第十一話 海岸にいないのに彼女
「い、いた……」
校舎の影にしゃがんでサンドイッチの薄いフィルムを剥きかけたとき、ばたばたと足音が響き、顔を上げるとそこに深刻な表情の青梅さんが立っていた。
「な、なにどうしたの」
「さっき渡したビニール袋ある?」
「ああ、これ?」
しゃがんだ足もとに丸まっている、ずっしりしたビニール袋を拾いあげると青梅さんは顔色を変えて奪い上げた。
「いや、実はこの袋の中に財布入れたままにしちゃってたからさー! ははは!」
確かに、ビニール袋の中には上質な皮の財布が入っていたのだ。どうやらサンドイッチを買ったときに使用してそのままつっこんだらしい財布と、財布の外ポケットから零れたらしい一枚の写真は両方かどちらかが、青梅さんにとって授業時間が迫る中走ってでも取りかえさなければならないものだったのだろう。
「大切なものなんだね」
「えー? 財布だよ? そりゃ大切に決まってんじゃん!」
「ふーん……」
「それとも……何か、見た?」
その一言とともに青梅さんの目には微かな動揺と殺気に似た鋭さが宿り、わたしは咄嗟にとぼけてしまった。
「え? 何かってなに?」
「わかんないけどそういう変な言い方するってことはなんか見たんじゃないの」
「何言ってんの何かってなんなの」
「正直に言えって!」
「だから何を!」
ヒートアップする青梅さんを強制的に沈静させたのは、頭の上で鳴り響く始業チャイムだった。間延びしたチャイムの余韻が風に消えていくと青梅さんは糸が切れたように脱力し、校舎の壁に背中をつけずるずるとしゃがみこんだ。
「……もう授業サボろ」
「え?」
「今から教室入ったって逆に目立つだけだし、おなかいたくてうごけませんでしたーってことにする。綾織さんは?」
「……じゃあ、わたしもそうしよ」
「わー不良だ」
「あんたが言うな」
「サンドイッチ、いっこちょうだい」
「お腹いっぱいじゃなかったの?」
「走ったら腹減った」
春と汗の匂いが混じる空気の中でわたしたちはそれぞれにサンドイッチを選びとり、待ちわびた時間としてゆっくりパンを噛む。たまねぎとツナの甘み、やわらかなパンの食感、涙が出るくらい美味しかった。
「こはるにばれたら『ちかげちゃんサボるなんてダメだよー!』って言われるんだろうな」
「そうだねぇ。そういや青梅さんと葛西さんって昔っから仲良いの?」
「うん。幼稚園のときいじめられてるとこ助けてそっからずーっと中学もこの学園も一緒、っていうベタなやつ」
「わあ、すごい想像できる! 幼稚園で静かに読書してる葛西さんとか、いじめっこもやっつけちゃう青梅さんとか。姉妹みたいでかわいいじゃん」
「んー……ほんとうの姉妹だったら良かったんだけどね」
そのときの言い方には妙な気配が忍び寄っていて、きっとわたしも空腹に悩まされていなければもっと慎重に耳を傾けられただろう。
「こはるはどんな状況でも真面目にがんばれる人だからなあ、わたしみたいにめんどくさいからいいや、とか、ちょっとでも楽しよう、とか思うことってないんだよな。尊敬するよ」
「あぁ、そんな感じかも」
「こはるはね、昔っからすんごいかわいいいんだあ。今より活発でかわいくって、お姫様みたいだった」
「へーぇ……好きだったんだねぇ」
「いや!? 別に! そういう、そういうなんかじゃないんだけどさ!?」
そこで直感した。財布から零れ落ちたあの写真の少女は、葛西さんだったのではないだろうか。写真の少女は現在の葛西さんの印象よりきつくもあるが、彼女のころころと変わる表情の中に、あのきつさが潜んでいてもおかしくない。独りでに納得するわたしをよそに、青梅さんは火照った頬を片手で押さえながら、強引に話を変えてしまう。
「あのさー……綾織さんはこの学園のポイントシステム、どう思う?」
「え? どう、って……うーん。自分の言動が数字で示されるのは怖いし、気になりはするけどどういうことで増減するのかまったく分かんないからなあ。すごく減るときもあれば前の日から動いてなくて拍子抜けすることもあるし……正直、そこまで意識しなくていいのかなって思っちゃってるけど」
「そうなんだよ! そうなんだよな!」
青梅さんは大きく頷いて、いきなりその場に立ちあがった。
「こはるはちょっとしたことで『こんなことしたらポイントがー……』とか言うんだけど、そんなの気にしてたら学園生活楽しくないよな!? ほかの学校に通う子たちと違って行き帰りに寄り道とか電車で通学とかできないし、そもそもこんな山奥じゃ遊び行くとこもないし、でも学園内の行動は見張られてる、って頭おかしくなるよ。わたしはもうそんなの気にしないで好きに――……」
強気にべらべらと喋っていた青梅さんが突如蒼ざめ、わたしの背後に目を奪われたまま言葉を失った。地面には、背後から迫りくる長身の影が映っている。もし背後にいるのが生徒だったら、制服のスカートのかたちに影も広がるはずだが、それもない。恐る恐る振り返るとそこにいた人は、予想に反し竹刀を持っていなかった。
「こんなとこで何やってんのー?」
「佐和さん……!? っていうかなんて格好してんすか!」
「え? もうすぐ夏だから? 注文してたやつ届いてうれしくってさー」
「まだ桜咲いてますよ!!」
入学式以来会っていなかった、が、路頭に迷いかけたわたしを救った恩人がそこに立っていたのだ。それはまだしも、彼女はやってくる夏を先取りするつもりなのか目まで覆いそうなほど大きな麦わら帽子を被り、まったく信じられないのだが――陸上であるにも関わらず爽やかな青色の水着姿だった。かろうじてグレーのパーカーを羽織ってはいるものの肌寒いには違いない季節。この際陸上だとか周りが山ばかりだとかは関係なくやっぱりこの人はおかしいのだと思う。氷見さんとは別のタイプの、ちょっとやばくてちょっと怖い人の登場に青梅さんは言葉を失ったままでいるが、佐和さんは気にも留めずその場にしゃがみこんだ。
「あっ、いいなーサンドイッチ! ちょうだい」
「ちょっと勝手に袋漁んないで!」
「あれ、ハムカツサンドないの?」
「ないですよ……」
「なんで? お金あげるから買ってきてよー」
「生徒パシらせるってどんな神経してんの!?」
「そんな怒んないでよー、じゃあこれでいいや」
そして青梅さんが買ったサンドイッチを断りもなく口へ入れてしまった。青梅さんはおずおずとその場にしゃがみながら、『この学園は頭がおかしくなる』等の発言を省みているのか今だ黙ったままなのに対して、佐和さんは平然とサンドイッチにぱくついているので思わず溜息をついてしまった。
「ここの人たちって本当に振り幅ありますよね……」
「んー? なにそれ?」
「氷見さんみたいに厳しいビシバシ系の人もいれば、佐和さんとか千駄ヶ谷先生みたいな結構ゆるいっていうか……自由な人もいるし、なんかブレてる感じが……」
佐和さんは黙ったままもっもっと口を動かし、飲みこんで満足げに息をついてから改めて喋りはじめた。
「まあ集団としてはブレてんのかもしんないけど、皆それぞれに正しいと思ってやってるんだよねえ。わたしはとりあえず風邪引いたって今この水着を着ないと! と思って着てるし、前に千駄ヶ谷さんが授業サボったときがあってね」
「ああ、ダカラズガのDVDを見てたって……」
「そうそう。あれもね、変な話わたしはそれでいいと思うんだよ。授業サボって可愛い生徒たちほったらかしにして、自分の都合を優先したってそれが彼女にとって正しいことであるなら仕方ないでしょ。同じようにあんたたちが、授業に出て先生の話を聞くことよりここでサンドイッチを食べるほうが大切ならそれでいいんじゃないの? そうは言っても学校っていう場所だから注意する立場の人も必要だし、自分から正しいと思って注意してくれるひーちゃんがいてくれると助かるんだけどね」
「ひーちゃん……?」
「あぁ、氷見ちゃんのこと」
「思いのほかキャッチーなあだ名なんだね……」
結局わたしたちはサンドイッチを食べながら授業が終わり次の授業が始まっても、ずっと他愛ないことを話していた。佐和さんは本当にどうしようもない大人だ、それなのに時々すごくまともなことを言ったりする。わたしはその妙な説得力に次第に惹き込まれ、青梅さんはなにか考えこむようにずっと黙りこんでいた。
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「なんだあれ……」
講義棟に戻る勇気がなかったので寮へ足を運んだ。授業をさぼったときの独特の高揚感に煽られるまま三階の廊下を歩いていると、ある一室の前に、ドアをふさぐようにどっさりと荷物が置かれている。
まさかと思いながら近付いていくと、そこはわたしの部屋だった。わたしの身長よりも高く積み上げられているのは小箱や紙袋で、中にはぬいぐるみなんかもあり、メモがくくりつけられているものも少なくない。
『拝啓 綾織なつ様 本日、授業をお休みになられたとお聞きし、心配になりましたので勝手ながら防寒具を差し入れさせていただきます。もし必要であれば看病、添い寝等致しますので下記連絡先までどうぞ』
『綾織さんぇ 授業でてないってほんとですか わたしのお友達のリンリンちゃんに看病に行ってもらいますね!(ただのパンダのぬいぐるみじゃんって言わないで~><)』
『王子へ 体調いかがですか? 汗をかいた衣服があればわたしが洗濯しますね。ただ洗濯するだけだから大丈夫です。汗をいっぱいかいたものであればあるほどわたしが洗濯しますので。大丈夫です』
皆、授業の合間に噂を聞きつけて差し入れてくれたのかメモの多くは走り書きで、しかし残念ながらそこに書かれている名前は知らないものばかりだった。優しさか下ごころか、そんなものが滲む字を見つめていたとき、突然高く積み上げられた贈り物の壁が倒れてきた。
「うわああ!」
「……ごめん」
「いったぁ……! ごめんじゃないわよ!」
幸いにも軽いものばかりで助かったが下敷きになったことに変わりはない。顔を上げると、薄く開いたドアの隙間からルームメイトが顔を覗かせていた。壁崩壊のきっかけは他でもなく、汐留さんが内側からドアを開けたことにあったのだ。
「さっきからずっとドアの向こうで物音してるから、なにかあったのかと思って……」
「そりゃこんだけ色んなもの献上してくれる人がいたなら物音もしてたでしょーね……っていうか、ずっと部屋にいたの? 授業は?」
思わず聞いてしまってから、人のことなど言えないことに気づく。早寝早起きでクラスも違う汐留さんは、同室ながら交流の時間が少なくいまだ謎に包まれた存在なのだ。汐留さんがわたしの質問に答えるより早く、どこかで竹刀を打っている不穏な音が静かな廊下にも響いてきた。
「と、とりあえず手伝って! ここにあるものを部屋に入れて!」
マイペースな汐留さんを急かしながら、廊下に散らばった贈り物を拾いあげ、部屋の中に片っ端から投げ込んで乱暴にドアを閉めた。廊下に私物をぶちまけて騒いでいるなんて、竹刀でぶったたかれても文句は言えないだろう。とりあえず自室に飛び込んで一息ついていると、落ちていたメモを拾いあげた汐留さんが口を開いた。
「具合が悪いの?」
「……人の手紙見るなんて悪趣味よ」
「薬、もらってくる」
「え、い、いいよ!?」
「さっき、怪我させちゃったし……寝てて」
「いや、大丈夫、怪我もしてないし大丈夫だから!」
「遠慮しなくていい……安静にしてて」
「いや……あの、自分で行けるから! もらってくるから!」
まったくどうしてこうなったのか。『薬をもらう』と言ったって、どこへ行って誰に声をかければもらえるのか分からず、きっと有力情報は氷見さんが持っているのだろうが今会うのは怖く、そもそも薬をもらわなければならないような不調などない。強いて言うならじんわり痛む額の、落っこちてきた小箱の角でつくった赤い跡を撫でながらあてもなく寮内を歩く。多少の時間を潰したら部屋へ戻ろうと思いながら階下へ降り、なるべく人目を避けるように静かな場所を選んで歩いていく。
「お母様、ご機嫌いかがでしょうか。……あぁ、良かった。安心しましたわ」
密やかな声は一階の、カフェテリアとは反対側に位置する一角から聞こえてきた。そこにはソファやテーブルが並び、まったりと静かな時間が過ごせるのだが皆友人とのおしゃべりを優先してカフェテリアや各階のロビーばかりが繁盛する。人がいること自体めずらしいのだが、聞こえてきたのが大人っぽく上品な声であることにも驚いた。ああきっと小倉先輩だ、あの人ならこうしたお嬢様言葉も、実家の母への近況報告もよく似合う。わたしは物陰から声のするほうを見た。
「わたしもこちらで楽しく充実した日々を過ごせています。お母様もお身体にお気をつけて――」
電話を耳に当て、相手には伝わらないだろうに丁寧に頭を下げる動作までする。背筋を伸ばしソファに腰かけているのは、先ほどまで一緒にサンドイッチを噛んでいた、ショートヘアのスポーツ少女だった。