訣別のための邂逅
白壁の建物からちょうど出てきた男は、肩に落ちた滴に気がづいた。灰にくすんだ空から唐突に雨粒がこぼれ始める。男は何と無しに空を見上げながら軽く息をつき、すぐに目の前の黒塗りの自動車に視線を戻した。
白髪の運転手が軽く一礼してドアを開ける。それに一瞥をくれただけで物言わぬまま、男は外套をなびかせ中に入った。
車が走り出しても男は無言のままだった。雨粒を避けるように街頭を走る人々を横目で見遣る。大降りになった雨が窓を叩くのを眺めながら物憂げな表情をしていた。
「どうかなさいましたか?」
張り詰めた空気に気を遣ったか、運転手が声をかけた。
「ん? いや……」
そこで男は初めて固く結んでいた口元を緩ませる。
男と運転手の付き合いは長い。彼は十代の頃から男の父に仕え、男が生まれてからはその養育係も務めていた。何を気兼ねする必要もなく、どんなことも話してきた相手だ。それだけに気も利く。男の表情の些細な変化にも父親以上に敏感だった。
「今日の会議は、いかがでしたか」
「……あの空気にはまだ慣れん。相変わらず、老人達の相手は疲れるな。父はどうだったのだろう。毎度そのように感じていたのだろうか」
面倒くさいものだと男はこぼし、溜息をついた。
「仕方がないことでしょう。旦那様はもうそれだけのお立場なのですから」
穏やかに言う運転手の言葉に、男は咎められた幼子のように肩をすくめた。
男の父が死んで半年。父親の立場、責務、行動など、幼い頃から傍でつぶさに見てきた男は、その役割がいつ自分のものになっても問題なくこなせると思っていた。しかし実際はどうだったか。
葬儀と、爵位、財産の継承が無事に終わり、男は父親と同じ政治の世界に踏み込むことになった。それからは慌ただしく務めに追われる毎日。と言っても、歳の割にはぎらついた目をした老人達と会い、食事、会議をすることがほぼすべて。そんなことの繰り返しで、思っていたよりもつまらない毎日にすでに男は辟易し始めていた。
「ところで、お前は今年でいくつになった?」
先ほどの会議を思い出し、男はどうにも気分が悪くなってしまった。それを忘れるように話題を逸らす。
「はい。もう六四に」
「そうか……」
オールバックにした金髪を撫でつけ、男は再び窓越しの街頭に目を向ける。道路沿いには真新しい壁の建物が幾つも並ぶ。そのどれもがこの十年以内に建てられたものばかりだった。
「この辺りもだいぶ建物が建て替わったな。子供の頃に見たものなど……」
「もうほとんどありませんでしょう」
四十年前に終わった大戦でこの国は大敗北を期した。その後の復興は目覚ましいのがあったが、その過程で国の様子も大きく様変わりしている。国の仕組みも人々の生活も、列強に習うように目まぐるしいほどに変化した。古い因習や仕組みはある程度捨てられていき、外国の制度や物品が国に流入した。それらが一概に悪かったとは言えない。しかし、
「腐った土台と柱では、外壁をいくら強くしようといずれ崩れるということに誰も気付かぬのか」
独り言にしては大きな声で男はこぼす。視線は相変わらず車の外の風景に向いたまま、表情は硬くなっている。
「わかっていながら、所詮私も何も出来ぬ身だが……」
自分を嘲るように男は乾いた笑いを漏らす。
変わらなかったのは貴族主義と腐敗の構造。現在国政の中心にいる老人達は戦前の栄華に固執し、戦争が終わるやいなやまだ盤石とは言えなかった土台の上に新たな国家を建設し始めた。そのしわ寄せを受けた者がどれ程にのぼるのか男にもわからないが、いつか確実に、この国は傾く。時折大通りから別れる小さな路地の入り口が目に止まり、その先に続いている暗がりが男の背筋をぞっとさせた。この国の闇は男の想像している以上に深いのかもしれなかった。
「この国は変わらねばならない。いずれ取り返しがつかなくなる前に」
父親の口癖になっていた言葉が、自然と男の口から漏れた。
「旦那様がその役目を背負われますか?」
唐突な問いかけに男は少しだけ表情を崩すが、すぐに元の顔に戻ると他人事のように返答した。
「さあな」
と、渋滞なのかそこまでスムーズだった車の列の流れが止まった。
「何だ、事故か?」
問う男の声に運転手は冷静に答える。
「さて、どうでしょう。前が見えませんのでよくわかりませんが」
やや乗り出した体を再びシートに埋め、男は腕組みをする。何が原因の渋滞にせよ別段気にかけることでもなかった。今日の予定はもう全て消化してしまっている。寄り道する気もないが後は屋敷に帰るだけだった。
先ほどまで神妙な顔つきをしていた男はまるで別人のように力の抜けた顔つきになっていた。思考が途切れた拍子に緊張の糸も一緒に切れてしまったようだった。しばらく車が動く気配がない事を悟り、急に襲ってきた眠気に身を任せようと目を閉じる。
それからどれだけ時間が経ったのか。男が微睡んでいた時間は僅かなものであっただろう。やっと動き出した車の振動でまぶたを開くと、不意にある路地の入り口が目に止まる。
「止めろ」
瞬間、男は慌てた声で停車を命じていた。
ちょうどその前で車が止まると、男は土砂降りの雨が車中に入り込むのも気に留めずにドアを開いた。
眼前には閉店の札を掲げた商店がある。その軒下に、雨に濡れまいとしている小さな人影がうずくまっていた。
見るからに薄く、汚れきった服を着た少年だった。髪の毛はくすんでいるものの男と同じ金髪。見た目は十歳くらいだろうか。突然目の前で開いたドアの音に体を震わせ反応する。
男を見上げたその目は怯えていた。
「捨てられたのか?」
当然のように男の口からはその言葉が発せられていた。合った少年の碧眼が微かに泳ぎ、返答に逡巡するかのように口元が開いたり閉じたりする。
やがて小さな頭が縦に振られると、男は溜息を吐いた。
生活に困窮し育てきれなくなった親が子供を捨てるということはよくあることだった。生きていく術を知らない子供達は、その大半が誰にも知られず街のどこかで命を落とす。曲がりなりにも人並みに生きていきたいと望むなら、その身を売られた方がまだ幸せかもしれなかった。
男もそんな子供を目にしたことがないわけではない。その時でさえ憐れみ以外の感情を持ち合わせたりはしなかった。しかし、何故かこの子供に男は惹かれたのだった。その姿が目に止まった瞬間に男の口は停車を指示していたのである。
亡くした子供のせいか。その理由と思われるものが解った男の心にずん、と重いものが転がった。
結婚してから男は長らく子供に恵まれなかった。兄弟が居なかった男は、周囲からその世子の誕生を強く望まれていた。
それから妻との間に待望の男児が生まれたのが三年前のこと。しかしその時期に猛威を振るっていた流行病で、半年も経たないうちに息子は命を落とした。そしてそれ以来失意に沈んだままだった妻も昨年の春に亡くしてしまっていた。その出来事は男の中にまだ尾を引いているのだ。柄にもなく感情的になってしまったのも仕方がないのかもしれない。
一言発したものの、男はその後の言葉に窮してしまった。不思議そうに少年に顔を見上げられ、頭の中で様々考えてみたが、結局一つしか言葉は出てこなかった。
「私と、来るか?」
屋敷で働く気はないか、といった意味合いの言葉にもとれたが、男の意図したところは違っていた。
出自の知れない子供を拾う。
そんなことを考えたのはなぜだろうか。捨て子を拾い育てるような慈善家でもない。男は今年四十を越えたばかり。若い妻を迎えれば、まだ十分子供は望めた。たとえ養子を取るにしても、もう少しまともな伝手があるはずである。
もし父が生きて一緒にいたなら。一瞬そんなことを考えて、男は苦笑しそうになる。そうなら激しく叱責されていたに違いない。酔狂にも程がある、代々続く侯爵家の家名を汚す気なのか、と。もしかすれば、何も言わず待っている運転手も同じように考えてるのかも知れなかった。
だが男は、その苦笑を噛み殺すと少年に向かって言葉を続ける。
「私の家に来れば暖かい部屋と食事が用意してある。ここで雨に濡れているよりは、はるかにいいと思うがな」
男に迷いなどはなかった。少年は自分に向けて伸ばされた男の手とその顔を交互に見比べている。戸惑っているのか。それを見てとると、男は一度手を引きかけた。しかし出来うる限りの優しい笑顔を作るともう一度少年に向けて手を差し延べる。
それを見て、少年の固く強張った表情が若干緩む。寒さに震えながらもその小さな手を伸ばすと、確かな力で男の手を握り返した。
「名は?」
あくまでも穏やかな声で男は問いかける。
「……シオン」
「ではシオン、歓迎しよう。今日からお前は私の息子だ」
どれほど回想に耽っていたのか、窓辺に立ち尽くしていた男は我に返った。深く息をつき静かに目を開ける。
「十五年とは、存外早かったのかもしれん」
感慨深げに呟いて、男は白髪の交じり始めた金髪を撫でつけた。整然とした市街を眼前の厚いガラス窓の外に見下ろし、歩んできた道を思い返す。それでも国の頂点に登り詰めるのは簡単ではなかった。
忌まわしい老人達を排除するのにどれだけの時間を費やしたか。失うものもあった。少なからず血も流れた。
それでも、ここが男の目的とした場所ではない。
「シオン、これがお前の選ぶ道か?」
振り返らぬまま男は問いかける。背後のデスク越しに微かな吐息。そちらへ向き直った男の視線の先には黒光りする銃口がある。それから身を避ける素振りも見せず、男は拳銃を握っている金髪の青年――息子であるシオンに向き合った。
「父上、これがあなたの望んだ世界ですか」
いくらかの非難を含んだ問いかけ。男を見据える目が迷いなど無いと語っていた。対する男も表情を崩すことなく、一人前の顔をするようになった息子を、至極冷静な目で見つめ返すだけだった。
これまでは結果的に男が思い描いた通りに事は進んできた。ここまで来て、あとはこの国を強く作り替えるだけだった。
しかし今、息子は自分の進もうとする道の前に立ち塞がろうとしている。
皮肉だ、と男は思う。父と同じ道を選んだ自分と、自分とは違う道を選んだ息子。父が自分に見せたように息子にもありのままの姿を見せてきた。知る限りの知識を、経験を語り聞かせてきた。この国が、この世界が、どんな流れの中にあるのか。進むべき道を、目指すべき場所を。
「正しかったかどうかは後の人間が判断することだ」
自分が死しても継ぐ者はいると思っていた。その第一の候補と目してきた息子が敵になるとは夢にも思わなかったが。
「お前も解っているはずだ。今のままでは、この国は世界の流れにはついていけない。それどころか、放っておけば必ず内側から崩れる」
「それでも、あなたのやり方では血だけが流れていく。人々を苦しめることをしているなら、前と何も変わらないではないですか」
「だからここで殺すか?」
シオンの瞳が揺らいだ。
暗殺されそうになったことなど一度や二度ではない。このような場面に対する恐怖はもうなかった。息子に殺されるのは、それが運命としても、シオンがどの程度考えて行動しているのかが知りたかった。先を考えられないほど愚かに育てた覚えは男にもない。男が死ぬことで国が乱れるのは目に見えて明らかなこと。それをシオン自身も解っていないわけではないだろう。
沈黙したまま、二人が視線をぶつけ合うこと数分。男は衛士を呼ぶこともせず、シオンも引き金を引くことはなかった。
緊迫した空気が続く中で、やがてシオンが拳銃を握っていた手を下ろす。
「賢明な判断だ」
男の言葉にシオンの表情が歪んだ。完全に主導権は男の手の中に移っていた。拳銃を懐にしまうと、渋面のシオンはいくらか力が抜けたようになる。男から目を逸らし一度俯くが、すぐにまた視線を合わせ、
「俺は、あなたと同じ道は歩まない」
男に、また、一方で自分に言い聞かせるかのようにその言葉を発した。
それを受けて、男は不敵に笑んでみせる。
「いいだろう。私の道を阻みたいならそれに見合うだけの力と方法で向かってこい。お前はお前の道を行けばいい。私は私の道を違えるつもりはない。あとは歴史と運命の流れと人が判断するだろう」
後はもう、多くを語る必要もなかった。無言でシオンは一礼すると、踵を返し部屋を出て行こうとする。
「シオン」
不意に呼び止めた男の声に足が止まる。
「私は、あの日お前を拾ったことを後悔などしていない」
それは男の偽りのない本心で、父親としてかけられる最後の言葉だった。次に会うことはもう無いかもしれない。それでなくても、もう親子ではなくなるのだから。
しかし、シオンは一言も返すことなく、何事もなかったようにまた歩き始めた。男も、息子が部屋から出て行くまでそれ以上声をかけなかった。
十五年を共に過ごした父子の訣別は、それはそれで簡単なものだった。
もう自分以外のいない部屋で、男はしばらくドアの方を見つめていたが、やがて再び窓の方に向き直る。その男の目に、ちょうど降り出した雨粒が映った。奇しくもそれは、男とシオンが出会った日のように徐々に激しくなる様相を見せる。今年も長雨の季節が始まろうとしていた。
「長い雨になるかもしれんな……」
男は大きく、ただただ大きく溜息をついた。