第十話 所有とは何か(片思いver.)
危ないなあ危ないなあと思いながら放置していた爆弾が、穏やかな昼下がりついに限界を迎えた。
「あ、あの、皆さん差し入れありがとうございます、でもこんなに食べきれないので、お気持ちだけ受け取っておきますね!」
すかさず周囲に声をかけ、事実上の解散命令を出す。群がっていた生徒たちはどこか不思議そうな表情を残しながらも素直に撤退してくれ、今にも背中が裂けて真の姿を現しそうなほど興奮した葛西さんから遠ざかっていった。渡り廊下には葛西さんと、わたしと、今だ背中に張り付いたままの七里さん。腰に巻き付いた手が、また隙を見て胸に伸びるのでは、そして葛西さんがいよいよ再起不能なほど大爆発するのではと気が気でない。
「ちょっとあんたいい加減離れなさいよ! 空気読んで!」
「空気は読むものじゃなくて吸うもんだってうちのバーチャンが言ってたですよ! 日本語の乱れはよろしくなかろうです!」
「あんたに言われたくない!!」
何度も身をよじり逃れようとしたがうまくいかず、むしろ抵抗するたび腰元を押さえ込む力が強くなる。前方に豹変した友人、後方には動きを塞ぐ後輩の存在。ひょっとして二人は結束してわたしを捕えたのでは……と邪推しかけたとき、お互いの激しい声がぶつかり合った。
「近付かないで! 触らないで! 綾織さんに変なことしないで!」
「なんでそんなこと言われなきゃいけないですか!? んなもんあんたのワガママだろーがです!」
「そんなこと分かってる! でも嫌なものは嫌なの! わたしが一番近くにいるはずだったのに!」
乱暴になっていく言葉にまかせ、葛西さんはそれまで誰にも見せなかった内側の部分を吐露しはじめた。
「綾織さんが王子様で学園中の憧れの的で、わたしなんか眼中にないこと分かってます。でもスピーチをする姿に気持ちが抑えきれなくって、隣の席になれたことが奇跡だと思ったんです一生分の運を使い果たしたと思ったんです。学校中で、綾織さんの一番近くにいるってことだけが唯一のプライドなんですお願い奪わないで……」
葛西さんは暴走した感情に収拾をつけられず、ついにへたりこみ泣きだしてしまった。わたしはぎょっとしたのだが、七里さんはひるむことなく語気を強め、自称敬語もさらに散らかっていく。
「甘えたこと言うんじゃねぇです! やりたいことがあるならやらないと!」
「やりたい……こと……」
「欲しい欲しいって言いながら遠くから見てるだけじゃどうにもならないだろがです!」
「そう……よね……!」
煽られ、顔を上げた葛西さんの目には、ポジティブな光が差し込みはじめていた。その輝かしさの前で、七里さんはいまだわたしの背中に張り付き隙あらば事故に見せかけ下乳を触る。肩越しに振り返って睨んでも「いま大事な話してるから」と言いたげにスル―されてしまう、こんな茶番じみた感動があろうか。
「先輩、なにを恐れてるんだですよ! やりたいことやったもんガチですぜ!」
「そうよね、ありがとう……! それじゃあ……」
ともかく七里さんの言葉に勇気づけられたらしい葛西さんは、しっかりした両足で立ち上がり目元を力強く拭うと、ずんずんとわたしに詰め寄ってきた。怒られるのか殴られるのか熱烈なアプローチを受けるのか、ころころと表情を変える葛西さんをじっと見つめても一切推測できず、怖くて逃れたいが七里さんに捕えられているためかなわない。ついに触れあえる距離にまで縮まった。
「失礼します……えいっ!」
葛西さんは元気な掛け声とともにめいっぱい腕を伸ばし、七里さんに固定されたわたしの身体に……というよりも、ピンポイントに胸だけをぎゅむっと鷲掴みにした。
「やりたいことってこれかーい」
思わずつっこんでしまうわたしの間抜けた声は快活な空へ響く。なにが怖いって胸を揉まれ慣れてきている自分が一番怖い。
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そうこうしているうちに昼休みの残り時間は少なくなり、七里さんは「この後の時間は高等部に居座ると見つかって怒られ晒し物にされる可能性が倍増しますのですから!」と恐らく経験談であろうものを語りながら足早に帰っていった。行き違いに、寮の方向から二人の影が近付いてくる。
「あ、お二人ともまだここにいたんですね」
「おっせーなー。なにしてたの?」
先ほど蚕を取りに行ったふたりはしっかりと昼食を食べたあとのようで、青梅さんに関しては満腹を表すように腹部をさすりながら歩いていた。
「もうカフェテリアの定食ぜんぶ売り切れてたよどーすんの?」
「えぇ、ど、どうしよう……」
「一応サンドイッチ買ってきたけど食べる?」
「へ? なにそれ?」
「昼飯って定食しかないんだと思ってたけど、早めの時間に行ったらサイドメニューとか軽食もいっぱいあったんだよ。午後のほうが腹減るから多めに買っておいた。余ったから良かったら食べなよ」
「うわあありがとうちかげちゃん! ねぇねぇ、綾織さんはどの味にする?」
「んー……じゃあツナマヨもらっていい?」
「もちろん! じゃあじゃあわたしはどれにしようかなあ!」
頭を寄せ合い、差し出されたビニール袋を覗きこむ。そんなわたしたちを見て、青梅さんは微笑ましそうな表情を浮かべたあと葛西さんの頭をがしがしと撫でた。
「え? え? どうしたのちかげちゃん」
「べっつにー。それ袋ごと持ってていいよ。昼飯欲張って食べちゃったしわたしはしばらくお腹空かないと思うから」
「……お二人とも、食べるなら急がないとあと五分ほどで午後の授業がはじまってしまいますよ」
遠慮がちに響く言葉にまさか、と思ったが、時計を確認すれば赤羽さんの言う通りだ。あと五分で授業開始になる上、現在地が寮へと続く渡り廊下の中腹であることを考えると、教室まで急ぐ時間を引けば実質ランチタイムなんて残されていないのだった。
「そ、そっかぁ……綾織さんどうしよう……?」
「みんな、先に教室行ってていいよ。わたしはサンドイッチ食べてから追いかけるから」
「で、でも授業に遅刻でもしたらポイントに影響しちゃうんじゃない……?」
「でも今食事抜いたら死ぬから確実に死ぬから。っていうか、もう教室まで走る体力残ってない」
成長期だかなんだか知らないが、とにかく運動しても勉強してもそれどころか寝てばかりで一ミリも動かずに一日を終えようとも腹が減って仕方ないわたしには今サンドイッチひとつ口に入れるか否かは死活問題なのだ。「じゃあ先に行っちゃいますね?」「お言葉に甘えさせていただきます」「早く来いよー」と去っていく三人の背中を見送って、改めて辺りを見渡す。
とにかくすぐ食べてすぐ教室へ向かいたいが、歩きながら食べるところを氷見さんに見つかろうものなら夕食抜きという恐ろしい結末まで呼び寄せかねない。中庭に飛び込んで人目につかない校舎の影にしゃがみこみ、改めてビニール袋に手を入れる。
「……なんだこれ?」
サンドイッチを手に取ったつもりだったが、指先に触れたのは一枚の古い写真だった。両親と娘三人がパーティかなにかの最中に撮ったような家族写真で、真ん中には色白で小柄な少女が仏頂面で立っている。長い髪はいかにもお上品に巻かれ、幼さの残る目元は化粧で強引に彩られ、深紅のドレスは小学生とおぼしき少女には正直不似合いだ。
唐突に舞い込んだ写真の中の、美しくも淋しそうな少女には、なぜだか見覚えがあった。