゃっと表面上だけでも謝っておけばいいじゃん、と言ってしまいそうになるが、その言葉が良い未来を産まないことなど明白なので今日も昼休みは赤羽さんと二人で定食を食べる。断ってばかりいたためか無理に差し入れを押しつけられることもなくなり、穏やかな昼休みに身を委ねていると食事を終えた赤羽さんがふいに立ち上がった。


「さて、と。わたしは残りの時間を清掃活動をあてますので失礼します」

「え? せっかくの昼休みなのに!?」

「ですが、時間がありますし」

「じゃあ、わたしも行こっかな……」

「え?」

「ん、なに?」

「いえ。今日はトイレ掃除をメインにしようと考えています」

「トイレ? わたしデ……デフィ……デッ……芳香剤とか用意できないけど」

「あれほど手入れの行き届いたトイレは多くないですよ。使用頻度の高くない場所はもっと汚れているはずなので、そういうところを探して掃除します」

「あんまり使われないトイレなんて、一生懸命掃除してもだれも気づいてくれないんじゃないの?」

「そんなことありません。どんな行いも必ず評価されるのが、この学園の魅力ですから」


 きっと赤羽さんは氷見さんの目が届くところでも、誰のまばたきも吐息もない場所でもまったく同じようにふるまうのだろう。彼女の誠実さに改めて関心しながら講義棟を歩くが、トイレに限らず廊下も窓もそこから見下ろす中庭までも磨かれ手入れされ、綿埃も雑草もなにひとつない。現にいまも階段の手すりを拭く人、友達と協力しながら電球を取り換える人などの姿が目に入る。なるべく手の行き届いていない場所を探し歩くと、視聴覚室横のトイレに辿り着いた。


「なんかもー……花子さん系じゃんここ……」

「いかにも使われてないって感じですね」

「なんでこんな暗いの? っていうか、クモの巣はってるし」

「便器も汚れてますね……」

「なんか変な匂いもしない?」

「やりがいがありますね……とりあえず始めていきましょうか」


 視聴覚室は入学後一度も足を踏み入れたことがなく、当然隣接のトイレもまた同様。使用頻度の高いトイレは皆が手を尽くしているため、そちらを基準に考えると妙に生っぽい空気がこもるトイレは居心地が悪いのだが、それゆえ意欲的な赤羽さんに続いて暗い個室を覗きこもうとした、そのとき。


「なーにをはじめるのかなー?」


背後で響く声に、背筋がぞあぞあと震えた。反射としか言えない反応にようやく思考が追い付き、ぎこちなく振り返るとそこに、とっても優しい声色にとっても優しそうな笑顔で立っている人がいる。


「お、お久しぶりです名古屋先輩」

「久しぶりぃ。綾織りさん、なんか大人っぽくなっちゃったねぇ」

「え? そ、そうですか」

「んー。はじめのころはもーっと純粋でかわいかったのになぁ。おっぱい触ったくらいで真っ赤になっちゃったりしてー」


 あの夜ーー風呂場でのどたばた劇こそが名古屋先輩と距離を縮め、る羽目になってしまった出来事であり、かつ優しい言葉や表情にこの上ない不安を煽られたきっかけである。名古屋先輩はなにを語りたいのか汲み取りきれない独特の笑顔をぴったりと顔に張り付けたまま、ゆっくりとこちらへ歩み寄ってくる。


「なんか一人の女の子と仲良ししてるって噂は聞いてたけど、よりのよってこのトイレに女の子連れ込んじゃうんだねぇ」


 久しぶりに会ったかと思えば、相変わらずよくわからない先輩だ。どこから湧いて出たのかわからなければ、何を言っているのかもわからない。たかだかクラスメイトとトイレに行くことがそんなに珍しいのだろうか。ツレション、なんて女子文化の王道中の王道だって言うのに。赤羽さんも頭にクエスチョンマークを浮かべている。名古屋先輩は何が言いたいんだ。こんなただのトイレがなんなんだ。


「綾織さんはもうこどもじゃないんだねぇ」

「……え?」


 先輩は拗ねたようにくちびるをとがらせる。あれ、あれ、なんだこれ。なんとなく、本当になんとなくだけど気づいてしまったかもしれない。


 ここは『ただのトイレ』ではないのかもしれない。






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