第一話 桜の学園の満開のはじまり
「綾織さん、この志望校は正直厳しいと思う」
夕方の教室で行われる、中学三年間の総まとめとしての個別懇談中、担任の表情は暗く厳しくあった。わたしは小さな机に身を乗り出し、そんな担任の顔をまっすぐに見る。
「だいじょうぶ! この頃寝ずに勉強してるし、ドンドン理解できるようになってきたから!」
「……ご家族は、なんておっしゃってるの?」
「そこを受けなさいって言ったのはママだよ」
「でも、滑り止めくらいは受けておかないと」
「いいの、絶対大丈夫だから!」
甘いだとかなめてるだとか、大人のせりふはいつでもネガティブなものばかりだ。それでいて時には顔色を伺いながら「あなたならできる」と口先だけの慰めを吐いたりもする。言われなくても分かっている、大丈夫わたしはいけると言い聞かせ、入試当日を迎えた。
当日の大雪は受験生も学校側も気象庁も、誰もにとって予想外のものであった。予定より二時間早く家を出ることにしたが電車は遅延しており、指先の赤みをさすりながら走って受験会場を目指す最中縁起の悪いことに滑って転び、そしてようやく辿りついた頃には身体中が冷えて打ちつけた腰もおまけに腹も痛く集中力も途切れがちになってしまった。そして春の気配が近づく。
綾織なつ、県下最大級名門進学校不合格――
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電車とバスを乗り継いで三時間。地元の駅から特急列車に乗れば大都市にでも足を伸ばせるだけの時間をかけ、目指すのは県内の山の奥の奥にぽつんとある全寮制高校であった。
「こっちはまだ雪が溶けてないのかー……」
バスの窓から見おろした山道は、ところどころにシャーベットの様に透明の輝きを放つ雪が残っている。春の到来とともに雪も溶け、太陽の匂いが満ちる地元より、はるか遠い場所へ来てしまったことをこうして実感する。
受験に失敗した旨は、父の叔母の旦那の兄の嫁の父の息子の腹ちがいの娘――? ともかくうっすらと血縁のあるようなないような人物に伝えることとなった。佐和さん、というのが彼女の名前で、素性を決して明かさない老成した空気をまといながら、大学生と聞いても信じられるほどの若々しいエネルギーも持てあます、不思議な人だった。
はじめて顔を合わせた佐和さんは、応接ソファに座って顛末を聞いたのち、わたしが最も重要な件を切りだすのを待たずにからりと笑った。
「滑り止めを受けない選択はすごいなー勇気あるぅ! 自己責任ってやつ?」
「わ、分かってるけど……」
「え? なあにー? ごめんもっかい言って、学園長様に対しての言い方で!」
佐和さんはふざけた言い方をしながら耳元に手を当てる。ああなにこの人すっごいやだ。それでもわたしはぐっと唇を噛みながら、姿勢を正してふかぶかと頭を下げるしかない。
「わたしの無計画ゆえにこうなってしまったのですが…こんなわたしを、助けてくれませんか」
それは、佐和さんが山奥にある全寮制の「姫百合学園」の若き学園長だからだ。本人の素顔も見えないし学校の詳細も不明で何もかも嘘くさく感じてしまうが、母親に勘当されかけたわたしにはここしかすがる所がない。皮のソファや大きすぎるデスクの他、目の大きな人形やゲーム機まで並ぶ悪趣味な「学園長室」で、わたしは頑固なプライドを折らざるを得ない。
「とは言え頭下げられてもなあ~」
「なんで、お願いしますから!」
「んーでもタダでとは言えないなぁ、なんでって言ったって世の中甘くないのよチビ丸ちゃん」
「なんでもするから……他に行くところがないの……助けて……」
佐和さんはそんなわたしの足もとばかりを見る。中学のやぼったいセーラー服のやわいプリーツから紺色のソックスまでの、むき出しの足を擦り合わせるようにして無言の時間に耐えていると、佐和さんは「条件」を提示した。
「じゃあ、入学式で新入生代表のスピーチをしてくれる?」
わたしは思わず拍子抜けして顔を上げてしまう。
「なんだ、そんなこと?」
「あれ、嫌がんないのね」
「中学三年間生徒会長やってたんだから全校生徒の前でスピーチ、なんて慣れてるもん。当時一年生で生徒会長に抜擢されるなんて異例で……」
「へー、計画力はなくてもすごいのね!」
「……悪かったデスネ」
「じゃ、そういうことで。よろしく頼むねチビ丸ちゃん」
――そして今、わたしは山の上に姿を見せはじめた学園を目指しているのだ。
入学式が行われるのは体育館、ではなく、学園内の講堂だ。すり鉢状の講堂はやわらかな椅子の具合もしっかりとした音響設備も、全学年収容できそうなキャパの広さまで映画館のようで驚いてしまう。他の生徒は当然ながらこの学園の設備もとうに知っていたらしく別段驚いた様子はない。各々の緊張が伝わるおごそかな雰囲気の中、入学式が始まり順調に進行していった。
「――続いて新入生代表スピーチです。代表、綾織なつ」
「はい!」
立ち上がり、壇上へあがる。下から見上げられ、上から見下ろされながら大きく息を吸い込みマイクをとる。
「暖かな日差しが降り注ぎ、桜のつぼみも膨らむこの季節。私たちは姫百合学園の一員になれたことを誇りに思い――」
そこまで口にしたとき、喉がつまって声が出てこなくなった。全校生徒の前でのスピーチなど慣れていて、定番の挨拶もなにもかも頭に入っているはずだったのに。なぜだ、理由は単純だ。
わたしは、「姫百合学園の一員になれたこと」になんの感想も抱いていないのだ。
目の前が暗くなるような感覚に襲われ、しかし同時に暗闇の中に新入生たちのまなこが光っているのが見える。上昇する心拍数に胸を痛めながら、わたしのプライドはいまだに、不合格通知を受け取った進学校にしがみつこうとしていた。
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入学式が終わるとそれぞれの教室へ移動し、出席番号順に着席して担任の先生の到着を待つ。顔を知っている人もいないため、廊下側前から二番目の席で頬づえをついていると、ふいにとなりの席のめがねをかけた女の子が声をかけてきた。
「あ、あの……」
「はい?」
「綾織さん、今日のスピーチすごく堂々としていてかっこよかったです」
「ほんと? ありがとう」
どうにか最後までやりきったスピーチは、過去最低と言っていいほどたどたどしいもので、スピーチを終えた瞬間「代表」の重みに潰れそうになったが、だからこそ同じ新入生としての彼女の言葉は有難かった。というか、すごくうれしい。彼女はつやりとした黒髪と色白の肌を持ち、ふっくらとした身体を謙虚に縮めながら細いフレームのメガネをせわしなく触っている。
そのとき、彼女の前の席に座っているショートカットの女の子が、ぐるりと素早く振りかえった。
「ちょっとこはるー! ぬけがけすんなあ!」
「わああ、ご、ごめん……だってまさか同じクラスになるなんて思ってなかったからあ……」
「うるさいなーそんなのみんな同じ思いなんだから!」
「ご、ごめんてー!」
二人は何についてか、きゃあきゃあと言い合っている。すると今度は、わたしの前の席に座る女の子が振りかえった。
「葛西こはるさん、青梅ちかげさん。担任の先生がいらっしゃるまでは静かに待機しなければならないのでは?」
なぜ名前を知っているのか、と思えば、彼女は配布された名簿に目を向けている。わたしも同じものを取り出し確認すると、前の席の彼女は赤羽しのと言うらしい。きりりとした瞳とつややかな長い髪が誠実そうな人柄をよく現している。青梅さんは、そんな赤羽さんをにやにやと見ている。
「でもさー、あなたもちょっと緊張してるでしょ?」
「なぜです?」
「だって、このクラスで唯一綾織さんの視線を感じながら授業を受ける人なんだもんね?」
なぜここでわたしの名前が……。よく理解できないまま顔をあげると、目が合った赤羽さんはみるみるうちに頬を染めていった。
「わ、わたしはそんなこと……ま、まったく気にしませんから……!」
そして耳まで真っ赤にして、またわたしに背を向けてしまった。それは、初めての恋心とうまく距離を掴みかねているような初心な素振りであった――。
「えーなにこの感じ。こわい」
「な、なんでこわいんですか……!?」
「いや、新入生スピーチやっただけでクラスメイトからこんな扱いされるなんて思ってもみな……」
葛西さんのなんで、に答えていると、ふいに青梅さんがくいくいと廊下側を指さした。なんの気なしに廊下に目をやり、思わず後ずさりしてしまう。
「何言ってんのさ、綾織さんに憧れてるのはクラスメイトだけじゃないよー?」
廊下と教室を隔てる薄いガラス窓の向こうで、上級生と思われる何人もの生徒が連なって教室を覗きこんでいた。いや、正確には、ガラスにべったりと張りついてまでわたしを覗きこんでいる。目が合うと黄色い悲鳴がガラスを震わせながら響いてくる。アイドルにでも出会ったかのようなはしゃぎようだ。
そして気がついた。他のクラスメイトたちも皆、それぞれに自由な時間を過ごしながらちらちら目を配らせてこちらを見ている。そして目が合おうものなら、恥ずかしそうに顔を背け、またすぐこちらに目をやっては小さなハートマークを飛ばしている。
「な、なんなのこれ……」
思わず呟くと、三人は「そりゃあ」という前置きのあと声を揃えた。
「綾織さんが新入生スピーチしたからね!」
「綾織さんが新入生スピーチしたからじゃないですかあ」
「綾織さんが新入生スピーチをされたからですよ」
今もなお廊下はお祭り騒ぎのようで、どこかのクラスの先生たちが「ホームルームがはじまりますよ! 教室へもどりなさい!」と大声を張り上げている。しかし言葉は届かないらしく、今もガラスを隔てたすぐそばから先輩方の熱い眼差しが突き刺さる。
「ちょっとトイレ!」
耐えかねて立ち上がり、教室を出て全力で走った。きゃあきゃあという声とともに追いかけてきた姿があったようだが、力を惜しまないダッシュで距離を広げつつ、学園長室に飛び込んだ。
「ちょっと!!」
「あらチビ丸ちゃん。威勢がいいねぇ、でも廊下は走んないでね。ちゃんと注意しとかないと教育指導にわたしが怒られるんだからぁ」
佐和さんは接待用ソファで、なぜか一人でジェンガをやっていた。あまりの呑気さに呆れかえりながら、重要なその話を切りだす。
「ねぇ、『新入生スピーチ』ってなんなの」
「あー、そういやよくやってたわねぇ、カンペも見ないで。あれ家で考えてきたの? それとも即興? どっちにしても他の先生もみんな感心してたよ~」
「なんか周りの反応が感心って感じじゃないんだけど!?」
詰め寄ると、佐和さんはジェンガの一ピースに、慎重に慎重に爪をひっかけながら淡々と語り始めた。
「この学園には代々『王子様の登場』の噂があるの。数十年に一度、クリスマス、元旦、バレンタイン、それから入試の日と、年度末のイベントごと必ず大雪になる年がある。その翌年度の新入生には『王子様』が紛れていて、その人に心を許されることは学園一名誉なことだとか一生幸せになれるだとかなんとか」
「はあ? なんなのそのばかみたいな噂」
「あーそういうこと言っちゃうー? まあわたしもそう思ってたんだけどねー。 かわい子ちゃんたちはみんな噂とか大好きだからねぇ、今年もバレンタインぐらいから皆そわそわしはじめちゃってさ。わたしとしても出所もなんも分かんないから勘弁してくれー、って思ったんだけどまあとにかく」
佐和さんの、最後の小さな働きかけで、頑丈なピースがするりと抜けた。
「その年の入学式で新入生代表のスピーチをした人が『王子様』だって語られてるんだよねぇ」
そのときガンと大きな音とともに、学園長室の扉が開かれた。思わず後ずさりするような熱気が舞い込み、テーブルの上に積み上げられたジェンガが音を立てて崩れていく。
「綾織さん、部活ってもう決めちゃったかな!? バスケットボールに興味はない!?」
「いやいや、今の時代はフィギュアでしょ! 我が学園私有のスケートリンクで一緒に踊りませんか!?」
「スポーツなんて野蛮なことやめて、文芸部で愛の詩をしたためませんか!?」
「いやそれより綾織さんのような人には茶道部での心を落ち着かせるひとときがぴったりだと思うな!」
今度はわたしが詰め寄られる側になっていた。先輩たちは鼻先まで顔を寄せながら、息を荒くし目を輝かせている。助けを求めようと佐和さんを振り返ったが、崩れたジェンガにご機嫌を損ねてしまっていた。ああどうやら、地元とも理想の学校とも遠くかけ離れたとんでもないところへ来てしまったらしい。