第十三話 かなり名誉ある人質
ふ……っ、うぅ……
どうしたの? なんで泣いてるの?
うぅ、うっ、いたい、ひじ痛い
わ、血がでてるよ。どうしたの?
男の子に、つきとばされた
たいへん! 早くおうち帰って手当してもらわなきゃ!
だめ。おうちはだめ。いじめられてるなんて知られたら、お母さまもお姉さまもすっごく怒るから
でも、早く手当しないとばいきんが入っちゃうんだよ?
あ……
どうしたの?
あの子たち、さっきわたしを突き飛ばした子たち。あそこで笑って見てる
あの子たちね。ちょっと待ってて
え?
こらぁ、待ちなさい! ちゃんとちかげちゃんに謝りなさい!
目を開けると眉間の内側が熱くなるような眩しさに襲われ、再び布団にもぐりこんだ。朝が来るたびこんな風に容赦のない朝日のちからと夢の残り香に挟み撃ちにされてぼうっとしてしまう。つい先ほどまで目の前にいた二人の幼い少女たちは当然、夢の中だけの存在であって、互いをちかげこはると呼び合っていようとそれはわたしが創造した夢に過ぎず、いつか聞いた話を考慮した内容であったとしてもそれさえ想像に過ぎないのだ。
今朝も部屋にルームメイトの姿はなく、しかし人の気配がある。
「あ、先輩おはようございますですわー」
「なんか不法侵入が板についてるね……?」
「そんな、めっそーもです! わたくしめはここに散らかっていた荷物の整理とおそーじをかってでたでして!」
七里さんは今日も元気に不法侵入していた。きっと前回と同様、人目を盗みつつ忍者のごとく木々を渡ってここへ着いたのだろう。そこまでして部屋へ駆けつけてくれる親切な後輩は、受け取ったままそこらに放置していたプレゼントを片づけてくれていたらしい。確かに、秩序なく積まれていた包み紙や袋は処分され、中身は薬・菓子・飲み物など種類別に分けられた上でデスクに並べられている。思わず感心しながらベッドから抜け出しデスクの前に立った。
「あぁ……意外としっかりしてるのね、ありがとう」
「いーえ! お礼は生おっぱいたっちで結構です!!」
なにか言っている後輩は無視し、デスクに表示されたポイントを確認してやっぱり、とため息をつく。
アヤオリナツ ルイケイポイント8pt
「ねぇ、中等部のほうにもポイントシステムってあるの?」
「へ? あるですよもちろん」
「あんた、こんなに不法侵入とかしてばっかりいたらポイント減らないか心配じゃないの? って言ったって、わたしも最近ポイントに動きがないから何をしたらポイントが減るのか知らないし、そもそもゼロポイントになったらどうなるのかもわかってないんだけどさ」
「……知りたい?」
「え?」
「ポイントがなんなのか、尽きたらどうなるのか、知りたいのですか?」
起きぬけのゆるい頭に彼女の問いはあまりに難解で、めずらしく冷淡な表情や声色の前で言い淀んでいるうち彼女のほうからあっさりと会話の終わりを提示した。
「なーんちゃって。じゃ、そろそろ授業準備しに中等部に戻りますですわー」
「……ちょっと待って」
「え!? なにコレ王子のちょっと待ったコール!? もしかして『お別れのチューして』みたいなデレが見れるのでは!? わたくしめはいつでもどこでもどんなことでもウェルカム体勢でありますですぞよ!?」
「制服の右ポケット何が入ってんの?」
「……」
「なんか入ってるよねそこ。出して」
「いや……これはさっき鼻をかんだティッシュが……そんな汚いもの先輩の前に出せないでして……」
「出して」
かわいらしい赤チェックのスカートはポケットの部分だけがこんもり膨らむとあまりに不格好で一目でわかる。追求し、しぶしぶといった様子で引っ張り出されたのはわたしにとって親しみ深い水色パンティだった。
「なにこれどっから出してきたの!」
「えーっと……タンスの右下の引き出しでごわす」
「下着入れてるとこ……なんでそこの引き出しをあける必要があったのよ!?」
「いやあ、整理ついでに?」
「あんたそれ不法侵入とかいろいろすっ飛ばしてただの窃盗だからね!? いい加減氷見さんに報告するわよ!?」
「あ、氷見さんなら今日は寮へ来ないですと思うですよ」
「は!? なんで!」
「なんか昨日からちょー忙しいですとか。なんか高等部の棟の掃除をずーっとしてるんだってですよ」
七里さんの言葉は正しかった。朝食と授業準備を済ませ講義棟へ向かうとまず、廊下の壁や各教室ドアや天井にまで、びっしりと貼られた部活動勧誘ポスターの迫力に圧倒されてしまった。そして廊下の先から言いようのない淀んだ殺気を感じ、近づいていくと疲れからか目を血走らせた氷見さんが奇妙な笑みを浮かべながらポスターをバリバリと破り剥がしている。
「ひ、氷見さんおはようございます……」
「おお、おはよう。ったくおかしいよなぁ……? 仮入部希望は締め切ったっていうのに、今になってみんな必死で勧誘していろんなとこにポスターベタベタ貼るし、勧誘チラシばらまくし……なんでだろうなあ?」
「えーっと……わたしにお手伝いできることがあればなんでもしますが……」
「言ったな?」
「……え?」
見るからに疲れきってブツブツ呟いている氷見さんの口元が、そのひとことでにやりと持ち上がり、次の瞬間わたしの足は廊下を離れ身体そのものが持ち上がっていた。
「ぎゃあああっ!?」
魔法でも天災でもなんでもなく浮いた身体はすなわち、たった一瞬の油断のすきをつかれ氷見さんにあっけなく持ち上げられていたのだ。泣く子供をあやすように両脇を持ち上げられるならまだいいものを、氷見さんは米俵を担ぐ大男のようにわたしの身体を片手で抱きかかえ肩に固定すると、そのままのしのしと歩きはじめた。氷見さんの歩くスピードに合わせ、おなかに氷見さんのたくましい肩がぐりぐりと当たる。
「やめ、やめて! おろして! うわああ!」
「うっさい! 用が済んだらちゃんと解放するから黙っとけ!」
「いやあ、降ろしてぇ! 食われるうぅ!」
必死に助けを求めても、こういうときなぜか廊下に居合わせた人たちも叫び声に集まってきた野次馬さんたちも、誰も何もしてくれないのだ。それどころかよだれを垂らしながら写真を撮っている人さえいる。なんだあいつ絶対特殊性癖だ。もうだめだわたしはきっと今日最期の日を迎えますああさようならみなさんさようなら――
「いだっ……!」
抱きかかえられたまま連れてこられたのは教室の半分程度の広さの密室で、氷見さんは到着するなりなんの気遣いもなくその場にわたしを降ろした。当然腰もひじもぶつけ、その痛みが和らいでいくのを待ってからようやく見渡した室内は、壁一面に黒い小さな丸が空いている。確かこのタイプの壁は防音効果があったはずだ。
「ここどこ……?」
「エー、全生徒諸君に告ぐ」
質問の答えにしては乱暴すぎるなと顔をあげると、氷見さんは片手で黒いマイクを握り、もう片手でたくさんのボタンやつまみが集結した卓をいじっている。そこでようやく、今いる場所に見当がついた。
「このところ学内の環境が非常に荒れている。そこでだ、今日から美化活動を強化したいと思う。目についた学内の汚れは各自自主的に落とし、整理整頓を心がけろ。それ以外にも、それぞれがどうしたらより過ごしやすくなるか熟考して行動にうつせ。もちろんそうした行いはポイント化され加点されていく。それから、学内で最も積極的にこの活動に取り組んだ生徒には特別に賞品を贈呈する」
どうやらここは放送室のようだ。ということは、氷見さんのこのスピーチは学園内全域に広がっているのだろう。いや、講義棟だけだろうか? 寮は含まれるだろうか? 中等部にはさすがに届かないだろう。
「賞品は一年の綾織なつだ」
「は……!?」
「期間はわたしが満足するまで。明日突然締め切られても後悔しないよう、日々の行いに気をつけるんだな。以上」
なんてどうでもいいことを考えていると氷見さんは驚きの発言をし、訂正の暇もなく赤いボタンを押して全校放送を終了してしまった。今更立ち上がって氷見さんに駆け寄ったところで、言葉の回収は当然できない。
「ちょっと! 何勝手に言ってるんですか!?」
「勝手には言ってない。あんたをわざわざここまで連れてきて、目の前で言ったんだ」
「それ屁理屈……! どうすんですかあ、賞品ってわたしどうしたら……! そもそもモノでもないのに!」
「いいじゃん、これを機に誰かのモノになっちゃえば学内もちょっとは落ち着くだろ」
「ひとごとだと思って……!」
「ああ。だってひとごとだからな」
あっさりと言い切った氷見さんの顔は、「当たり前じゃないか、何を言っているんだ」と言いたそうだ。先ほど打ち付けた節々以上に、頭がずっしりと重くなってきた。この環境で起こったすべてのことについて、きっと誰も責任をとってくれないのだろう。わたしのしでかしたことも無関係なこともごちゃごちゃに混ぜられ肩に降り積もるのだろう。こめかみの上あたりが痛い。ああでも家を出てこの学園に通うことを決めたのはわたしだ、差し入れされた薬を飲みながらでも這ってでも生活していかなければ。
氷見さんは埃っぽい放送室の掃除に取り掛かり、そのマイペースさのままで「おい、ぼさっとしてると授業はじまるぞ」と言い放った。ため息をつきながら廊下に出る。
「あれ、赤羽さん」
「ああ、綾織さん。……どうされたんですか? ひじ、怪我してますよ」
「え? あぁ。たぶん氷見さんに抱えられたときかな。まったく乱暴なんだから」
そこへ通りがかった赤羽さんは、出会いがしらにわたしも気づいていなかったひじもとの怪我を指摘した。そう言えば雑に抱きかかえられ雑に降ろされたときぶつけていたのだが、その後の怒涛の展開の中で忘れてしまっていた。見るとひじは赤くすり切れていて、赤羽さんはすかさず鞄からばんそうこうを取り出しそっと貼ってくれた。
「わ、ありがと」
「いえ。これくらいの処置しかできなくてすみません」
「……赤羽さんさあ」
「はい?」
「もしかして、今掃除してたの?」
赤羽さんがばんそうこうを取り出すとき、チャックが開いて鞄の中身が見えた。ノートや教科書がきっちりと整理して納められた鞄に、チープな青色の小袋は馴染んでおらず思わず目を向けると、ちょうど表面になっていたのか袋に大きく刻まれた「重層」の文字が見えた。もちろん用途はいろいろあるだろう。ただ思いついた用途を口にしただけだったが、赤羽さんの顔はかっと赤くなった。
「こ、これはその……!」
「い、いや別に、いいんだけどさ。掃除って大事だしねうん」
「…………誰かに、うばわれたら悲しいので……」
「え?」
赤羽さんのつぶやきはあまりにひそやかでうまく聞き取れなかった。なんて言ったのかと聞き返そうとしたときにようやく、わたしの視点はいったん赤羽さんを外れ、廊下全体へと意識が回ったのだ。
たった数分。氷見さんの怒鳴るような放送からたった数分だ。それなのに廊下にはもう一枚のポスターも、勧誘チラシも、ゴミも、綿埃さえもなくなっていたのだ。