第十二話 母なる学園のおっぱい
別れの挨拶とともに通話は終了したようで、辺りには普段の閑散とさえいえる静けさが戻ってきていた。それでもわたしは物陰に身をひそめたまま動くことができず、まもなく再び通話をはじめたらしい青梅さんの声が響き渡る。
「姉さん? なんで急に電話なんかしてくんだよ!」
今度は別の人物への連絡のようだ、今度は見覚えのない上品さはなく、かと言って感情的に裏返る巻き舌も同じくらい馴染みがない。
「言っただろ、ぼくがこの学園に入ったのは女の子らしさを取り戻すためなんかじゃなくてふざけた生活から抜けだすためだよ! 急に母さんから電話をもらったって、母さんが喜ぶような話はしてやれないんだよ、散々教えられた女っぽい言葉だってほとんど忘れてるよ! もう二度と電話してくんな!」
乱暴な声は電話の向こうにいる『姉さん』と、その姉と彼女を同じように育ててくれた『母さん』を憎しむ思いから溢れたのだろう。青梅さんが声を張り上げるたび耳の奥がわんわんと鳴りはじめ、身体中がひどく熱くなり指先だけが冷たい。
ああだめだよだめだめお母さんに家族にそんな言い方をしたらだめ絶対にだめ嫌われる捨てられるだめ危ないだめだめだめ。
「……大丈夫?」
そのまま自室へ戻ったわたしはきっと本当に顔色が悪かったのだろう。心配そうにのぞきこむ汐留さんを無視する形で布団にもぐりこんでもなお、心臓がばくばく鳴っていた。目を閉じると宇宙が広がり閃光が瞬く呑気な宇宙船が飛ぶ。心臓がミキサーにかけられていくように痛い。
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「じゃあ今日は昨日言ってたもの回収しますからねー! 後ろから集めてきて!」
翌朝、いつも通りのホームルームを締めくくる千駄ヶ谷先生のかけ声が、一体何を指しているのか分からずぽかんとするわたしをよそに、クラスメイトは皆一枚のA4用紙を取り出して前の人へと回している。きょろきょろ辺りを見渡していると、同じく周囲を見回している青梅さんと眼が合い、そして視線のチャンバラに千駄ヶ谷先生が介入した。
「あ、そっか。欠席してた人たちにはまだ言ってなかったっけ?」
先生はわたしたちのものを除き手元に集まった用紙をとんとんと整理しながら言う。
「今集めたのは部活の仮入部届け! 今どこの部活も体験入部を受け入れてると思うから色んな部活に顔を出して仮入部する部活を決めてね~。本当は今日中に回収しなきゃいけないんだけど、特別に締切伸ばしてあげるからよ~く考えて入部する部活を決めてください! もし決められなかったらわたしが顧問の部活に特別に入れてあげるからね!」
「え……千駄ヶ谷先生は何部を受け持ってるんですか?」
「ダガラズガ研究部!」
「……部員数は?」
「ゼロ!!」
堂々と胸を張った千駄ヶ谷先生と、返す言葉を見つけられないクラスメイトたちの頭上を、ホームルーム終了のチャイムが駆け抜けていく。先生が「じゃ、いつでも待ってるからね~!」と鋼のハートを見せつけ退室し、一限が始まるまでに生まれた少しの時間に青梅さんたちと向き合う。
「仮入部かあ……青梅さんはどうする?」
「まあ、わたしはソフトボール部以外入るつもりないから」
「あぁそっか……」
見学などの手順を踏むまでもなく、彼女の目的はソフトボールだけなのだ。髪も爪も短く頓着のなさそうな青梅さんにソフトボールはよく似合い、一晩かけて取り戻した冷静さも踏まえれば昨日見た人影は別の人だったのだ、という結論にもすぐ辿りつく。
「赤羽さんは何部にしたの?」
「わたしは史学部です。日本史、世界史問わず活動するそうなので綾織さんもご一緒にいかがですか?」
「うーん……わたしは歴史さっぱりだしなー……」
「この学校の史学部は『彼氏にしたい哲学者プレゼン大会』で全国大会出場実績もあるんですよ?」
「なんかよくわかんないけどますます遠のいたわ」
「あ、でも難しいことばかりするのではなくて、レクリエーションや交流の時間も多いんですよ」
「結構遊べるの? やっぱりゆるい部活がいいなぁ」
「遊びの時間も多いですよ。昨日は『首相神経衰弱』で遊んでいらっしゃいました。皆さんイタリアの14代首相マルコ・ミンゲッティ氏ばかり引くから笑いがとまらなくなってしまって……」
「……ちなみに葛西さんは?」
「わたしは手芸部です」
「あぁ、ぽいなあ……わたし不器用だしな~あーほんとに部活どうしよっかなあ」
それはあくまで独りごとに過ぎなかったのだが、この教室に、いやこの学園にいるときわたしの独りごとは二人ごとにも五人ごとにも三十人ごとにもなる。
「あー、アイスホッケー部今部員足りないって先輩が言ってたなあ、誰か一緒に入ってくれる人いないかなあ!」
「はぁ、天文学部ってすっごい楽しいなあ。この学園なら夜の天体観測活動もできるし、そういうとき近くに憧れの人がいてくれたらすごくロマンチックなんだろうなぁ……」
「美術部のヌードモデルがほしい」
「夢小説部で書いた作品を読んで批評してくれるはっきりした性格の人がほしい」
「添い寝部で一緒に寝てくれる人がほしい」
そこここでじわりじわりと始まったアピールはいやに直接的で、その中の何割が実在する部活なのかも怪しい。そもそもこの学校へ入って初めての鬼ごっこは新入部員勧誘にかこつけた先輩方のアプローチだったじゃないか。あのめんどくささが脳裏をよぎった瞬間、とっさに口を開いていた、
「な、なーんちゃって実はわたし、もう入る部活決めてるから!」
なんて下手くそなはったり。周囲の人々はぴたりと静まり返ったけれど、その場をやり過ごす効力しかないでたらめだ。それでも目の前の素直すぎる三人は「そうなんですかぁ」「じゃあいいじゃん!」「早めに届けを出すべきですよ」などと疑いも追及もしないのが、余計に胸を痛める。
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放課後になるとグラウンド、第一・第二体育館、音楽室等でそれぞれの部活がはじまり部員の掛け声や金管楽器の音などが聞こえてきた。全部でどれだけの部活があるのかも知らないので片っ端から見学すべきなのだろうが、軽い気持ちの見学がまたやっかいごとに繋がるのではという不安が足を重くする。しかし締切を伸ばしてもらっている身として仮入部届けを早く提出したい気持ちも当然ある。
わたしは何が好きで何に興味があって、授業後の疲れた時間、一刻も早く自室に戻って夕食まで少しでも眠りたいような時間、一体何に精力を費やしたいのだろう。
校舎内をあてもなくふらついていると、屋上へ続く暗い階段に人の気配を感じた。怪談の類かと目をこらすと、段差に腰かけてうつむいているのは見知った人だった。その人がふいに顔をあげた。
「あれ? 綾織さんなにしてるのぉ?」
「葛西さんこそ、部活は?」
「下の階の第二家庭科室でやってるよぉ。でもそっちにはなんだか入りづらくって、ここで作業してるの」
「なんで?」
「先輩も新入生も、ほんとうに手芸が好きな人ばっかりで、布もパーツも道具もいいものいっぱい持ってるんだあ。なんだか恥ずかしくなっちゃった」
近付いていくと葛西さんは、膝の上をテーブルにして、両サイドに細々した道具を並べ、祖父母宅のこたつ布団のようなノスタルジックな柄の布を懸命に縫い合わせている。手芸とは縁が無いわたしでもかろうじて手芸セットというものを手にしたことがあるので、針も糸もいっしょくたにして、キルティング素材の小さな巾着袋で管理するのは正しくないのだろうと分かる。針で指を刺したりしないのだろうか、危なくないのか、と気になってしまうが、それを尋ねるのは当然お門違いだろう。
「うちね、すっごいびんぼーなの。お父さんとお母さんとおばあちゃんと妹たちがご飯食べるのもいっぱいいっぱいで、趣味なんかにお金つかえないくらい。実はここへの入学金もちかげに借りてるんだあ。あげるって言われたけど出世払いってことにしたの」
「え、じゃあ青梅さんちは一度に二人分の入学金を出したの!? ……やっぱり、青梅さんちってお金持ちなんだ」
「やっぱり?」
「あ、いや。……持ってたお財布がいいものだったから」
「そうそう。地元じゃ大きな会社とか大きな建物はぜんぶ青梅さんちの持ち物、って言われてるくらい有名なお金持ちだったんだよ。でもそのせいでちかげは妬まれたりいじめられたりして大変だったの。でもちかげのいいところは、わたしみたいなびんぼーにも分け隔てなく接してくれるとことか、耐えられなくなったらきれいな髪も全部切って自分の好きなスポーツに没頭するとことか、そういうのがかっこいいよねぇ。……よし、できたあ!」
「……なに作ってたの?」
淡々と語りながら手を止めずにいた葛西さんは、ふいに明るい声をあげる。完成したのは、やわらかい生地がいわゆるシュシュのようなもの。ふいに左腕をとられ、手首につけられた。遠目で見ると渋い柄に見えたけれど、よく見ると色とりどりでかわいらしい。葛西さんはわたしの手首を彩るシュシュを満足げに眺めてから、つぶやいた。
「こんやくうでわ。ふふ」
そして葛西さんは、いたずらを仕掛ける子どもみたいに笑う。すかさず「なに言ってんの」と返したけれど、きっとその声は戸惑いが十分に溢れていただろう。
また心臓が、ばくんと鳴ってしまった。